『星学手簡』にみる蘭学文献
上原 貞治
1.蘭学の発展史と日本天文学史
「蘭学」というのは、狭い意味では、江戸時代の知識人が、西洋の書物、おもにオランダ語の書籍を見て、西洋の学問を学び、研究したことをいう。当時の日本は、鎖国をしていたが、長崎に出入りしていたオランダ商人を通じて、商品となる物は入っていた。その中に西洋の書籍も含まれていた。幕府がオランダ商人に許していたのは貿易だけであったので、オランダ人が西洋の学問を講義するようなことは幕府の特別な要請がない限りなかったが、書物の購入や研究は、徳川吉宗の享保の改革以降、公認であった。だから、西洋書の研究は、おもに日本人の独学でなされた。蘭学の初めのころは、オランダ通詞(日本人通訳)に翻訳を依頼するのが考えられる方法であったが、西洋の専門的な学問の内容を知るには、通詞が翻訳するのでは不十分で、蘭学を志す者自身が洋書を手に取って読まないと十分でないことがそのうちにわかった。
通常言われる蘭学の初めというのは1730年代に書物奉行の青木昆陽らが行った農学、経済学などの分野のそれである。1770年代になると、杉田玄白、前野良沢による解剖学、平賀源内の博物学、物理学(電気)の知識の導入、そして、同じ頃に、本木良永によって、初めて地動説を記した西洋の天文学書の翻訳がなされた。このあたりまでが蘭学の黎明期であり、1790年代〜1820年くらいになると、蘭学の発展期といわれる。
天文学については、戦国時代から徳川家康の時代に、南蛮人(ポルトガル人、スペイン人など)によって西洋の知識がもたらされていたし、英国からも望遠鏡が伝わっていた。また、中国書(漢籍)を通じて、ティコ、コペルニクス、ケプラーの時代の西洋天文学が日本に伝わっていた。これらは、オランダ商人と関係ないので「蘭学」とは呼ばない。天文学の蘭学の始めは、1770〜1790年代に、地動説やそれにもとづく太陽系の姿を広めた、上で触れた本木良永のほか、長崎通詞から聞いた地動説を考慮に入れた宇宙論を論じた三浦梅園、太陽系の図やその模型を描いた司馬江漢といった人々である。そして、1790年代には、「寛政の改暦」のために幕府天文方に抜擢された高橋至時とそれを助けた間重富も、蘭学に関わるようになる。そして、西洋天文学の高みに向けて日本人として第一歩を踏み出したのが、すでに漢籍からの知識を元にしてケプラーの楕円軌道による惑星運動の推算法を開発していた高橋至時と、元オランダ通詞ながら日本人として初めてニュートン力学の法則を理解した志筑忠雄であった。どちらも1800年前後(寛政・享和年間)の仕事である。
2.『星学手簡』について
『星学手簡』は、幕府天文方の高橋至時と、至時並びに至時の没後に跡を継いで天文方になった高橋景保に協力した共同研究者の間重富の個人的な往復書簡を中心とした書簡集である。これらの書簡は、2人の息子の代の時に、至時のもう一人の息子の渋川景佑らによって、古い書簡がまとめられ写本として後世に残された。数は少ないが、2人以外の人による手紙も含まれている。オリジナルの年代は、2人が寛政の改暦を果たした頃の1798年から高橋至時が『ラランデ暦書』の解読に熱中して体調を崩す1803年までが中心である。ここで紹介するリストの年代範囲も、1798年〜1803年となるとみられる。
この時期、至時は天文方として江戸におり、重富は自宅のある大坂に帰っていたので、これは、おもに江戸と大坂のあいだの書簡ということになる。書簡には、様々な人の名前が出てくるが、幕府御用の関係の仲間としては、2人の師匠である大坂在住の麻田剛立、剛立の跡継ぎの養子の麻田立達、至時の弟子で測量で名を挙げる伊能忠敬、重富が西洋書の探索のためにオランダ語を学ばせた橋本宗吉などである。2人の兄弟弟子にあたる足立信頭と高橋至時の跡継ぎの高橋景保は、至時の没後に重富の強力な共同研究者になるが、この時代は、まだ「身内の人」ということで家庭内の話題がおもである。
