草場修の最晩年の謎
 
                        上原 貞治
 
1.序
 草場修は、昭和時代(おもに戦前)の星図製作者で、京都帝国大学附属花山天文台で研究員をしていた人です。彼の研究歴の全般と京都大学を退職してからの歩みについては、筆者の前稿「草場修の再就職と竹内時男」(*1、リンク)で触れました。今回は、彼の最晩年の様子とその謎について検討します。
 草場修の天文研究が記録されているのは、前稿で触れた「西星会」という天文同好会で1943年(昭和18年)に発行された『西星』という会誌が現存する最後になります。その後1946年に、恒星社厚生閣から「新撰全天恒星図」が、草場修を原図作者として出版されていますが、この星図は戦前に山本一清の校閲で作られた星図の手直しのようで、神田茂校訂となっていて、いつ誰が手を加えて出版作業をしたものか、経緯は不祥です。
 戦後の草場の行状は、杳として知られていませんでしたが、「事実は小説より奇なり」という言葉を地で行くような事情によって、最晩年の様子が明らかになりました。それは、天文とは何の関係もない、実業家の江副碧氏が自分の少女時代の回想を書いた手記にありました。そこに、子どもの時に身近にいた人として、草場修が登場していたのです。江副碧氏(えぞえ みどり、1936-)は、 リクルート事件で有名になった江副浩正氏の夫人で、自らも別に留学支援の会社を立ち上げていて、「Epic World(エピックワールド)」という国際交流などに関する雑誌を主宰し、そこに自身の手記を連載していました。
 草場修のことを知っている天文関係者で、最初にこの手記を紹介した人は、「放物線彗星」さんというハンドルネームの方で、この江副碧氏の手記をジェンダー学の立場から研究した広島経済大学の上田みどり氏 の研究論文(*2)に目をとめたことによります。 そして、前稿で引用したブログ「天文古玩」の著者である玉青さんに連絡され、ブログで紹介されました(*3)。上田氏の論文には、江副氏の手記の相当部分が原文で引用されていて、これで、草場修の最晩年から死去までの経緯が明らかになりました。
 この度、筆者(上原)は、上田論文ではなく、原著である「Epic World」誌の手記(江副みどり『遠い日の光景』第1部、10回連載)(*4)の全編に目を通すことができましたので、それからわかったことを本稿にて記述します。また、それに加えて、草場修の没後に印刷されたとおぼしき研究論文の別刷りの存在についても言及します。
 
2.江副氏の手記の構成
 江副碧氏の回想手記は、第1部が少女時代になっていて、概ね彼女の小学校、中学校の年代の時のことが書かれています。彼女が入学した頃は、小学校は「国民学校」と呼ばれていましたが、ここでは小学校で通します。その中で、草場修が登場するのは、連載の第7回(1回あたり2ページの3段組縦書きの掲載)だけで、これは、彼女が小学生高学年から中学校に入学する年代の頃のこととみられますが、時期の記憶があやふやなのか正確な年が書かれていないので、1年の精度ではわかりません。
 本稿では、まず、碧氏の家と彼女の父の工場で働いていた「草場のおっちゃん」が元花山天文台の研究員の草場修であることを証明しないといけません。そのフルネームおよび具体的な経歴の紹介はなにもないのですが、「望遠鏡で星を観察する」人であること、「軍隊で体罰を受けて耳が聞こえなくなって」いた人であること、「星を発見したとてもえらい人」であること、碧氏のことを「とうちゃん」(大阪の商家のことばで「お嬢ちゃん」のこと)と呼んでいることから大阪に長く在住した経験があるらしいことから、間違いなく草場修であることがわかります。草場修は、正式に星を発見したことはありませんでしたが、花山天文台に入る前後から、天体観測をしながら星図を作っていたので、一般人向けには天体の発見者であるかのように受け取られたと理解できます。「えらい人」とのことは姉から聞いたとありますが、経歴が京大の研究者だから偉い人ということになったのだと思います。 ただ、碧氏は草場の前歴について、それより詳しいことは知らなかったと見えます。このほかに、居住地の1つとして大阪府高槻市の在住歴の符合があります(後出)。私の知る限り、戦前のアカデミックな天文史に残っている草場姓の著名人は他にありません。
 碧氏と草場修との出会いは、戦後まもなく、大阪府茨木市の碧氏の住まいで始まります。当地は、彼女が母親を亡くした直後に引っ越した家です。そこでの草場との出会いと別れは、多感な年代の少女にとって、母の死に続く大事件であったはずで、大きな記憶の間違いや脚色があるとは考えにくく、概ね信頼できる内容と考えます。
 
