草場修の再就職と竹内時男
 
                            上原 貞治
 
 今回は、昭和天文学史のニッチをついた研究を取り上げます。マイナーな話題でしかも未完成なので、読んでいただく方には多少のご面倒をおかけします。標題に掲げた草場修と竹内時男については、ご存じのない方がほとんどだと思います。しかし、ご安心下さい。この2人は、決して無名の人ではなく、少なくとも戦前〜戦中は、一般にもそれなりに知られた、それぞれ天文研究者と物理学者でありました。戦後、忘れられた感がありますが、2人とも、文筆や星図や出版物でアマチュア・一般への科学の普及に貢献がありましたので、それらの資料に触れることも出来ますし、大学に在籍した研究者なので学術界の科学史として研究することも可能です。ここでは、おもに草場修の個人的な経歴について取り上げます。最初に、人物についてすでに知られていることの大雑把な紹介をします。
 
1.人物紹介
1) 山本 一清
 いきなり、2人以外の人になりますが、この2人と研究上の交際のあった著名人かつキーパーソンとして、山本一清(やまもと いっせい、1889-1959)を挙げないといけません。山本一清は、京都帝国大学教授、同大学附属花山天文台初代台長を務めた人で、東亜天文学会(創立1920年)の創設者として知られています。(同学会は、最初は「天文同好会」その後「東亜天文協会」と改名をしていますが、本稿では「東亜天文学会」で通します) 山本は、アマチュアへの天文普及に熱心で、京大在職中から、一般向けの著書や東亜天文学会とその会報『天界』を通じ、アマチュア天文学の基礎作りと発展に尽くしました。また、天文界のリーダーとなるような後進を育てました。戦後の日本のアマチュア天文学の隆盛の過半は、山本の仕事に基盤がたどれるといっても過言ではないでしょう。草場修は、山本がアマチュアから見いだして花山天文台に雇い入れた研究者です。
 山本は、京大で無実の汚職問題に巻き込まれ、1938年に辞職することになります。辞職後も、私設の天文台で研究と東亜天文学会の会長を続け、戦後にいたるまで日本のアマチュア天文学のリーダー的存在であり続けました。
 
2) 草場 修
  草場修(くさば おさむ、1900?-48?)は、大分県出身の天文家、星図製作者で、「新撰全天恒星図」(恒星社厚生閣、1946)の原図作者として知られています。草場は、正式の天文学教育は受けませんでしたが、子どもの時から星が好きでした。子どものころ、聴覚に障碍が発生し、それが軍隊で悪化し、筆談をすることがあったといいます。家族と別れて、職を転々とし、大阪で路上生活をしていたところ、警察の指導もあり衛生組合の溝さらい業に従事するようになりました。その大阪での1928年頃、山本一清の著書『星座の親しみ』(1921)に触れ、独学ながら図書館などで本格的な天文学の研究を始めました。西洋で出版された星図・星表と国内、東洋の天文書を参考に、32000という当時の日本では類例を見ない星数を誇り、星座に西洋名、和名、漢名を添えた13枚組の星図を手書きで仕上げました。
 1933年、草場は、京大花山天文台を訪れ、この星図を山本一清に見せることになります。山本は星図の出来映えにいたく感激し、1934年、草場を花山天文台に雇い入れました。当時、一般世間でも、「ルンペン」(路上生活者)が手書きで世界クラスの星図を描き、京大教授の目に留まって異例の「出世」をしたということで大きな話題になりました。
 山本の当初の意図は、世界最高クラスの星図を製作することだったようです。残念ながら、1938年の山本の京大辞職によってこれは中断し、星数の多い星図は出版にいたらず、現在のところ手稿も見つかっていません。星数が6000程度の肉眼星図、それ以下の簡易星図のみが現在も世に出回っています。
 山本の京大辞職後、草場修はいわば忘れられた人となり、その消息を知る人も少なかったのですが、最近、ブログ『天文古玩』の著者である玉青氏の研究により、その晩年にいたる経過が明らかになりました。また、玉青氏は、草場が製作した星図についてもリストを作っておられます。( *1)のリンクからそれらの研究を参照願います。)本稿では、草場修が京大を辞職してからのち数年間の足取りを、多少の新しい視点を交えてたどります。
 