『星学手簡』には、いくつかの蘭学文献の話題が現れる。そして、そのほぼすべてが、彼らのその時期の研究内容に関連していることがわかる。寛政の改暦後、至時と重富は、中国文献からはもはや新しい情報が得られず、西洋の文献を当たる必要があることに気付いた。つまり、この『星学手簡』の時代こそ、日本のプロの天文学者が、初めて西洋の天文学文献に触れた時代であり、しかも、それは、彼らに託された研究に、必要かつ適切に役立つ手段となるものであった。
ここでは、そこでどんな西洋書が求められたかを、『星学手簡』の全編を探索することによってリストした。以下で挙げたのは、何らかの蘭学文献に由来すると推定される記述である。特定の蘭学文献の推定が可能なものは、具体的な候補を挙げた。なお、西洋からの天文知識であっても、書物と直接的に結びつきそうにない件(たとえば、輸入物品や西洋風の器具だけが紹介されている部分など)は取り扱わなかった。
3.『星学手簡』とその蘭学文献リスト
『星学手簡』の内容については、国立天文台図書室蔵の写本のWeb公開画像を利用した。全画像が、文献データベースサイト[A][B]において公開されている。これは、上中下の三巻にわかれている。下に括弧内にある「画像ページ番号」は[A]にもとづくものである。[A]の画像は、(1)から(332)まである。活字による全編を通した翻刻は行われていないという。
3.1凡例
以下にリストされる項目の凡例を掲げる。
通し番号)「『星学手簡』の文献の引用語句」 (国立天文台図書館Web画像[A]ページ番号)差出人→受取人
@日本での書名 A原著者、訳者 B洋書の書名、その他の情報 C『星学手簡』から読み取れることがら Dさらなる注釈
洋書の書誌が完璧に記載されている例はないので、@ABはすべて推定である。基本的に、当時の蘭学文献はおもにオランダ語版が利用されたので、Bは、オランダ語版を中心に選んだ(13)だけが英語書)。また、版年を特定する推定が効くものは、出版年も記載した。一般に、蘭学文献の多くは、オランダ語版が翻訳本で、原著に英語、仏語、ラテン語などのものがあり、また和訳が出回っているものもあるが、日本では、版の言語に関わらず、同じ日本名で呼ばれることが多かった。また、原著とオランダ語版は必ずしも同じ内容構成とは限らないので、ここでは、原著については、原則として原著者名のみを掲げた。当時のオランダ語のスペルにおいて、“y”と“ij”は等価(置き換え可能)と考えて良い。CDは、筆者(上原)の力では古文書がじゅうぶんに解読できないので、誤りが多々あるものと思う。
3.2 リスト
1)「日本の事を書候本」(53)間重富→高橋至時
@ケンペル『日本誌』A Engelbert Kämpfer、J.G.Sheuchzerオランダ語訳B De beschryving van Japan (1729) C「書名は忘れたが日本の事を書いた本に、オランダ国の15里(距離の単位)は日本の25里に当たるとあると、惣吉が報告した」という意味の記述がある。ケンペル『日本誌』には、地球上の緯度1度の距離が25日本里に当たるという記述があり、かつ重富らが、ドイツマイルの15マイルが緯度1度に当たることを知っていたことを示す記述が後に(8)参照)出てくるので、15ドイツマイルは日本の25里であることになる。Dこれは、伊能忠敬が測量で緯度1度の長さが28.2里であることを突き止める前の情報である。なお、同じ書簡文が、(328-329)に重複して記載されている。ケンペルはオランダ人ではなくドイツ人で、ドイツ語ふうにはケンプファーと発音する。報告者の「惣吉」とは上述の橋本宗吉であろう。『日本誌』の和訳者としては、『鎖国論』の志筑忠雄が有名で、志筑も地球測量を『暦象新書』で論じているが、この時はこれらの和訳の完成前で、重富も志筑のことはまだ知らなかったのではないか。
2)「ウーヘン」(101)高橋至時→間重富