3.碧氏と草場との出会い
 江副碧氏は、1946年12月23日に兵庫県宝塚市で一緒に住んでいた母親を亡くしました。宝塚市は、家の別荘のあったところで、戦争中は疎開を兼ねていたようです。母親は、碧氏の妹を出産したのち、産後の肥立ちが悪かったそうです。この時、碧氏は小学4年生でした。翌1947年の春、碧氏は父親とともに、父親が近年新しくつくった大阪府茨木市の会社の近くに引っ越しました。父親は、西田己喜蔵という人で、今もある「大阪螺子製作所」という町工場の社長でした(*5,*6)。この1947年の茨木への引っ越しは、その前身である「大阪産業社」という会社を西田氏が1945年に立ち上げたことに起因しており、この会社の近くに家族ともども引っ越したということのようです。碧氏には、兄と姉と弟が少なくとも1人ずついて同居していました。赤ん坊だった妹は、母親の後を追うように亡くなったといいます。ほかに、ねえや、ばあやと呼ばれる家政婦が数人いたようです。
 茨木に引っ越す以前は、父親は大阪市内で軍需用の特殊ピンの製造をする工場を経営していて、仕事が忙しく、妻子のいる宝塚の別荘に来ることもあまりなかったようです。つまり、碧氏は、旧姓が西田で、父親は町工場の創業社長で、その会社は、終戦の頃に改編はされたものの工業用の金物を製造することでなんとか継続して経営がなされたようです。終戦直後の経営は苦くても、裕福な家庭は維持できていたようです。
 碧氏が草場に初めて出会ったのは、茨木に引っ越して来た1年後くらいで、草場はふだんは、「会社のバラック」に住んでいて、碧氏の家(つまり社長の私邸)にも「男衆」として家の作業の手伝いに来ていたということです。草場は、大阪産業社の社員か、もしくは、西田社長の直属の使用人であったのでしょう。ただし、いつ草場が西田社長のところで働くようになったかについては記載がありません。また、碧氏は、草場の夕飯を弁当にして、父親の許可を得た上で会社のバラックに届けに行っています。会社と西田邸、それから草場が住む「会社のバラック」は互いに近距離で、今のJR茨木駅(当時は省線)の近くでした。
 なお、私が、所在地の土地の履歴情報を調べたところ、当時の大阪産業社の工場の場所は、茨木駅の南約500mの現在の立命館大学大阪いばらぎキャンパスの位置(茨木市岩倉町)にあたるようです(*7)。碧氏が草場修のもとを訪れると、草場は、バラックの近くの草庭に床机を出して、「手造りの望遠鏡」で天体観測をしていたということです。おそらく、そこは、大阪産業社の敷地内だったのでしょう。そこ(茨木市岩倉町かその隣接地域)が、彼の晩年の観測場所であったことになります。それは、1947年か48年のことになります。碧氏は、観測場所で草場と一緒に満天の星を見上げ、望遠鏡を「渡して」もらって覗かせてもらい、草場から星の話を聞くのをとても楽しみ、そしてそれがとても幸福だったといいます。
 それからさらに1年ほどののち、草場は碧氏の家に姿を見せなくなり、いぶかしく思っていると、まもなく父親から、草場のおっちゃんが病気で「高槻の老人病院ホーム」に入院したということを知らされます。
 
