宮沢賢治と稲垣足穂の文学の科学上の問題点
 
上原 貞治
 
0.はじめに
 私たちの天文同好会誌は「銀河鉄道」というタイトルですが、私は今まで宮沢賢治の文学に立ち入って書いたことはなかったと思います。高校生時代に、他の方が宮沢賢治の「星めぐりの歌」などについて書かれたのは覚えています。また、11年前に、私は、野尻抱影が初期の宮沢賢治全集に語註をつけた件(リンク)を紹介しました。
 長年続けてきましたから、このへんで、賢治の文学作品の内容に関するものを一つ書いてみたいと思います。一方、稲垣足穂の文学については、本会誌ですでに何度か取り上げていますので適宜ご参照ください。文学といっても、実は、日本の大正時代の科学史に関係する話になります。
 
1.発端・宮沢賢治
 宮沢賢治(1896-1933)のよく知られた詩である「永訣の朝」という作品と、稲垣足穂(1900-77)のこれまたある程度知られた「『星遣いの術』について」という短編小説に、似たようなモチーフを見つけたのが、私の問題意識の発端でした。「永訣の朝」は賢治の妹のトシ(とし子)が亡くなった日のことを歌った詩で、「あめゆじゅとてちてけんじゃ」というとたいていの方はご存じだと思います。全体の引用はここではしませんが、ネット等でご覧ください。私が注目したのは、
 
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
 
というフレーズです。トシは、病気で亡くなる日に、熱にあえぎながら、賢治に、外に行って雪を取ってきてほしいと頼んだのです。この日はみぞれだったそうです。
 ここで、注目されるのは、雪が降ってくる出発点にわざわざ「銀河や太陽」を挙げていることです。雪雲ではありません。さらに、この詩の最後の3行は、
 
どうかこれが天上のアイスクリームになって
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはいをかけてねがふ
 
となっています。この「天上のアイスクリーム」は、のちに「兜率の天の食」に置き換えられますが、ここでは、天上の氷の結晶のイメージを明確にするために、敢えて初期形のほうを維持しておきます。
 なぜ、賢治は、雪が宇宙空間から降ってくると表現したのでしょうか。天文現象と気象現象を混同していたとは考えられません。賢治は、農学が本職で、気象学には詳しく、科学知識の混同はなかったはずです。「永訣の朝」は、トシの亡くなった1922年11月27日に着想され、詩集『春と修羅 心象スケッチ』(のちに第一集となる)の中の一編として、1924年4月20日に刊行されました。              
 
2.発端・稲垣足穂
 宮沢賢治と同じ頃に天体に関係のある文学を書いていた作家に稲垣足穂があります。足穂には、「『星遣いの術』について」という空想科学的な小説があって、科学ニュース時報の形式を取っています。しかし、そこに書かれているのは、ほぼすべてが架空あるいはハッタリです。関連部分を引用します。なお、以下の引用は、宮沢賢治との同時性の検討のため、その初出版である「星使いの術」に従います。
 
最近ドイツのシユビテルスといふ天文学者によって「銀河といふのは氷塊の集合したもので、吾々の頭上に落ちてくる雹といふのはそこからくるのだ」という説がとなへえられていることは、読者の中の幾人かが知つてゐよう。
 
 ここで、「雹」(ひょう)は、気象で、霰(あられ)より大きめの降氷を指します。もちろん天文学者名も学説も架空のものです。この説は「銀河氷塊説」と名付けられています。それはそうとして、これは、賢治の「銀河からの雪」にあまりにも似た着想ではありませんか。この奇天烈な発想はどこからきたのでしょうか? 誰でも考えることなのでしょうか?
 「『星遣いの術』について」(「星使いの術」)は、『改造』という雑誌に1924年8月に公表されたのが初出です。なんと上述の賢治の詩集と同じ年です。(しかも今年が100周年!)足穂のほうがわずかに4カ月あとなので、足穂が「永訣の朝」を読んだ可能性は計算上はありますが、足穂自身、宮沢賢治の作品は戦後に『銀河鉄道の夜』を読むまでまったく読んでいないと言いきっています。有名な詩なのでそのフレーズは長年の間には耳にしたでしょうが、少なくとも1924年の4カ月の間に知ることはなかったと信じてよいでしょう。
 この足穂の作品は、現在では、戦中に編纂され戦後に出版された『ヰタ・マキニカリス』という短編集の「『星遣いの術』について」を当たるのが便利だと思います。ただ、現在の『ヰタ・マキニカリス』版(「最終版」)は、「初出版」と比べて人名と用語が大きく変わっています。構成とあらすじはそれほど変わっていません。ここでは科学用語に拘る関係上、「初出版」(『改造』1924・8)に従います。
 いっぽう、賢治が足穂を読んでいたかどうかは確固とした肯定的証拠も否定的証拠もありません。1922〜23年は、足穂が文壇に打って出た直後で、賢治が足穂の出版物を見つけられた確率は低いと考えます。それでも、デビュー期の足穂は、童話がいきなり高く評価されたので、同時期(1921〜24年)に童話のデビュー出版を計画していた賢治が気をつけて見ていたら見つけられた可能性はあります。ただ、「星使いの術」は、『春と修羅』より遅い発表ですから、「永訣の朝」の作成前には絶対に読んでいませんし、それ以前の足穂の作品には「銀河氷塊説」は出てこないと思います。
 
