ソ連の宇宙開発−真実の歴史(前編)
                   上原 貞治
 
 1975年に発行された「銀河鉄道」印刷版26〜28号に「ソ連の宇宙開発」という連載記事を書いたことがある。それが書かれたのは、今から思えばちょうどソ連の宇宙開発が岐路に立っていたときであった。そこに書かれているのは、いわばソ連の宇宙開発の「オモテの歴史」である。そして今ここに書こうとしているのは「ウラの歴史」である。
 「オモテの歴史」は、その時の同時代の世界を動かす役割をなした、と言う意味で真実の歴史である。そして、「ウラの歴史」も「オモテの歴史」を牽引する役割をなしたという意味でやはり「真実の歴史」である。
 1975年当時、ソ連の宇宙開発に「ウラの歴史」が存在することはわかっていたが、その内容は到底知る由もなかった。しかし、1980年代終わりごろからのゴルバチョフの情報の開放政策そして1991年のソ連の崩壊により、「ウラの歴史」は完全に公表されるに至った。現在のロシアの宇宙開発はソ連の遺産で食いつないでいるが、ソ連の歴史を継承してはいない。そういう意味で、いまやソ連の宇宙開発は歴史的事件となった。
 私は、「ソ連」に「旧」の字を冠することをしない。現在の宇宙開発に「旧ソ連」というものはもはや存在しないのだ。それは、「旧ローマ帝国」が現在存在しないのと同じである。
 
ソ連の宇宙開発のテーマ
 1957年のスプートニクで始まり1991年のソ連の崩壊で終焉したソ連の宇宙開発のメインテーマはなんだっただろうか。人によって多少の見方の違いはあるかもしれないが、「有人衛星船と軌道ステーションによる継続的な宇宙滞在」、「無人探査機によるパイオニア的な月と金星・火星探査」というところに落ち着くであろう。しかし、これは、「オモテの歴史」におけるメインテーマである。
 ソ連の宇宙開発の進め方の姿勢はどういったものであろうか。これもおおかたの見方は、「独自の方針」、「着実な進歩」というものではないだろうか。しかし、これも「オモテの歴史」の姿勢に過ぎない。
 実は、ソ連の宇宙開発の「ウラの歴史」のメインテーマは、「有人火星飛行計画」と「有翼型軌道船の開発」であった。有翼型軌道船というのは、いわばアメリカのスペースシャトルと同じものである。ソ連は、第2次世界大戦直後からスペースシャトルのソ連版(本稿では、以後「宇宙往還機」と呼ぶ)の開発をめざしていた。しかし、それがほぼ完成したのは1980年代も後半になってからである。そして、ソ連が崩壊するまで(そして現在に至るまで)それが人を乗せて飛ぶということは行われなかった。有人火星飛行もケネディ大統領の「月旅行計画」演説以前に計画されていた。ソ連は、月旅行などは目でなかったのである。しかし、これも実現されることはなかった。
 そして、「オモテの歴史」の現実は「ウラの歴史」のメインテーマと大きく異なることになった。それはなぜだろうか。それは、ひとことでいえば、ソ連の宇宙開発を率いた「ウラの歴史」での姿勢が「独自の方針」ではなく「アメリカの後追い」に翻弄された結果であり、「着実な進歩」ではなく無理な計画立案と個人的な対立や権力闘争の障害を受けた結果であった。そうして、ソ連は得ようとしたものを失い、得ようとしなかったものを貴重な財産とすることになった。
 ここで断っておくが、私は、しばしばささやかれているソ連の宇宙開発の「隠されたスキャンダル」、つまり「失敗したが公表されなかったいくつかの有人飛行」の存在の可能性にはいっさい興味がない。これらのすべては推測にすぎず、またその多くは興味本位で組み上げられた「フィクション」に属するものである。また、それらが仮に事実であったとしても(そうは思えないが)、それはソ連の宇宙開発の真実の歴史の流れに影響を与えるものではない。よって、ここでは意図的にそれらを取り上げないことにする。また、ソ連が世界に対して「多くの隠しごとをしていた」というのは事実であるが、「ウソの報道をしていた」というのは事実でない。ソ連の宇宙開発はほとんどすべてが秘密に進められたが、彼らは宇宙飛行の成功不成功を偽ることはなかった。失敗した実験を公表しないことはあっても、失敗した実験を成功したと発表することはなかった。彼らは、無謀な計画は立てても、無謀な実行は行わなかった。彼らはメンツを重要視した。しかし、プライドを捨てることはなかった。
 