3) 竹内 時男
 竹内時男(たけうち ときお、1894-1944)については、今回、筆者が新たに草場との関係で着目したものです。竹内時男は東京工業大学の助教授で専門は物理学、渡欧してド・ブロイのもとで研究した経験があります。彼の中心的な研究分野は、放射線物理学の実験、特に、写真の応用にその特長がありました。そもそも当時の放射線の画像的測定は、技術的制約により写真乾板(あるいは霧箱)を使うことが主流でしたが、竹内は、写真メーカーの協力を得て改良した感光剤により、測定対象を宇宙線にまで広げていきました。そのような中、竹内は、天体である太陽コロナ、黄道光の写真観測にも関わり、山本一清と接点を持つようになりました。また、物理学、化学、工学、軍事技術などに関し、一般向けの解説を多く書きました。山本が一般向けに天文学の解説を熱心に書いていたのと時期が重なります。
 学者としての竹内の評価は割れるところが大きいようです。感覚的に研究テーマを広げる様子が大風呂敷のように見えたこともあったようです。1941年、竹内は、放射性物質の人工製造に関する特許申請で、物理学界からの攻撃にさらされました。これは、彼の放射線測定の誤りとされ不正とはされませんでしたが、スキャンダルに発展しました。それが彼の研究にどのように影響したかは判然としません。宇宙線分野で注目される研究はあったものの詳しい論文にまとめることなく、戦時中に病気で急逝したことで、戦後は彼も忘れられた人となりました。
 
 3人の関係を簡単にまとめますと、山本一清と草場修は密接した師弟関係、山本と竹内時男は限られた天体観測分野でつながりがあった大学研究者ということになります。草場と竹内の関係については裏付けが明瞭でありませんが、それを状況から推定するのが本稿の主眼になります。
 
2.京大辞職後の草場
 京大辞職後の草場修の足取りについては、上記の*1)に年譜があります。 山本の京大辞職は、1937年に辞職勧告があって、1938年5月31日に依願退職したとされています。草場が同時に辞職したかはわかりませんが、『天界』210号(1938年10月号)に8月9日付の投稿の記述があり、その直前に花山天文台を離職したと読めますので、やはり山本と同時期の辞職のようです。この時の草場の住居は清水下にあったということです。(『天界』の1943年までのバックナンバーが、*2)にある。)
 1938年11月号の『天界』に草場の出した広告があり、清水新道一丁目で「鍍銀」(反射鏡のメッキ)を引き受けていたようです。ところが同号で草場は東亜天文学会の“地方委員”に着任しており、住所が広島県沼隈郡瀬戸村観測所となっていて、これは山本一清が1937年に開所した「黄道光観測所」のことです。開所後の1年ほどは、本田實(1913-90)が同観測所で地方委員を務めていましたので、草場は1938年9月頃、本田と交代したことになります。この交代は本田が兵役に着いたためです。つまり、草場は、京大辞職後3カ月ほどの間をあけて、たまたまオフィスが空いた瀬戸村の黄道光観測所に移ったことになります。
 その後、草場は、1939年いっぱいまで黄道光観測所に在籍していました。この間、東亜天文学会の写真課幹事にも就いていました。しかし、本田の留守居役でしたので、1939年10月に本田が兵役から戻ってくると*3)、1940年初めよりまた黄道光観測所の地位は本田に戻りました。なお、本田が倉敷天文台に移ったのはもう少し後の1941年です。この後、草場修の名前は『天界』に出なくなりましたので(筆者の確認の範囲では、1940年2月号の写真課幹事の記載が最後)、この時点で草場は山本のもとを離れたのではないかと推定します。
 
3.草場のさらにその後
 その後の草場の足取りはたどりにくくなりますが、*1)にあるとおり、1942〜43年に情報があります。これは、「いるか書房」の上門氏の検討された当時の同好会誌『東星』と『西星』の内容に基づくもので*4)、草場はこれらそれぞれの発行元の天文同好会「東星会」、「西星会」のメンバーであったということです。東星会は、1942年に東亜天文学会関東支部を改組したもので、草場は関東の学会関係者とつながりを持っていたと見えますが、『東星』の広告に依れば1942年時点で草場は京都市左京区一乗寺に住んでいたことになります。また、同年中に神戸市灘区に移った可能性があります。これらの広告は、星図や星表等の「写真複写」に関するもので、彼は、カメラで印刷物の写真を撮る「コピー業」を自営していたようです。
 いっぽうの『西星』は1943年の創刊で、草場は「西星会」の創立メンバーであったようです。『西星』の草場の執筆記事に依ると、草場は一時期(1940〜42年の間の一時期)に某写真フィルムメーカーの「乳剤研究部」に在職していたということです。しかし、これが問題となります。当時、日本の写真フィルムメーカーで「乳剤研究部」を持っていたのは、富士写真と小西六だけで、どちらも研究所と工場は関東(富士は神奈川県足柄、小西六は東京・新宿と日野市)にありました。ですから、この「一時期」、草場は関東に住んでいたことになります。上門氏によりますと、上記の草場の記事だけでは、どちらの会社だったかは判別できないそうです。いずれにしても、関東に住んでいたことによって、東亜天文学会関東支部あるいは「東星会」と関係したと考えるとつじつまが合います。
 さらなる手がかりとして、『西星』の記事の著者として、竹内時男が複数回にわたって登場します。また、竹内と藤澤信、齋藤馨児の共著論文「黄道光と赤外線」が見つかります。この竹内と藤澤は看過できない人たちです。
             
