ソ連の宇宙開発−真実の歴史(後編)
                   上原 貞治
 
 1969年、ソ連は、人間月着陸競争でアメリカに完敗を喫した。しかし、1970年からソ連の巻き返しが始まった。アポロ13号の事故でアメリカの宇宙飛行士が生命の危険にさらされたのをしり目に、無人の探査機で「月の石」をもって帰るという離れ技を見せたのである。そして、次の目標は、アメリカのスカイラブに先んじて有人宇宙ステーションを実現させることであった。
 
 1971年
 有人宇宙ステーションとは、地球を回る軌道上に実験室と居住空間を持った構造体を打ち上げ、長期間にわたって別の宇宙船を利用して人間がかわるがわる乗り移って活動できる施設を指す。アメリカは、1973年にスカイラブという実験室を打ち上げて、これを実現する予定であった。一方、ソ連は、「アルマズ」という軍事目的の宇宙基地の計画を持っていたが、これを科学研究目的に転用したものをアメリカに先駆けて実現することにした。
 1971年4月、ソ連によって人類初の宇宙ステーション「サリュート」が無人でプロトンロケットにより打ち上げられた。その直後に打ち上げられた有人のソユーズ10号がサリュートとドッキングを試みたが、ドッキングがうまくいかず、サリュートに乗り移ることなくドッキングを解いて地上に帰還した。6月にソユーズ11号がサリュートに向かった。今度はドッキングに成功し、3人の宇宙飛行士はサリュートに移乗して24日間の宇宙活動をした。これが、人類初の宇宙ステーションの建設となった。
 しかし、帰還時に事故が起こった。3人の宇宙飛行士がソユーズで地上に向かって降下しているときに、ハッチから船内の空気が漏れた。地上に帰還した宇宙飛行士は遺体として発見された。 せっかくの成功が最大の悲劇の結末となった。その後、軌道上に残されたサリュートに向かってソユーズが飛び立つことはなかった。ソ連の宇宙ステーション計画とソユーズの打ち上げは、一時停止された。
 L1計画は事実上終了したが、L3計画はアポロの月着陸後も続行された。その理由はこうである。−−ソ連にはアポロ以前には、有人月飛行計画はなかった(ことにした)。だから競争に負けたわけではない(ということにする)。しかし、1972年に予定されているアポロの最終飛行のあと、ソ連がアポロより進歩した月飛行計画をはじめるのはいっこうにかまわない。−−もちろん、そのためには準備がいる。L3計画はそういう意味でこれまで同様、秘密裏に続行された。月着陸船の地球軌道での無人試験に引き続いて、N-1ロケットの打ち上げが再開された。6月の3度目のN-1の打ち上げは、制御を失い打ち上げ50秒後に手動で爆破された。N-1の道のりは依然として遠かった。
 やはり、ソ連の面目を保つ頼みの綱は無人探査機であった。この年、打ち上げられたマルス(火星)2号、3号は、アメリカに先駆けて初めて火星面到達をはたした。とくに3号は、軟着陸に成功したと見られる。
 