1957〜1961年
 1957年10月の世界初の人工衛星スプートニク1号の打ち上げ成功から、1961年4月の世界初の有人衛星ヴォストーク1号の成功に至るまで、ソ連の宇宙開発はアメリカをリードしていた。「無理な後追い」をしないといけない状況にあったのはアメリカの方であった。このころのソ連では、有人火星飛行のための超大型ロケットの開発設計が行われていた。これは余裕の現れである。はじめは原子力ロケットが必要かと考えられれたが、通常の化学反応による大型ロケットでも実現可能と結論された。
 ソ連のロケット開発においては、2つのグループがしのぎを削っていた。ひとつはコロリョフのグループ、もう一つはチャロメイのグループである。コロリョフは、スプートニク1号とヴォストークの開発を行った、ソ連のフォン・ブラウンとでも呼ぶべき天才であった。また、チャロメイは、のちにソ連の大型ロケットの名機と呼ばれるプロトンロケットを開発することになる。とにかくこの2つのグループは、ほぼ独立してロケットや宇宙船の開発を続けた。ロケットそのものはグルシュコの率いる共通の製造工場で組み立てられた。
 1961年、アメリカのケネディ大統領は、1960年代に人間の月着陸を実行することを決断した。しかし、ソ連の当事者は、はじめはこれをそれほど重大に考えなかった。彼らは、これをソ連にリードされているアメリカの苦し紛れの大言壮語にすぎないと思ったのであろうし、もうひとつには「死の世界である月に人が行ってもしかたがない」と思っていたのであろう。ソ連は、実際にその時すでに無人ロケットを月に到達させていたのである。本命は火星であった。ソ連の考えはもっともなものであった。しかし、アメリカが大言壮語の通りに計画を進め始めたことはソ連の大きな誤算であった。
 
1962〜1965年
 状況はだんだんと変わってきた。火星飛行が早期に実現できない以上、このままではアメリカ人が先に月に到達してしまい、その段階で「ソ連は負けた」ことになってしまう。それを避けるためには、「勝負に勝つ」しかない。そこで、ソ連でも有人月飛行の開発が始められた。チャロメイのグループは大型の輸送用ロケット(のちのプロトンロケット)で人間を月周回軌道に送る月往復飛行(L1計画)の開発を始めた。そして、コロリョフのグループは、さらに大型のロケットを開発し、それに月着陸船を載せて、人間の月着陸をめざす月着陸飛行(L3計画)に着手した。いずれにしても、従来のヴォストーク用のロケットでは、地球周回飛行はできても月まで人間を運んで帰還させることにははるかに及ばなかったのである。
 1964年、フルシチョフはソ連の有人月飛行計画を秘密裏に承諾した。なんと、L1計画とL3計画の両方にゴーをかけたのである。この時点で、アメリカのアポロの開発はすでにスタートしていたので、ソ連はアメリカを初めて「追いかける」ことになった。アポロ計画の月着陸は早くて1969年と見られていた。ソ連の当初のもくろみは、1966年頃にL1で月往復を果たし、1967年頃にL3で月着陸をする、というものであった。彼らは、アメリカのアポロが1969年までに月着陸を実現させることはむずかしいと見ていたので、ソ連のL1に多少の遅れが出たとしてもアポロに負けることはあり得ないと見込んだ。
 ヴォストークのあとを引き継いだヴォスホート1号が1964年に3人の宇宙飛行士を乗せて打ち上げられた。そして、1965年の2号では、世界初の宇宙遊泳が実施された。宇宙遊泳は、L3計画で飛行士が飛行中に月着陸船に乗り移るために必要とされている技術である。そして、ヴォスホートは2号で中止され、その後は1967年まで有人飛行は行われなかった。それは、月へ行くには新たな宇宙船の開発が必要であるからだ。
 そしてその宇宙船こそ、その後のソ連の宇宙開発を支え、ソ連の崩壊の後も世界各国の人々を宇宙に運び続けているソユーズ宇宙船であった。ソユーズは、人類を初めて月の近くにまでつれていくはずの宇宙船だったのである。
 