3.共通点の背景
 賢治と足穂が互いに相手の作品を読んでいないとしたら、この共通点の背景には何があるのでしょうか。「何もありません。偶然です」と言ってしまえばそれまでですが、それにしても不思議な着想です。「不思議でもなんでもありません。たまたま2人ともそのような幻想を抱いたのです」と言う人がいるかもしれませんが、私はこれに首肯するわけにはいきません。賢治も足穂も、宇宙について、科学と宗教と哲学がすべてが融合したような思想を持ち、それを執拗に文学作品に反映させているからです。これを「たまたまの幻想」としたのでは、彼らの文学と思想の関係がどれも偶然か幻想という身も蓋もないことになるでしょう。ということで、私は、食い下がりたいと思います。それで、この問題は、1922〜24年頃の2人に共通するアイデアの背景があったのではないかということになります。
 まず、2人のいう「銀河」とは何かということから片付けましょう。これは、現在いうところの「銀河」である小文字のgalaxyのことではありません。当時は、望遠鏡で観測されるいわゆる「渦巻き星雲」が我々の「銀河系」と同等の恒星集団であることはまだ確立されていませんでした。天文学者ハッブルが今日いうところの「銀河=galaxy」までの距離を測定するようになったはじめが1922年です。また、我々の銀河系もその大きさや構造はまだはっきりとしていませんでしたから、「我々の銀河系」から離れて「他所の銀河系」があるというイメージは、それほどしっかりしていませんでした。「銀河鉄道の夜」などの賢治作品では、銀河系は、渦巻き状ではなく凸レンズ状の星の集団として現れています。「銀河」とは、単純に、我々の銀河系に属する恒星の集合であると解釈すればよいと思います。
 
4.宮沢賢治の科学の背景
 賢治は、少年時代に石拾いが好きで「石コ賢さん」と呼ばれ、青年時代から星に親しみ、学生時代と教員時代の専門は農業でしたから、いちばん詳しい自然科学分野は、地質や土壌であり、次が気象と天文であったと言えます。また、肥料や鉱物に関わる関連から、化学も同じくらい詳しかったようです。そのような科学の知識が、「銀河からの雪」の着想に繋がったことはないでしょうか。もちろん、科学的に言って、宇宙から氷が降ってくることはないのですが、広く考えれば、決して架空のことばかりとはいえないのです。
 賢治は、太陽や宇宙のエネルギーが気象に影響を与えていると考えていた節があります。太陽からの光の熱量は、もちろん気象学のインプットですが、それ以上のことを考えていたらしいです。賢治は、1920年前後に、天体測地の国際的研究をしていた水沢緯度観測所を何度か訪ねています。その目的は、天体望遠鏡を見たいということもあったようですが、緯度観測所に併設されている水沢測候所や盛岡測候所も訪れています。賢治の関心は天文と気象の両方を同時にカバーしていたのです。目的となる応用としては、気候変動の農業への影響があったらしいです。また、原因となる要素としては、古くから問題にされた太陽活動の気候への影響の説に加えて、化学と原子の構造の知識も根拠に関係していたようです。
 中心に原子核があってその周りを電子が惑星のように回っている原子の姿は、長岡半太郎のモデルですが、それが実際に確立したのは、英国人ラザフォードの功績で、彼は1911年に放射線を使った実験からこの原子構造を公表し、1920年にノーベル賞を受賞しました。だから、この時期の化学の最前線は、原子物理学の一角を含んでいたといえます。賢治は、その知識を持っていました。宇宙の物質と地球の物質は原子物理学において融合します。この考えが「銀河鉄道の夜」の銀河の流れる景色の着想にも繋がったのでしょう。他に、宇宙は神仏のもとに一体と考える賢治の宗教哲学の要素を見る人もあり、それも正しいでしょうが、宗教と科学の両方があったのです。宮沢賢治が愛読した書物として、『漢和対照妙法蓮華経』と並んで、片山正夫著の『化学本論』があったといいます。後者の主要な内容は化学ですが、そこには原子物理学の記述もありました。そのことについては、またのちに触れます。また、賢治の作品には、しばしば物質名が現れますが、放射性物質である「ラヂウム」も、おもに光を発するという場面でしばしば登場します。
 