4.草場修の入院
 草場は、高槻の「老人病院ホーム」に入院しました。碧氏は、これをとても悲しがり、リンゴを自転車につんで2度お見舞いに行きました。茨木市と高槻市は隣どうしですが、当時の碧氏は、一日中自転車で遠乗りする趣味を持っていたようです。茨木や高槻のあたりは、当時はまだ田んぼと畑だらけの田舎だったといいます。なお、碧氏の通う小学校は、現在の豊中市にある私立の「箕面自由学園」でしたが、こちらは電車で通っていました。
 入院1カ月後くらいの2度目のお見舞いの翌々日、草場は亡くなりました。12月中旬のことであったとあります。これが、碧氏と草場氏の交流の最後の別れでした。年は書かれていませんが、草場との交流が1〜2年続いたとすると、草場の死去は1948年か49年の12月ということになるでしょう。遅く見積もっても1950年12月ということだと思います。ちなみに、碧氏は、1949年4月に中学校に入学したはずです。
 草場が入院した「高槻の老人病院ホーム」が何という病院のことなのかは、はっきりしません。また、病名もわかりません。草場は、1900年頃の生まれですから、没年の頃は50歳になるかならないかで、昔の制度の詳細はわかりませんが、今日の養護老人ホームあるいは特別養護老人ホームに相当する当時の「養老院」は、健常者、病人を問わず、50歳くらいの人を収容することはほとんどなかったはずです。一つ考えられるのは、軍隊の訓練中に耳が聞こえなくなったということで(耳が悪かったのは子どもの時からではありましたが)、身体障碍者か傷病軍人の認定を受けていたのかもしれません。また、身寄りの人がまったくなかったようなので、そういう人向けの病院なのかもしれません。それでも、西田社長が身元保証人になったものと思います。
 病院は高台にあった、重いリンゴ箱を積んだ自転車を坂道で押す時に何度も倒してしまった、と書いているので、一つの候補は、現在の高槻赤十字病院です。この病院は、当時も現在と同じ、高槻市阿武野にありました。戦時中から終戦直後は陸軍病院でしたが、1948年から「大阪阿武山赤十字病院」となりました。ここを草場修の死没地の候補の一つとして挙げておきます。また、創立は1950年以後になりますが、救護施設と養護老人ホームが、現在、隣接する敷地にありますので、これらの前身となる部門があったのかもしれません。いずれにしても、碧氏は、一人で2回もお見舞いに行っているので、病院の素性を間違うことはないと考えられます。仮に、これらの場所に草場が入院した病院があったとすると、碧氏の自宅が大阪産業社にごく近いとして、そこから北に約4〜5kmの距離となります。当時の赤十字病院は、今の位置よりさらに山手の、現在、宗教法人真如苑があるあたりであった可能性があります。碧氏によると、病院は「少し遠い」ので頑張って自転車でお見舞いに行ったのですが、病名については、前述の通り、記述がまったくなくわかりません。
 
5.草場著の論文別刷り
 これで、草場修は、1948年か49年に、高槻の病院で亡くなったことになるのですが、草場の研究論文の「別刷り」として、草場修著「続宇宙線の発生源の予言」というのが、1955年頃に出ています。この1955年というのは、草場の死去から少なくとも5年は経過していて、なぞの論文の存在となります。ただ、この論文別刷りの現物は確認できていません。山本一清の関連資料(「山本天文台資料」)として、現在(2023年現在)は花山天文台にある(*8)ことはわかっていますが、未整理で段ボール箱のどれかにはいったままの状態になっているそうです。また、この別刷りは国会図書館にも納本された形跡があり(「納本週報」に載っている)、国会図書館が刊行している『全日本出版物総目録』昭和31年版(1959)にも記載があります(*9)。この昭和31年版というのは、1956年に納本されたことの反映ではないかと思います。ただ、納本されたといっても、現在、登録され閲覧できる状態にはなく、廃棄されたことはないにしても、行方不明か未整理状態であるのだと思います。ということで、この草場の晩年の論文は、日本の有力な機関に存在すると信じられるにもかかわらず、現在、閲覧できないという状況にあります。
 したがって、内容を見ることはできず、現在、見られるのは書誌情報だけです。国会図書館発行の目録では、それは、
                            