1965〜1967年
  しかし、ここからが異変の連続であった。 ソユーズの開発が順調に進められていた1965年10月、L1計画がチャロメイから取り上げられてコロリョフのもとに移ったのである。これは、コロリョフがチャロメイとの内紛に勝ったためと言われている。この時すでにチャロメイはプロトンロケットを完成させていた。コロリョフはそれにL3計画で用いる予定のブロックDロケットとソユーズ宇宙船を組み合わせ、有人月往復飛行を実現できるロケットを設計した。一方のL3計画の方も並行して進められていたが、こちらは、月着陸船と新型の巨大ロケットN-1の開発が難航していた。N-1は、プロトンロケットよりさらに強大なロケットで、ソユーズ宇宙船の他に月着陸船と軌道変更のための加速・減速のロケット(この減速ロケットがそもそもの「ブロックD」である)を同時に宇宙空間に運ぶことができるよう設計されていた。
 1966年1月、コロリョフが癌で急死してしまった。最も大事な人が最も大事なときにいなくなってしまったのである。これがソ連の宇宙開発の最初にして最大の痛手であった。
 コロリョフのあとはミーシンが継ぐことになったが、彼にはコロリョフほどの卓越した才能はなかった。また、チャロメイびいきのグルシュコは、ミーシンにまじめに協力しなかった。しかし、L1計画、L3計画とも続行された。L1計画は順調であった。1966年11月には、ソユーズの無人テスト飛行が行われた。また、プロトンロケット-ブロックDの組み合わせも完成間近であった。
  そして、1967年4月、従来型のロケットを使って初のソユーズ宇宙船の有人試験飛行が行われたが、これが悲惨な結末となった。宇宙飛行士のコマロフが地球の周りを回っているうちにソユーズのコントロールが利かなくなったのである。どうにか大気圏に突入はしたもののパラシュートが開かず、ソユーズは地面に激突炎上した。そしてコマロフは帰らぬ人となった。ソ連の有人飛行は基本的には慎重に慎重を重ね、無人で試験を重ねた上で実施されていた。しかし、この時には多少の焦りがあったようである。ここだけは目をつむって切り抜けさせてほしい、というところを天は切り抜けさせてくれなかった。同じ年の1月、アメリカでも「アポロ火災」で3人の宇宙飛行士が死亡し、アポロ計画は停止を余儀なくされていた。ソ連は、巻き返しの絶好のチャンスを逸してしまった。
 プロトンロケット-ブロックDが完成したので、L1計画の無人試験飛行が1967年4月より開始されたが、最初はなかなかうまくいかず失敗を繰り返した。こうして1967年は悲劇と停滞の年となり、勝負は1968年に持ち越された。
 
1968年
 1968年3月、無人のソユーズL1宇宙船ゾンド4号が、月の軌道近くまで到達して地球に帰ってきた。これで、有人のL1による人類初の月往復飛行が1968年11月にセットされた。続くゾンド5号は、9月に無人で打ち上げられ(亀などの生物を載せていたという)、実際に月を周回して地球に帰ってきた。しかし、大気圏突入時の減速に失敗し、有人飛行に不安を残したので、いま一度の無人テスト飛行が必要ということになった。
 次に、前年に悲惨な事故を起こした宇宙船の有人試験飛行が再開された。アメリカのアポロがわずかに先んじた。アポロ7号が10月に3人の宇宙飛行士を乗せて地球周回軌道に乗せられた。ソ連のソユーズ2号と3号がやはり10月に地球周回軌道に打ち上げられた。2号は無人であったが、3号は一人の宇宙飛行士を乗せており、2号とのドッキングには失敗したものの無事に地球に帰還した。
 11月、最後のL1無人テスト飛行となるべくゾンド6号が飛び立った。これも成功裏に月を周回して地球に帰還したが、途中で宇宙船の空気が抜けてしまい、さらに、パラシュートを開くのに失敗して地面に激突してしまった。月往復は成功だったが、人間が乗っていたら命はなかった。ミーシンは、今一度、無人の試験を繰り返すことを決定した。
 一方、アメリカは、12月にアポロ8号で無人テストなしにぶっつけ本番で有人月往復飛行を強行することを発表した。月を往復するロケットを一度も打ち上げたことのないアメリカが無謀な賭けに出たのである。アメリカも負けるわけには行かなかった。
  1968年12月、ソ連のL1宇宙船は発射台を飛び立たなかった。ソ連は、慎重に無人で試験を重ねる道を選択したが、それは「自力での勝利」を放棄するものとなった。L1に乗り込む予定のソ連の宇宙飛行士が悔しさとともに見つめるなか、アメリカのアポロ8号は月に旅立った。そして、ミーシンの期待に反し、彼らは、月面上空110kmを周回し、無事に地球に帰ってきたのである。こうして、有人月往復飛行でソ連は敗れたのであった。
 