1972〜1973年
 1972年は、アポロが月へ行った最後の年である。 そして、ソ連にとってもL3計画の中心をなすN-1ロケットの打ち上げ実験の最後の年となった。11月に打ち上げられたN-1ロケットは、またしても第1段の燃焼不良でエンジン停止を余儀なくされた。結局、ブロックDを含めて5段式のN-1ロケットの打ち上げ実験は4回行われたが、第1段が無事に燃焼を終了したことはただの1度もなかった。この後、N-1の打ち上げは停止され、N-1によるL3打ち上げ計画は、1974年に完全にキャンセルされた。
 N-1の開発がうまくいかなかったミーシンは、ソ連の宇宙計画からはずされてしまい、かわりに、チャロメイとグルシュコが中心に座ることとなった。次の計画は、宇宙ステーションとN-1に代わる大型ロケットの開発であった。大型ロケットは、大規模な宇宙ステーションの建設、まだ夢を捨てていない月面基地の建設や火星への有人飛行、それから宇宙往還機の打ち上げに必要なものである。N-1がうまくいかなかったからといって、大型ロケットの開発そのものをやめてしまうわけにはいかないのである。
 1973年、軍事用宇宙ステーション計画「アルマズ」が開始された。目的をカムフラージュするために、サリュート2号という名前にされた。サリュート2号は軌道到達後、内部が機能しなくなったので利用されなかった。ソユーズも安全性の改善がはかられ、この年後半よりソユーズの試験のための単独での有人飛行が再開された。
 時代は移ろいゆく。人間月着陸競争に勝ったアメリカは目標を失った。多額の金を賭けて勝負に勝った後に、損をするかもしれない賭けを続けるのは愚かなやり方である。アメリカは勝負から手を引こうとしていた。アメリカのアポロ計画のあとの計画は、スカイラブであったが、これは1973年の1年間のみで終了した。政治の方でも、ソ連とアメリカの緊張がゆるみ「雪解け」と表現された。1975年にアポロ−ソユーズ共同飛行が行われることになった。その後は、1978年のスペースシャトルの完成(実際には3年遅れることになる)まで、アメリカの他の有人飛行はないことになった。
 勝負を捨てたアメリカに対しては、ソ連も勝負を挑んでもしかたがない。1972年は、米ソの宇宙競争が終焉を迎える年となった。
 
1974〜1977年
 1974年、L3計画は完全にキャンセルされた。グルシュコが新たな大型ロケット建設計画に乗りだした。これが、後の国営会社エネルギアによるエネルギアロケット開発の始めである。これとほぼ同時に、長年続いた「ルナ」による無人月探査も終了した。ソ連の宇宙開発計画も大きな転換期を迎えていた。
 ソ連は当面の目標として「アルマズ」を続行した。1974年6月にはサリュート3号が、1976年6月にはサリュート5号が打ち上げられ、ソユーズで往復する宇宙飛行士によって活動が行われた。軍事ミッションなので成果については公表されていないが、人間が宇宙に長期滞在し、これがソ連の「お家芸」となった。科学目的のサリュート4号、1975年7月のアポロ−ソユーズ共同飛行と、様々な目的を持ったソユーズの打ち上げが並行して行われた。
 1975年7月17日は記念すべき日となった。アポロとソユーズが地球周回軌道上でドッキングし、飛行士の乗り移りが行われた。これは、世界中の人々に競争の時代を終わりを印象づけるものとなった。
 惑星探査では、ヴェネラ9号・10号が金星面の写真を送ってきた。これは、1976年のアメリカのヴァイキングの火星面探査に匹敵する成果となった。世界はソ連の宇宙技術に賛辞を送った。
 ソ連の宇宙開発のオモテの歴史は「純粋科学的」なものを志向するようになった。「アルマズ」は種々の技術的成果を上げたものの、軍事目的としてはコストに見合う成果は得られなかったといわれている。ソ連の宇宙開発の価値を高めるには、ソ連の得意な分野で科学上の成果を挙げるのが得策と考えられたのであろう。1977年以後、ソ連は科学用宇宙ステーション・サリュートの続行、新型ステーション・ミールの開発、それに惑星探査計画の推進を主な課題とした。
 ウラの歴史では、ソ連の長年の夢であった火星有人飛行と宇宙往還機(スペースシャトル)の実現が将来計画とされた。しかし、そのためには新型の大型ロケットが必要である。こうして、エネルギアの開発が秘密裏に進められた。スペースシャトルではすでにアメリカが先行していた。将来の宇宙計画を支えるためには同じもの(ブラン)がソ連にも必要だ、というグルシュコの論法は根拠にとぼしかったにもかかわらず、結果的には採用された。またも、アメリカの計画に振り回されてしまったのである。
 