@ウーヘンスコールAPieter MeijerBAlgemeene oefenschoole van konsten en weetenschappenCここで、高橋至時は、五星(水金火木土の5惑星)の軌道要素を記した西洋の天文書を探している。至時は、地動説とケプラーの楕円軌道に従って惑星の位置を推算する計算方法を確立し、惑星の軌道要素のデータを、独自の観測と最新の西洋文献の両方から求めようと探索していた。本書をそのために取り寄せたいと言う。D本書は、ウーヘンスコールすなわち「実業学校」の教科書のような本である。司馬江漢がこの本に由来する「オルレレー」という地動説による太陽系模型を日本語で図解しているので、江漢の情報から、この書に惑星軌道のデータがあると目につけたのかもしれない。「ウーヘンスコール」として(295)にも現れ(こちらは間重富→高橋至時と推定)、そこでは本書に由来する何らかの図の写しを入手しているようである。
3)「桑名侯の蘭書」(101-102)同上書簡
@ヘーメルロープキュンデASimon van de MoolenBAstronomia of Hemel-loop-kunde, 1702
Cこれも惑星軌道に関する情報源で、水星の(楕円軌道の)「平行の進退差」の記述があるという。「桑名侯蘭書」は(290)にも出てきて(これは、間重富→高橋至時の書簡か)、やはり惑星軌道に関する情報がらみなので、同じ書籍であろう。(302)にも現れる(13)参照)D書名は、書簡の記述だけではわからないが、桑名侯(桑名藩主で蘭学者であった松平忠和)の所持する洋書についての研究[1]から上書が推定される。「ヘーメルロープキュンデ」とは天体軌道学というような意味である。
4)「天地二球用法記」(103)同上書簡
@天地二球用法記AGeorge Adams, J.Ploosオランダ語訳、本木良永 和訳BGronden der starrenkunde 1770 Cここでも、惑星の軌道要素が議論されている。また、プトレマイオス、コペルニクス、ティコなど西洋天文学者のカタカナ名と漢字表記の対象がされている。これで、漢籍の西洋天文学とオランダ書でのそれの対応関係が一部取れたのであろう。D題名が似ていて紛らわしいが、本書は、本木が日本語で初めて地動説を紹介した『天地二球用法』とは別の書物である。これだけでは、至時がオランダ書と和訳本のいずれを指したか不明であるが、間重富は、1798年に和訳書の評論を書いているので、その段階では、本木訳書を見ていたはずである。なお、本書は(130)(291)にも現れ、(130)には至時が「中川様」(旗本・勘定奉行・中川飛弾守忠英か)に借りたとの記載があり(書簡は、間重富→高橋至時と推定)、(291)では「天地二球」となっているが、惑星軌道要素に関わる話と読めるので、やはり同じ書であろう(間重富→高橋至時と推定)。
5)「ナチュルキュンデ」(104-105)同上書簡
@ナチュルキュンデABenjamin Martin, Isaak Tirion オランダ語訳B Filozofische onderwijzer, of Algemeene schets der hedendaagsche ondervindelijke natuurkunde 第2版 1766Cこれも惑星の軌道要素に関連して参照したいという洋書で、「松浦侯の蘭書」ということで書名はわからなかったものを前野蘭化(前野良沢)から、次の書誌を教えてもらったとある。「(書名)ナチュルキュンデ (作者)ベンヤミン(姓)マルチン(名) 荷蘭都 アムステルダム之板 千七百六十四年再板」とあり、特定は容易である。作者の姓名は逆、出版年は、ローマ数字を読み誤ったものかD原著は、英国の事典制作者B.Martinによって英語で書かれた本である。オランダ語のondervindelijke natuurkundeは、実験的自然学といった意味で、植物学、天文学を含んだ自然観察の知識を広く扱った本である。「ナチュル」は(295)にも現れ、惣吉(橋本宗吉)に読ませたいということであるが、同じ本であろう。その時点でも、至時、重富とも本書を入手できていない。松浦侯とは、平戸藩主・松浦清(松浦静山)のことである。
6)「公儀『ボイス』」(129)間重富→高橋至時
