「ゾンド」の思い出
         
                                       上原 貞治
 
 私が、宇宙開発に興味を持つようになったのは、1968年12月のアポロ8号の時からである。その頃、ソ連とアメリカの月到着競争はクライマックスを迎えているわけだったのであるが、当時の私にはそういう認識はまったくなかった。アメリカのアポロはテレビで実況中継され、華々しく報道された。ソ連のソユーズの打ち上げも報道されていたが、こちらは、打ち上げの事前予告もなく、報道も静止写真ばかりで派手さはまったくなかったし、ソユーズ計画の目的もよくわからなかった。アポロ11号と同時にルナ15号も月をめざしたが、ルナの方は月に到着したという簡単な報道があっただけであった(今から考えると着陸に失敗したのだから当然である)。ソ連には有人月計画はなかった、という言明を私は信じた。
 ソ連の計画の真の意図はともかく、ソ連とアメリカは月飛行でも競争関係にあったのだな、というふうに思ったのは、1970年代になってから、ソ連のルナ16号が無人で月からサンプルを持って帰ったときと、ソ連で巨大なロケットが爆発事故を起こした、というおそらくアメリカの諜報機関からリークされた小さな新聞記事を見つけたときであった(これは、おそらく1971年6月のN-1打ち上げの失敗のことだと思う)。さらに、その頃、宇宙開発の歴史を調べていて、私は、1968年にソ連が「ゾンド5号」で、無人とはいえ初の月往復飛行を成し遂げていたことを知った(私はゾンドの飛行はリアルタイムでは知らなかった)。この時点まで、ソ連が月飛行でリードしていたこと、アポロ8号が一発勝負の逆転劇であったことは、中学生の素人分析家の目にも明らかであった。
 そのときから、「ゾンド」は、私の心に引っかかるものとなった。なぜ、ソ連は無人月探査機を地球で回収させねばならなかったのだろうか。そもそも、「ゾンド」という名前からして謎であった。ソ連の月探査機は、飛行形態は違っても、1961年以来、すべて「ルナ」という名前を持っていた。月のサンプルを持って地球に帰ってきたのも「ルナ」16号であった。なぜ、月探査機のうち、1968〜1970年の数機だけが「ゾンド」という名前を冠されていたのだろうか。「ゾンド」に何かが隠されているらしいことは推測できたが、それがなんであるかは私にはわからなかった。
 1990年に、雑誌で公開されたソ連の宇宙開発史の記事を読んで、ソユーズが有人月飛行のための宇宙船であったこと、ゾンドがその無人テストであったことを知って、私は声が出ないくらい驚いた。しかし、そのすぐ後で、やはりそうであったか、という印象を持った。言われてみると、それが最もありそうなことであった。「ゾンド」が飛んでいた頃に、すでに当時にそういう観測をしている人もあったかもしれない。しかし、新聞にはそのようなことは書かれておらず、地方に住む中学生がそのような情報を得るすべはなかった。
 

 写真、図版はいずれも、ロシアスタート社のプラスティックモデル
「プロトン−K−L1」から。
プラスティックモデルは、L1を搭載したプロトンロケットで、
1968年のゾンドのころを映したもの。
イラストは、ブロックD-ソユーズL1 と ソユーズL1=ゾンドの内部。



 「ゾンド」とはロシア語で「探査針」という意味で、ドイツ語のゾンデ、英語のプローブに対応する。(ロシア語Зондの発音は「ゾーント」らしい)。この名前はもともとは初期の小型の金星探査機、火星探査機につけられていたものだが、後に、ソユーズL1の試験飛行に流用された。有人月飛行用の宇宙船に「探査針」という名前を与えるとは、たいへんな「食わせ物」といえる。
 私は今、「ゾンド」という名前に思いをはせ、当時のソ連はそこまで秘密主義を貫いて月到達競争を遂行させねばならなかったのか、と考えるとなんだか悲しくなる。しかし、それにもかかわらず、「ゾンド」は果敢に月飛行競争に挑んだソ連の栄光の歴史である、ということもまた事実なのである。