4.竹内時男と山本一清の関係
 竹内は、物理学者でしたが、いくつかの天文学の研究をしています。相対性理論、膨張宇宙、素粒子研究の観点から、物理学と天文学の連携の重要性を早くから認識していました。また、太陽や夜天光への関心は、宇宙における物質の物理学的研究の動機によるものだったでしょう。
 竹内は、1936年6月19日の皆既日食で、北海道遠軽町に布陣した山本一清、草場修らの花山天文台観測隊に加わっています(『天界』1936年9月号の小山寛一の記事)。また、同じ1936年、竹内は、山本が編者となって出版した『図説天文講座』第2巻「太陽 日食と月食」に、「太陽の本体」について解説を書いています。その後、1939年、42年、43年に、太陽コロナ観測と黄道光、対日照の写真観測に関して『天界』に記事を投稿しています。竹内は、著書*5) で日食時の黄道光観測について山本に世界的に優れた貢献があったとしてこれを褒め、また感謝しています。また、瀬戸村の黄道光観測所からの成果についても期待しています。これは、竹内が、山本の黄道光観測に対して最大限の高い評価をしたものです。後述のように、竹内は自らも黄道光と対日照の写真観測をしていて、これについても山本に感謝していますが、竹内が山本の影響で黄道光観測を始めたのか、太陽コロナや夜天光の研究の発展で独自にこのテーマを見つけたのかははっきりとしません。
 
5.竹内と藤澤信の関係
1942年(4号)の竹内の『天界』記事*6)は、1941年9月の沖縄県石垣町での皆既日食中の黄道光観測に関するもので、宮良英副、藤澤信と共著になっています。宮良は、石垣出身の東京物理学校の学生で、皆既日食当日、竹内が石垣に行けなくなったので、彼が観測を代行しました(竹内時男『科学眼』(1942))。藤澤は、1939年に設立された富士写真フイルムの足柄研究所の初代所長になっている人です*7)。竹内は、すでに1937年の時点で宇宙線の写真観測のための乾板の提供を藤澤から受けています*8)。竹内の宇宙線観測は、ゼラチン内部を顕微鏡で見ること、飛行機や地下で観測を行うこと、特異な幾何学的特徴をもつ反応現象を識別したことから、その後発展を遂げた原子核乾板による素粒子探索の先駆となったものと言えるでしょう。1943年の「対日照の偏光度」の研究は、竹内、藤澤と東京天文台の齋藤馨児の共著になっています。これは、前述の『西星』の記事と同じグループの関連した研究と言えるでしょう(観測年月は両者で異なる)。竹内が、数年間にわたって、写真観測の技術面を富士写真の藤澤の研究に支えられたことがわかります。
 
6.竹内と草場の関係
 竹内が日食と黄道光の観測で山本と交流していたことはわかりましたが、竹内と草場の関係を明瞭に示す証拠はありません。しかし、実は密接な関係がありそうで、上門氏の推定によれば*4)、『西星』第1号の竹内の「端書」での「K君」への賛辞が、草場のことではないかということです。また、竹内と草場のそれぞれの『西星』の記事によると、2人は、ともに、1943年2月5日に北海道であった皆既日食の観測に出かけているようです。これが北海道日食での2度目の出会いであったことに2人は気がついていたことでしょう。また、竹内の投稿が『西星』にあること自体が、草場との人脈あってのことと推定します。以上を重ね合わせるならば、竹内と草場には、草場が黄道光観測所にいた頃から信頼関係があったと考えるのが自然でしょう。そうであれば、竹内が1940年頃に、設立間もない富士写真足柄研究所の所長の藤澤に草場を紹介し、そこへの就職の仲介をしたという図式が思い浮かびます。草場が東亜天文学会の写真課幹事であったことも有利に働いたでしょう。
 上に書いたように、草場が富士写真に就職していたという確証はありませんが、まったくバイアスをかけない推定でも富士写真である確率は50%あり、さらに、山本−竹内、竹内−藤沢の明瞭な関係を考えると、草場が竹内の斡旋で富士写真に就職したことは、8割程度の可能性で推定できるのではないかと思います。そこに山本の依頼があったかまではわかりませんが、黄道光観測所で東亜天文学会の写真課幹事をしていた事実だけで山本による高い評価を意味し、竹内が草場を推挙するにはじゅうぶんであったと思います。
 以上を仮定しますと、草場は、1940〜42年の一時期に、富士写真で写真乾板あるいはフィルムの乳剤の研究をしていたことになるでしょう。足柄の近くに住んでいたことになると思います。
 