@「ボイスウオールデンブック」または「ボイス学芸事典」AEgbert BuysBNieuw en volkomen woordenboek van konsten en weetenschappenCここでも、惑星の軌道要素の諸数があることが期待されている。至時が公儀から借りたという。Dこれは百科事典のような本である。なお、「ボイス」という名の蘭学文献のオランダ人著者は複数いて、対応する蘭書も複数あるが、ここでは、公儀(幕府将軍)所有の本[2]として本書が推定される。(294)にも現れ、それは、江戸と京都に「ボイス学芸事典」が存在するという重富の情報である。
7)「(橋本惣吉の伝えた内容のある)蘭書医書(書名は失念)」(160)間重富→高橋至時
@不明A不明B不明Cこの本には、ある医者が天文家に尋ねると「風邪が流行している時は、夜空の星宮(星座)が普段と違っている」と答えたことが載っているという情報が橋本宗吉から重富伝えられた。重富は不審を述べている。
8)「西偉の十五里といひ六十里といふ」(164-165)間重富→高橋至時(推定)
@不明A不明B不明C「西偉」というのは西洋の偉人の著作という意味か。ここでは、伊能忠敬の測量で判明した緯度1度の長さの精測値 28.2里を西洋の文献値と比べようとしている。西洋文献は一書ではないだろう。西洋書に、異なる西洋の単位で、それは15里であるとか60里であるとか69里半であるなどの記述されているが、それらは精密な値なのか端数が省略された概数ではないかということが詮索されている。Dこれらの西洋の値は、それなりに正確であった。西洋の単位で、緯度1度の長さが15ドイツマイル(Meile)に当たり、60海里(admirary mile 後の nautical mile)に当たるのは、定義値であり、その意味で正確である。また、69.5英マイルは、定義値ではないが約111.9kmにあたり、そこそこ正確な値である。伊能忠敬による28.2日本里は110.7kmに当たり、さらに正確な値であった。正確であったにしても、この時点では、西洋の単位と日本の単位の正確な換算がわからず、どうにもならなかった。なお、現在の知識では、北緯40度付近の緯度1度の距離は、約110.9kmである。結果的に1)にあった25日本里のみが不正確な値であった。後に『ラランデ暦書』(11))を見て、伊能の値が別の新しい西洋の値(フランスの測量)と合致し正確であったことがわかったという。
9)「杉田玄伯の咬 ロ留 ロ巴 暦の蘭本」(166)同上書簡
@咬 ロ留 ロ巴(カルパ)暦(カルパの「ル」の漢字は、くち偏に留で一字、「パ」は、くち偏に巴で一字)A不明B不明C蘭語本の多くには長崎の緯度は33度とあるが、杉田玄白(原文では「玄伯」)が所持していたカルパ暦を借りて読むと、32度40分とあったという。Dカルパ暦というのは、オランダ東インド会社の本拠地があったバタヴィア(今のインドネシアのジャカルタ)で出版された天文を記載したカレンダーのことであり、通常オランダ語で記されていた。ただ、カレンダーといっても、大衆向けのものから航海暦に当たるものまで様々で、この名だけで特定の暦を判明できるわけではない。日本の天文家は、異なる種類のバタヴィア出版のオランダ語暦を、まとめて「カルパ暦」の名で呼んでいたふしがある。この時、間重富と伊能忠敬には、長崎まで測量を計画中であった。
10)「蘭書イキリスフランス暦或は推歩暦等」(218)同上
@不特定A不特定B不特定C間重富が長崎に測量と日月食観測のために赴く時に蘭書を探してくるようにという高橋至時の依頼があったものか。至時はある程度の選別条件をつけたようだ。重富は、一計策を使って入手を工夫すると言っている。D特定の書を指定したものではないだろう。推歩暦とは、当時の文脈では、惑星の位置予報計算(惑星の天体暦)のことだと思う。重富はいろいろな策を弄して舶来の書物を調達する努力をした。
11)「奇書(冒頭朱書にラヽンテ暦読)」(260)間重富→高橋至時(推定)
