編集後記
発刊部 上原 貞治
「銀河鉄道」WWW版の「編集後記」では、ここのところ毎年1回は、NHK大河ドラマについて、天文や暦に関係しそうなことを取り上げている。昨年は、『光る君へ』に出てきた安倍晴明を天文学史関係者とみて取り上げた。さて、今年は『べらぼう』(副題「蔦重栄華乃夢噺」)である。
『べらぼう』の主人公・蔦重こと蔦屋重三郎は、「江戸のメディア王」と呼ばれている版元(出版業)の人で、こじつければ何にでもこじつけられそうだが、直接、天文や暦にむずび付くことはないようである。しかし、幸いにして、銀河鉄道の今号に結びつけるのはごくたやすい。平賀源内と松平定信が、今号の拙論「『星学手簡』の蘭学文献」に出てくるからである。といっても、この2人は、『星学手簡』にはあまり関係ない人たちである。私が取り上げたのも、必然でもなければこじつけでもなく、背景の流れでたまたまそうなった程度である。いっぽう、この2人は蔦重の生涯には決定的な影響を与えた人であった(と、大河ドラマの全体では、そうなるはず)。
蔦重と平賀源内、松平定信の関係は、大河ドラマに譲ることにして、ここでは、蔦重、源内、松平定信が、『星学手簡』の時代の蘭学にどう結びつくかを考えてみたい。
平賀源内は、蘭学勃興期に不幸ないきさつで亡くなっているので、その約20年後が舞台の『星学手簡』の高橋至時、間重富に直接的な関係はない。しかし、(至時、重富の)青年期に亡くなった著名人というのは、やはり微妙な間接的影響を与えることになったのではないだろうか。源内は、オランダ語文献を読んで学問研究をするタイプではなく、蘭学者としても正統派とは言えないだろう。しかし、とにもかくにも、理工学の分野でオランダ経由の学問知識を日本国に役立てようとしたという点では、至時、重富の先達と認めざるを得ないのである。蘭方医家の杉田玄白、洋画家で蘭学者の司馬江漢は、源内の弟子格であったという。弟子といっても、源内が蘭学を教えたわけではなく、絵画や出版のための情報を教えて、代わりに蘭学文献の知識を聞いたのであろうが、この玄白、江漢は、『星学手簡』の登場人物であり、実際に、間重富らに蘭学知識を伝えた人達である。また、源内の有名な「エレキテル」は、日本の電気学の始めで、その後継者は、橋本宗吉と青地林宗で、この2人はそれぞれ間重富と高橋景保(至時の息子で跡継ぎ)の「部下」格ということになっている。
ここで、脱線の私見だが、この時代の江戸時代でいうと、平賀源内、三浦梅園、志筑忠雄の3人は、間違いなく天才で、それもマルチタレント型の天才であったと思う。残念ながら、同時代の日本には、彼らに着いていける人は一人もいなかった。高橋至時、間重富も天才に近い人ではあったが、そこまではいかず、至時は、今で言うなら理論物理の秀才、重富は知恵と機知の秀才と言ったところか。そのぶん、同時代に弟子が多くいて、今日につながる日本の科学の土台を作った。
松平定信は、「寛政の改革」で有名である。至時と重富が行ったのは「寛政の改暦」である。一字違いだが、時代が少しだけズレていて、寛政の改革は寛政5年の松平定信の失脚(老中解任)で終わった。寛政の改暦で至時と重富が江戸に行ったのは、寛政7年なので、両者に直接のつながりはないであろう。失脚後の松平定信は白河藩主に戻っていたから、幕府天文方・高橋至時の上に老中・松平定信がいたわけではない。しかし、定信は蘭学に興味があって、『星学手簡』にあるようにオランダ語辞書の整備を家臣に持ちかけたらしい。平賀源内の時代は田沼意次で蘭学も含めて開放的であり、そのあとの松平定信は規律にうるさくシブチンというストーリーであるが、定信も地道な考えで蘭学の重要性を認識していたのであろう。また、文学、蘭学の双方で、平賀源内の門人であった森島中良が、白河藩に出仕して、失脚後の定信に仕えたというのも面白い。
最後に、蔦重本人である。蔦重が蘭学をどれほどやったかは私は知らない。源内や玄白の蘭学の著作は、当然目にしたと思われるが、彼自身がその方面の出版をしたことはないだろう。当時は、まだ黎明期だったし、蔦重は、『星学手簡』の時代が始まる頃に亡くなったので、蘭学が花開いた時代は生きていない。おそらくは、オランダから輸入された印刷技術を使うということも彼の生きている間にはなく、それは、少し後の二代目、三代目の時代にあたるのだろう。この手の技術で有名なのは、「ベロ藍」(プルシアン・ブルー)と呼ばれているドイツ製の青絵の具である。ウィキペディアによると、この絵の具を最初に紹介したのは平賀源内、絵で使ったのは伊藤若冲だが、版画で広めたのは、葛飾北斎の『富嶽三十六景』であるという。そして、この北斎を発掘したのが初代蔦重だと言われている。ただし、『富嶽三十六景』を出版したのは、蔦重の耕書堂ではなく、その協力者でもあり対立するライバルでもあった西村屋ということだ。喜多川歌麿、東洲斎写楽を世に出し、そして葛飾北斎を発掘した蔦重の本当の価値は、彼が没して、50年〜100年後に、浮世絵が西洋でジャポニズムを興したことかもしれない。彼は、蘭学の成果を西洋に還流した方向のひととして挙げるべきなのであろう。
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