1978〜1985年
 この間、ソ連の宇宙開発は、宇宙ステーション、サリュート6号、7号での活動を主体とするようになった。無人惑星探査では、金星・ハレー彗星探索のための金星13号・14号、ヴェガ1号・2号が成果を挙げた。しかし、この間、ソ連の宇宙開発のテンポはスローペースとなった。ウラでは、ミール、エネルギアとブランの開発が進んでいたので、そのためにオモテを強力に進める余裕がなかったのであろう。しかし、サリュート6号・7号で培われた長期宇宙滞在の成果は、その後のミール、そして現在建設中の国際宇宙ステーションのための基礎となった。スペースシャトルでは、1回の飛行でせいぜい2週間程度の宇宙滞在しかできないことを考えると、ソ連のソユーズとサリュートのシステムの性能には目を見張るものがあった。さらに、無人の補給船プログレスもこれに加わった。プログレスは基本的にはソユーズと同じもので、いわばソユーズの貨物バージョンである。これによって、人命を無駄に危険にさらさずに宇宙での長期滞在ができることになった。この間にソユーズは、ソユーズTへのモデルチェンジを経て、その信頼性は強固なものとなった。
 一方のアメリカは、1981年になってやっとスペースシャトルの飛行が始まったが、運用に問題が続出し、宣伝文句の利便性、経済性に疑問符がつくこととなった。そして、1985年、ソ連やヨーロッパ連合のみならず日本まで打ち上げて話題になっていたハレー彗星への探査機を見送ったこと、そして1986年1月のスペースシャトル・チャレンジャーの爆発事故により、アメリカの宇宙での優位性は低下することになった。
                       
1986〜1987年 
 エネルギアとブランの開発は進んでいたが、問題が続出し、計画は最初の予定よりすでに3年遅れていた。サリュートによるソ連の宇宙ステーション計画もすでにマンネリの兆しを示していたが、チャレンジャーの事故から1ヶ月もたたない1986年2月、ソ連の新型の宇宙ステーション「ミール」が地球周回軌道上に打ち上げた。これは、サリュートよりずっと進化した科学宇宙ステーションで、多くの実験装置が積まれており、さらに多くのドッキング口が設けられていて、将来モジュールを付け足して発展させることができるようになっていた。現在建設中のISSの先駆けをなすものである。さらに、ソ連はこのような機能を打ち上げ直後に公表した。また、この年、ソユーズTは、ソユーズTMにバージョンアップされた。その後、ミールには複数の科学モジュールが継ぎ足され、ISSの準備のため利用されるようになる。
 ブランは、前にも書いたようにソ連版スペースシャトルのことである。形状もサイズもアメリカのスペースシャトルとほぼ同じである。宇宙往還機はソ連の長年の夢であったが、打ち上げに大型ロケットを必要とするため実現が遅れていた。1970年代に発表されたアメリカのスペースシャトル計画が決定的な引き金となり、ソ連はブランの実施を決意した。将来の人工衛星の打ち上げや大型宇宙ステーションの運用に不可欠だと考えたのである。また、アメリカは宇宙軍事基地の構想(のちのSDIに引き継がれる)を持っていた。ソ連はこれに対抗するためにアメリカと同等以上のものを持つ必要があると考えた。
 エネルギアは、液体水素エンジンを持つ先進的な超大型ロケットである。その最大の目的は、ブランを宇宙空間に運ぶことであるが、エネルギアはそのほかにも宇宙ステーションの打ち上げに利用できると考えられた。また、有人火星飛行などの多く野心的な夢を実現することも視野に入っていた。
 1986年になると、ブランの試作機によって、大気圏内での滑空試験が何度も繰り返された。また、ブランの初の燃焼試験は、1986年3月に行われた。ソ連の宇宙開発は新たな時代を迎えようとしていた。1987年5月、エネルギアの初打ち上げが行われた。当初の計画通り、ブランではなく「ポリュス」と呼ばれる軍事ステーションが搭載された。エネルギアは予定通り燃焼したが、ポリュスは誘導システムの不良で予定された軌道には乗らなかった。でも、エネルギアのデビューとしては上々の出来であった。4回打ち上げても、決して1段目が正常に燃焼終了しなかったN-1ロケットと比べると、めざましい成果であった。
                       