 次の勝負は月着陸であった。このままでは、アメリカは予定通り1969年末までに人間の月着陸を成功させてしまうかもしれない。L3計画は、月着陸船の開発が遅れており、いまだ初飛行のめどは立っていない。一方の巨大ロケットN-1の開発は最終段階にあった。N-1ロケットは1968年に発射台にセットされたが、細かい問題が続出してなかなか打ち上げは行われず、1968年の年末を迎えることになった。
 あと1年でL3で月着陸ができるとは到底思えない状況にあったが、ソ連にはまだ一縷の望みがあった。それは、ソ連と同様、アメリカの月着陸船もまたその完成にてこずることであった。ソ連の勝利はまったくの他力本願となっていた。
 
1969年1月〜6月
 運命の1969年が明けた。1月に有人のソユーズ4号と5号が地球周回軌道でドッキングに成功し、地球に帰還した。ところが、同月行われた無人のL1は打ち上げに失敗した。しかし、もはやL1計画にたいした意味はなかった。アポロ8号のあとのゾンドの成功にどれほどの意味があるのだろうか。
 2月に巨大なN-1の初めての打ち上げが行われた。N-1ロケットの先端には、無人のソユーズL1宇宙船が載せられた。月着陸船が完成しないので、とりあえず月周回飛行をめざすものであった。しかし、N-1は打ち上げ直後にエンジンが停止し、失敗に終わった。
 L3計画は前途多難であった。人類初の月着陸は、どう見てもアメリカのアポロの方に分があった。そこで、ソ連は新たな手だてを考えた。それは、無人での月探査に力を注ぐことである。幸いにして、ソ連の有人月飛行は完全な秘密裏に進められている。ゾンドは単なる「無人月探査」ということになっているし、ソユーズは単なる「有人地球周回飛行」ということになっているのだ。両者をつなぐ「有人月飛行」はオモテの世界には出ておらず、これら2つは別々の計画ということになっている。だから、「ソ連にははじめから有人月飛行計画は存在しない。月探査は無人で十分だ。」ということにすれば良かったのである。 2月に、L1の代わりに無人で小型の月着陸船と月面車を載せたプロトン−ブロックDロケットが打ち上げられたが、打ち上げに失敗した。
 3月、アメリカのアポロ9号は、地球周回軌道で月着陸船のテストをした。そして、ソ連の最後の期待もはずれて、成功裏にこれを終了した。5月のアポロ10号は、月周回軌道で月着陸船のテストを行い、月面まであと15kmまでに接近した。アポロ11号による月着陸は7月にセットされた。 
 6月、ソ連は、アポロ11号に先駆けて「月の石」を地球に持ち帰るための無人月着陸帰還飛行を行うプロトン−ブロックDロケットを打ち上げた。しかし、これもブロックDに点火せず月に向かわせることはできなかった。もう時間が無かった。
 
1969年7月
 アポロ11号の打ち上げは7月16日の予定であった。その13日前の3日、月着陸計画L3のためのN-1ロケットの2度目の打ち上げ試験が行われた。これには、人間も本物の月着陸船も載せられていなかった。ソユーズL1宇宙船と模型の月着陸船が載せられているだけであった。アポロ11号が失敗してアポロ計画が頓挫しない限り、もはやL3計画の出番はなかったのである。しかし、頓挫するのはL3計画の方であった。N-1ロケットは打ち上げ直後に大爆発を起こし、発射台を大破した。
 最後の頼みの綱はやはりプロトン−ブロックDロケットと無人月着陸船による「月の石持ち帰り」であった。アポロ11号の打ち上げに先立つこと3日、7月13日にルナ15号が打ち上げられた。その任務はもちろん秘密であったが、それが月の石を持ち帰ることであるということを想像できた人は少なかった。当時は、そんな繊細な技術がソ連にあることを予想することさえ難しかった。何らかの方法でアポロの飛行を妨害するのかもしれない、と考えた人も多かった。
 7月20日。アポロ11号は月面着陸に成功した。そして同じ日、ルナ15号は着陸に失敗し月面に激突して大破した。
 有人月飛行において、ソ連は初めてアメリカに完敗を喫することになった。その後、ソ連は自らの面目を保つことを最優先した。まず、アポロ11号の成功を完全に無視した。自国のマスコミは何の報道も行わなかった。そして、海外に向けては、「ソ連にははじめから有人月飛行計画は存在しない。月探査は無人で十分だ。」という言明を繰り返すだけであった。
 しかし、この言明をその場しのぎの言い逃れに終わらせることはソ連のプライドが許さない。プライドを保つためは、まず、無人の月探査あるいは惑星探査で実際に大きな成果を上げる必要があった。そして、月着陸以外の有人宇宙飛行の分野で、かつてのヴォストークの時代にそうであったように、アメリカををリードする必要があった。こうして、アポロ11号に敗れたあとのソ連は、宇宙での勝負を続行した。
 