@ラランデ暦書AJ-J.L.de Lalande、A.B.Strabbeオランダ語訳BAstronomia of Sterrekunde 1773C高橋至時は、このラランデ暦書を幕府上司の若年寄・堀田摂津守正敦から短期間借り受けたが、他人の個人所有物であった。しかし、天文学の計算のためにたいへん重要な書物であるので、何とか購入したいとしていた。80両という高値を要求されたという。それで、間重富と入手について相談をしているものである。Dこののち、至時は、幕府の便宜により、ふたたびラランデ暦書を入手することが出来た。そして、翌年に没するまで、解読を進めたが、これが彼の寿命を縮めたものといわれている。のちに、間重富、渋川景佑らが本書を研究し、『新巧暦書』と呼ばれるようになった。その計算方法は天保暦に取り入れられた。
12)「蘭書字引に『はるま』と申書」(298)間重富→高橋至時(推定)
@ハルマ辞書、江戸ハルマ、ハルマ和解などAFrançois Halma 稲村三伯 和訳 B蘭仏辞典 Woordenboek der Nederduitsche en Fransche Taale, 1708を1796年に和訳したもの。結果として蘭和辞典となるCこれは白川侯(元老中・白河藩主・松平定信)の家臣の通詞が翻訳したもので、オランダ語の辞書として蘭学に役に立つという。Dこの家臣とは、稲村にハルマ辞書の翻訳のための情報を提供した石井庄助であろう。当時、蘭学をしている学者でも、蘭和辞典を持っている者は少なかったらしい。
13)「杉田伯元イキリスの暦」(302)同上
@アンゲリア航海暦 または 1795年用英国航海暦A Commissioners of LongitudeB The Nautical Almanac and Astronomical Ephemeris, for the Year 1795, 初版(1790)C杉田伯元(玄白の養子で跡継ぎ)がこの英国航海暦の5月のところを読み、そこに木星の四小星(ガリレオ衛星)の周回のデータを見つけたとある。重富と至時は、桑名侯から借りた蘭書(3)のことか)にあるとおり、この現象を離れた2カ所で同時観測をして時刻合わせをすれば、里差(地上2カ所の経度差)が測定できると知り、それを彼らの測量に導入しようとした。Dこのあとまもなく、至時は、この部分の写しを入手し、『諳厄利亜(アンゲリア)暦考』として和訳した。ただ、木星の衛星現象の精密な測定は、彼らの機器では難しく、後年、渋川景佑も英国航海暦などでこれを研究したが、実用にはあまり役立たなかったらしい。
4.まとめ
『星学手簡』の時代に、高橋至時、間重富が読もうとした(あるいは探した)蘭学文献のほぼすべては、彼らがその頃に研究していた地図測量と惑星の軌道計算に関わるものであった。彼らは、すでに研究中であった学問の必要上から西洋の知識を取り入れようとしたのである。天文学における蘭学の発展は、学問研究の必要性によってリードされたといえる。
参考文献
[A] 『星学手簡』国立天文台図書室蔵 国立天文台図書館貴重書 https://library.nao.ac.jp/kichou/archive/0246/kmview.html
[B] 『星学手簡』国立天文台図書室蔵 国書データベース、国文学研究資料館
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100265804/1?ln=ja
[1] 横塚啓之「日本の江戸時代における対数の歴史 [縮約版]」数理解析研究所講究録 第 1677 巻(2010)131-140, https://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~kyodo/kokyuroku/contents/pdf/1677-14.pdf
[2] 永積洋子「18世紀の蘭書注文とその流布」 平成7年度〜平成9年度科学研究補助助金研究(課題番号07451078)報告 (2008) https://libir.josai.ac.jp/il/user_contents/02/G0000284repository/pdf/JOS-kaken7451078.pdf
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