著者:草場 修
タイトル:続U 宇宙線の発生源の予言
出版者:著者(高槻)
発行月:9月
大きさ:B5
ページ数:11頁
 
となっています。これによると、発行月は、(1956年)9月の扱いになっています。出版社は、著者自身(自費出版か)ということで所在地は高槻になっています。これは、草場の終焉の病院の地と合致します。
 これで、私は、当初、草場が1955年まで生きていたのではないかという可能性を考えました、それで、多少の疑いを持って江副碧氏の手記を読んだのですが、手記の内容を疑う理由はまったく無く、草場は、碧氏の少女時代、それも母親を亡くした2〜3年後の中学校に入るかはいらないかの時代に、身近なひととして亡くなったという記述なので、年代に大きな誤りがあるはずはなく、草場が1955年まで生きながらえていた可能性はありません。謎は、なぜ、1955年になってからこの論文が印刷され、山本天文台と国会図書館に届いたのかということになります。
 「別刷り」というのは、本来は、論文を、論文誌等に掲載した時に、個々の論文の部分だけ別に印刷した小冊子を少数部数作り、関心のある人に献本する目的でつくるもので、本来の掲載誌があるはずです。普通は、別刷りにその旨記載されます。しかし、論文検索でこの論文は見つからないので、おそらく、論文誌や学会誌には出ていない「別刷り」だけのものなのでしょう。そのようなものは、現在の言い方では、「プレプリント」(出版前論文)と呼ばれるべきものです。それだと、学会誌か論文誌に掲載を意図したが、結局、何らかの事情で掲載されなかったということになりますが、本件では、草場がずっと以前に亡くなっているので、事情が複雑になります。
 これは、謎ですし、現物の論文も今すぐに見られる状態ではないので、憶測をたくましくするしかありませんが、誰かある人が、草場の没後に、彼の遺品の中、あるいは生前に託された論文原稿を見つけ、何らかの事情で、1955〜56年頃に、東亜天文学会誌『天界』あるいは別の学会誌等に掲載を企てたが、掲載できず、別刷りだけが残ったということが考えられます。学会誌や論文誌の場合は、草場が存命でなかったことが掲載の支障になったのかもしれません。また、その人は、草場が高槻の病院で亡くなったことを知っていて、草場の住所を高槻としたのかもしれません。(他の可能性も考えられますが)
 
6.草場修と宇宙線
 天文物理学の話をしますと、「宇宙線の発生源」については、戦前はもちろん、戦後においてもかなり長い間の謎でした。宇宙線とは、大気圏あるいは宇宙から飛んで来る高エネルギーの素粒子のことですが、それが発生源付近で加速される機構は、現在でもそれほどよくはわかっていません。発生源は、何らかの活動的な天体と考えられています。草場が宇宙線の起源について研究していたというのは、たいへん意外で興味深いことではありますが、それでも想定外とか疑わしいというほどのことではありません。というのは、彼には、隠れた共同研究者がいたからです。
 それは、前稿で詳述した、東京工業大学の物理学者、竹内時男です。竹内は、理論でも観測でも宇宙線を研究テーマにしていました。竹内と草場は、2度の北海道での皆既日食観測隊の機会を除いて、共同で天文学の研究をした記録はありませんが、彼らのあいだに天文学の交流があったのは確かなので、草場が竹内から宇宙線研究の話を聞くことはできたでしょう。竹内の写真乾板を使った宇宙線の観測については、前稿に書きました。いっぽうの山本一清や天文仲間からは、あまり宇宙線の話は聞かなかったのではないかと思います。当時の日本では、宇宙線は、天文観測者の扱う領域ではなく、物理学者の研究テーマだったからです。 望遠鏡では宇宙線は見えず、当時は宇宙線を発生する天体はまだ一つも特定されていませんでした。
 また、なぜ、天文研究者の草場が宇宙線の起源に興味を持ち得たかというと、それも考えられる節があります。上に書いたように、彼は、竹内と皆既日食の観測を2度しており、また、自分で変光星の観測もしていました。茨木市の会社の敷地でしていたのも、変光星の観測だったかもしれません(ただし、観測記録は見つけていません)。太陽や変光星のエネルギーが宇宙線のエネルギーの起源であると予言しているのなら・・・、と期待するのですが、残念ながら、論文が読めていないので、ここでは想像のみがたくましくなるばかりです。近い将来、花山天文台の資料室の整備によって、閲覧ができるようになることを期待します(*8)。 なお、竹内は1944年に亡くなっているので、彼が草場の別刷り出版の労を執った可能性はありません。総合的に考えて、出版作業は、戦時中ではなく、戦後の草場の死後に行われた可能性が高く、考えられるとしたら、やはり、東亜天文学会か日本天文研究会の会員か、あるいは、西田家の人によるのではないかと思います。
 