7.草場の再就職後
 草場がフィルムメーカーにいた時点の資料については、探しましたが何も見つけられていません。メーカーを退職した事情もまったくわかりません。退職後の時点で、『西星』に草場が「写真化学」に関する記事を掲載し、藤澤の記事も掲載されているので、草場が富士写真に就職していて退職後も良好な関係を維持していたとみるならば、何らかのやむを得ない事情に依ったのかもしれません。当時、戦争の拡大によって、写真の軍事応用の可能な研究について自由度が狭められていったということがあり、草場の望む研究がメーカーでしにくくなったという可能性も考えられます。
 1943年に竹内が『西星』に書いた「K君」が草場であるならば、草場はその頃、関西方面(神戸市?)で何らかの勤務をしていたことになります。また、竹内は、草場の職の状況を知っていたことになります。同年2月の北海道日食遠征に同行していたのなら、これらは自然なことと言えるでしょう。しかし、1944年に入ってまもなく、同好会の資料も見当たらなくなり、草場の足取りはまたたどりづらくなります。1944年4月、竹内は病気で急逝しました。
 草場は、戦後の1946年に、「新撰全天恒星図」を恒星社厚生閣から出版しています。これの「校訂者」が神田茂になっている経緯もわかりません。山本一清でないのが問題と言えば問題でしょう。当時、神田は、東京天文台を退官し、日本天文研究会を設立して、「西の山本一清、東の神田茂」と称されていました。草場が東星会で神田との人脈を得た可能性はありますが、終戦直後の何かとごたごたした時代であり、神田茂校訂は恒星社から出された商業上のアイデアかもしれないので、草場が山本を避けて神田に付いたという見方は、多少単純に過ぎるかもしれません。
 *1)に引用されている文献によると、1947年時点では、草場は、大阪府茨木の工場経営者の自宅で「男衆」と呼ばれる雑用係をしながら、手製の望遠鏡で星を見ていたようです。しかし、1948年頃、大阪府下の病院で病気によって没したといいます。
 
 本論の検討に関して、資料の詳細の情報と議論をいただきました、「天文古玩」の玉青氏と「いるか書房」の上門氏に深く感謝いたします。この研究で私のオリジナルの部分は些少でかつ完成度も低いのですが、広い方々に関心を持っていただいて草場修に関する研究を発展させるため、この拙論をWeb上の我々の同好会誌に公開します。
 
参考文献
*1)玉青『天文古玩』、「貧窮スターゲイザー始末…晩年の草場修」(2018)、 http://mononoke.asablo.jp/blog/2018/11/10/8995450 ;「貧窮スターゲイザー、草場修(1〜10)」(2012-15)、 http://mononoke.asablo.jp/blog/2015/04/11/7609224
*2)京都大学学術情報リポジトリ紅『天界』(1920-43)、https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/159113
*3)I.Yamamoto,"Bericht über Japanische Sternwarten." Astronomische Nachrichten, volume 271, Issue 6, p.290 (1941), https://adsabs.harvard.edu/full/1941AN....271..290Y
*4) いるか書房別館、「東星 第3号 昭和17年(その2)」(2010)、
https://irukaboshi.exblog.jp/12337246/ ; 「東亜天文協会関東支部回報 第八号/東星会回報 第一号 昭和17年 」(2011)、 https://irukaboshi.exblog.jp/13221132/ ; 「西星 第4号 昭和18年11月(その2) 」(2010)、 https://irukaboshi.exblog.jp/12429679/
*5)竹内時男『科学千一夜』「黄道光と日本」pp. 57-59、青年書房(1942) 
*6)竹内時男、宮良英副、藤澤信、「黄道光撮影と日食」、『天界』第22巻250号(1942年4号)119p. (1942)、 https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/168358/1/tnk000250_119.pdf
*7)「富士フイルムのあゆみ」「50年のあゆみ> 研究所の設立と天然色写真の研究」、https://www.fujifilm.co.jp/corporate/aboutus/history/ayumi/dai1-09.html
*8)竹内時男「宇宙線写真」日本写真学会誌 3巻5号327p.(1937)、 https://www.jstage.jst.go.jp/article/photogrst1934/3/5/3_5_327/_pdf/-char/ja


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