1969年8月〜12月
 ソ連は、何ごともなかったかのように「無人月探査計画」を続行した。8月、無人のソユーズL1宇宙船によるゾンド7号が、月を回って無事帰ってきた。L1計画の初めての成功であった。宇宙飛行士が乗っていたらアポロ8号に匹敵する飛行になっていた。もし、この成功が1年前に達成されていたら、ソ連が世界で最初に月周回飛行をするチャンスがあったのだ。 しかし、すでにソ連には有人月飛行計画は存在しないことになっているので、これは無人月探査計画として発表された。
 ソユーズによる地球周回飛行も続行された。10月に3機とも有人のソユーズ6号7号8号は、「グループ飛行」を行った。この飛行の目的は当時わからなかったし、今でもよくわからない。目的はドッキングのテストのようであった。これは、予定されたL3計画のテストであったかもしれないし、ただ単に、アポロ11号の成功に影響されないで、ソユーズ4号5号の飛行計画を継承しているように見せかけたものかもしれない。
 
1970年
 1970年はソ連の巻き返しの年になった。無人の月探査機による「月の石持ち帰り」計画は、アポロ11号の成功の後でも十分意味のあるものである。「無人でできることをわざわざ有人で行うのは無謀で愚かな行為だ」という論法である。4月、アメリカのアポロ13号が月に向かう途中、機械船の爆発事故を起こし、飛行士達は月着陸をあきらめ命からがら奇跡的に地球に帰ってきた。ソ連の論法には十分な理があるように思われた。
 3月にアメリカは有人軌道宇宙ステーション計画「スカイラブ」をスタートさせることを決定した。ソ連はこれに目をつけた。ソ連もアメリカに先んじて有人軌道宇宙ステーションを打ち上げることをめざすことにしたのである。これまた、アメリカの後追いであった。しかし、今度はソ連には勝算があった。チャロメイはすでに「アルマズ」と呼ばれる軍事目的の宇宙ステーション、つまり、宇宙軍事基地の計画を持っていた。これを科学研究目的に転用することは容易に思われた。6月、ソユーズ9号が宇宙に18日滞在し、宇宙滞在最長記録をつくった。これは、その後のソ連の誇る宇宙ステーションによる滞在最高記録更新の歴史の出発点となった。
 無人の月惑星探査も輝かしい成功をおさめた。9月、ルナ16号は無人での「月の石持ち帰り」を達成した。わずか100グラムの月の土壌を持ち帰っただけであったが、アメリカのアポロが13号の事故で中断されているときに、世界にある程度のインパクトを与えることに成功した。12月には、ヴェネラ(金星)7号が灼熱の金星面に到達した後も電波を送ってきた。世界は、ソ連の無人宇宙探査の技術を認めるようになった。 引き続き、10月にゾンド8号は月周回から帰還した。11月のルナ17号は、無人月面車ルノホート1号を搭載していた。ルノホート1号はその後11か月間にわたり、月面を10km走って観測データを集めた。こうして、ソ連の無人月・惑星探査は十分な成果を上げることができた。
 1968年にソ連が有人月飛行でアポロに負けたのは、プロトンロケットの信頼性が低く有人の打ち上げがなかなかできなかったことだといわれている(結局、現在までプロトンロケットで有人宇宙船の打ち上げは一度も行われていない)。しかし、失敗に失敗を重ねることにより、プロトンロケットはソ連の誇る大型輸送用ロケットの名機となっていった。人間という動物はそれほど賢くはないので、失敗を経験せずに信頼性を高めることはできないのである。
 
 1971年。アメリカはアポロによる月飛行を再開する年であった。そして、ソ連にとっては、人類初の宇宙ステーションを実現させるはずの年であった。
 
                            (つづく)                              
 おまけのエッセイ: 「ゾンド」の思い出 (写真・図版付き)

本稿を書くにあたり、"Encyclopedia Astronautica"(www.astronautix.com)、および ニュートン別冊「宇宙開発」(教育社)をおもな情報ソースにしました。