私の今回の稿は、ここまでとしたいと思います。もし、元京都帝大花山天文台研究員で東亜天文学会の会員であった草場修の1944年以降の観測や研究の記録、論文を目にされた方がおられましたら、西中筋天文同好会までご連絡いただけるとありがたいです。
 
7.まとめ
 昭和期(おもに戦前)の星図製作者で天文研究者であった草場修は、1948〜49年頃、大阪府茨木市の大阪産業社(当時・現在の茨木市岩倉町)の工場敷地(あるいはその近く)のバラック宿舎の草庭で、手作りの望遠鏡で天体観測をしていました。そして、その1〜2年後、高槻市の病院で病気で亡くなりました。これらの情報は、草場と親しく星を見ていた江副碧氏(当時11〜13歳)によって手記に記録されていて、その信頼性は高いとみます。
 その後、1955〜56年頃、草場の著(住所は高槻)となる宇宙線の発生源に関する研究論文の別刷りが出版され、少なくとも2つの機関に納本されました。草場が宇宙線の研究をしていたことについては、筆者はこれまで他の文献には見つけていませんでしたが、交流のあった物理学者の竹内時男の影響があった可能性があります。論文別刷りについて、2機関に照会を依頼しましたが、その現物は2023年現在閲覧できる状態になく、出版経緯も内容も不明です。
 
 情報を提供して下さった、放物線彗星さん、玉青さん、いるか書房の上門さん、昭和期の天文史を研究されている嶋森さん、草場の論文別刷りを探して下さった京大宇宙物理学教室図書館と国会図書館、高エネルギー加速器研究機構情報資料室に感謝申し上げます。また、「Epic World」誌を開架で公開してくださっていた埼玉大学図書館に感謝いたします。
 
文献
*1)上原貞治「草場修の再就職と竹内時男」銀河鉄道WWW版第69号(2023)、西中筋天文同好会。http://seiten.mond.jp/gt69/index.htm
*2)上田みどり「Gender学からみる 江副碧の生涯 : リクルート事件を乗り越えて(前編)」、広島経済大学研究論集 広島経済大学経済学会 編 38 (4), 11-29 (2016) 広島経済大学経済学会。https://cir.nii.ac.jp/crid/1520290883416657152?lang=en
*3)玉青「天文古玩」、「貧窮スターゲイザー始末・・・晩年の草場修」(2018)。http://mononoke.asablo.jp/blog/2018/11/10/8995450
*4) 江副みどり「遠い日の想い出」第1部 、Epic World (2003-2006、季刊に連載)、エピック・ジャパン。https://cir.nii.ac.jp/crid/1130282268527239168
*5)「江副浩正の晩年や死因!嫁や子供(息子/娘)・リクルート事件での逮捕・名言・自宅襲撃事件も総まとめ」、NewSee。https://newsee-media.com/ezoe-hiromasa/2#i-5
*6)西田陽一 会長インタビュー「父の背中から学んだ、成長をもたらす『攻め』の経営」(2019)、大阪螺子製作所。http://www.osakarashi.co.jp/anniversary/interview01.html
会長は、江副碧氏の兄に当たる人と推定されます。
*7)鈴木元氏資料(2010)、立命館の過去・現在・未来。  http://ac-net.org/rtm/campus/doc/2010-10-26-suzuki.html
*8)山本天文台目録、京都大学宇宙物理学教室図書館。    http://www.kusastro.kyoto-u.ac.jp/library/shinjo/yamamoto/mokuroku.xls
*9)レファレンス事例詳細 国立国会図書館(2023)。      https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000329613
この事例は、筆者の問い合わせに従って作られたものです。また、国立国会図書館の「納本週報」にも当別刷りの記載があります。


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