1988〜1991年 
 ついにブランが宇宙に出る日がやってきた。1988年11月、エネルギアはブランを背負って発射台を飛び立った。ブランには人は乗っていなかったが、地球周回軌道に乗り、地球を1周して定められた滑走路に着陸した。完璧な成功であった。こうして、ソ連は、ついに長年の夢であった、大型ロケットと宇宙往還機のシステムを手に入れたのであった。 次回のブランの飛行では宇宙飛行士が乗り込むことが決定された。
 しかし、その後、エネルギアとブランの飛行はなかなか行われなかった。ブランに乗り込む候補の宇宙飛行士の事故死が相次ぐという悲劇もあったが、ソユーズやプロトンロケットが西側の人間や貨物の打ち上げを請け負おうとしていたときにオーバースペックで実績のないエネルギア-ブランのシステムはそうそう必要なかったのである。アメリカのスペースシャトルですら、商業利用から撤退していた。冷戦は終わりを迎え、宇宙軍事基地に金をかけようとする国はもはやなかった。1990年には、日本のテレビ会社が1人のジャーナリストをミールに送るためにソ連に大金を支払ってくれた。ソユーズの高い信頼性はそれだけで金になることがわかった。ブランの有人初飛行は1992年にセットされた。
 考えてみれば皮肉なことであった。1967〜1968年、ソ連は、ソユーズ宇宙船とプロトンロケットの信頼性がほんの少し不足していたために、L1(ゾンド)に人を乗せられず、人間月飛行計画で無謀とも思える一発逆転の賭け(アポロ8号)に出たアメリカに敗れてしまった。L1の開発が遅れた主要な原因は、人材がN-1/L3計画(月着陸計画)の方に分散していたことである。しかし、結局、巨大ロケットN-1はうまくいかず放棄され、新しい計画、エネルギア-ブランが始まった。その開発期間中は、ソ連は、自らの面目を失わないように、つなぎとしてソユーズ宇宙船とプロトンロケットを利用した宇宙ステーション計画や無人月惑星探査を精力的に行った。そして、エネルギア-ブランが完成したとき、かつての問題児、ソユーズとプロトンロケットは、世界でもっとも信頼性の高いシステムの一つにまで成長していた。こうして、エネルギア-ブランは出番を失った。
 1991年12月、ゴルバチョフは大統領を辞任した。ブランの有人初飛行を待たずにソ連は崩壊した。そして、それと同時に、ソ連の宇宙開発も終了した。
 
ソ連崩壊以後
 ロシアは、ソ連の宇宙開発の成果を相続した。しかし、その計画を引き継ぐことはなかった。1993年、経済的な利益をもたらさないブランの飛行に一切の興味を持たないロシア大統領エリツィンはブランを未来永劫にわたって放棄した。ブランの機体はその後、公園に野ざらしで飾られたという。
 そうして、多くの夢を載せるはずであったエネルギアもその後一度も飛び立っていない。 エネルギアを小型にしたようなロケットも設計されたが商業ベースに載らずとん挫している。
 しかし、ロシアは宇宙開発をやめたわけではない。プロトンロケットやソユーズ宇宙船は今や外国となったカザフスタンにあるかつてのソ連の宇宙基地から、現在でもソ連時代にそうであったように宇宙に向かって飛び立っているのである。
(終わり)
 
 おまけのエッセイ: 「ブラン」と「スペースシャトル」 (写真・図版付き)

本稿を書くにあたり、"Encyclopedia Astronautica"(www.astronautix.com)、および ニュートン別冊「宇宙開発」(教育社)をおもな情報ソースにしました。