5.稲垣足穂の科学の背景
 稲垣足穂も、少年の頃は岩石や鉱物が大好きでした。その点で、賢治と足穂は、似たもの同士です。日本文学の分類では、ともに大正期のダダイズム、未来派、シュールレアリスムに属すると世では受け止められたそうで、文学の思潮で共通するのはある意味では当然なのですが、そういう枠を離れても、なお内面や資質に共通する点があったと思います。足穂が戦後に賢治を読もうと思った動機も、「賢治は『東北のイナガキタルホ』である」(と人に薦められた)ことに加えて、賢治が岩手県の自然地形にイギリス海岸とかドーバーなどのニックネームをつけていたことだと言っています。この2人は、同時期に童話を書いたことや、時期は多少ずれますが、ともに実家の古着屋を手伝って商才の無さを披露するなど、あちこちで不思議に似通っています。
 足穂の科学への興味は天文学、宇宙論、機械工学、光学、数学に広がっています。彼は、後に、宇宙と人体と人の感性は、幾何学的構造で繋がっていると主張しています。10〜20代の足穂は、理数系がよく出来、細かい論理の議論が好きなタイプの若者であったようです。そういう知識と性格が彼の哲学にも影響したでしょう。彼の作品では、昭和期のものも含めると、天文に関する幾何学として、彗星軌道の円錐曲線と、アインシュタインほかの学者の幾何学をベースにした宇宙論が取り上げられています。なお、今回取り上げた「星使いの術」が発表された『改造』誌は(足穂個人とのコネクションはよくわからないのですが)、単なる文芸誌ではなく社会主義や労働問題も扱う総合誌であり、1922年のアインシュタインの来日招請もこの出版社が行ったという背景がありました。
 さて、「星使いの術」の内容ですが、話は、「銀河氷塊説」から、その姉妹編というカルル・カイネ博士の学説の紹介へと進んでいきます。そこには、以下のように書かれています。
 
それは一言にして云ふと、星から来る放射線によつて地球上の物体にさまざまな作用が及ぼされるといふのである。太陽中の黒点や月火星のその他の遊星の盈虧によつて、地上のアトモスフエヤーに何等かの影響が起る事は、早くからペルジ教授その他によつても説かれてゐるが、カイネ博士の意見によると、その作用はもつと具体的な方面にまで入り込んでゐる。地球に近い最大の星と云へば勿論太陽で、この星が強い光によつて、地球といふ一円球上に幾億萬年この方さまざまな現象を生滅させ、遂に今日見らるる自然や文明を形造つたしたことが事実なら、吾々から遙かに距つたところにある太陽である星からも、やはりそれに似た働きが及ぼされてゐることを認めないわけには行かぬ。
 
 もちろん、これらもすべてハッタリです。今日の視点からみると、なんとなく当たっていそうな部分もありますが、1924年当時にあってはハッタリです。太陽の黒点の影響ですら、当時は、推測以上のことはわかっていませんでした。太陽の黒点の近くでフレア爆発が観測されると、その後、地球でオーロラや磁気嵐(地球で磁石がくるったり、電磁誘導で電流が流れたりする)が起こるので、何らかの未知の作用が、太陽から地球に届いていることは19世紀から提起されていました。それを「放射線」とか「光」と呼ぶことは易しいですが、その正体はわかりません。太陽からの可視光は常にほぼ同じ強度ですので、それで突然のオーロラや磁気嵐が生じるとは考えられませんし、20世紀初頭に知られていたX線などの「放射線」は、どれも厚い空気を通り抜けにくいことが実験でわかっていたので、天から地上に届く影響に実体が結びつくものではありませんでした。
 今日では、「星から来る放射線」と言えば、誰しも「宇宙線」のことだと断定するでしょう。当時においては、オーストリアのヘスという学者が、1912年に気球に放射線測定器を載せ、上空にいくほど検出強度が増すという観測で、上空から何らかの放射線が来ていることを発見していたのですが、これの正体はわかっていませんでした。ましてや、それが星で生成されたものか、地球にどういう影響を与えるのかは、想像のことでしかなかったのです。「宇宙線」という言葉もまだ確立しておらず、ただ分厚い空気を通り抜けて「何らかの放射線」が上から来ているということだけの知識でした。だから、今から見ると、1924年の足穂の「星から来る放射線」は、まぐれ当たりということになります。しかも、足穂がヘスが発見したものをきっかけに「星から来る放射線」を思いついたのかすらもわからないのです。
 この足穂の短編は、現代科学ニュースのパロティで、ハッタリではあるが、将来的には、ウソからマコトが出ることもあるかもしれないと、楽しんで書いたのかもしれません。足穂は、最終版には(最終的に確立された用語の)「宇宙線」という言葉を借用して改訂していますので、結果的にまぐれ当たりとして実を結んだのは事実です。
 
6.より具体的なイメージ〜電気?
 では、賢治は、宇宙線のイメージを持っていたのでしょうか? 残念ながら私の知る限り、「宇宙線」は賢治の作品には出てきていないと思います。賢治の生きていた時代の日本には「宇宙線」という言葉自体がまだなかったのでしょう。西洋でも、ヘスの発見時は、「貫通能力の強い放射線」として扱われており、”cosmic ray(直訳して「宇宙線」)”という言葉が確立したのは、地球上の各地の上空で観測が確立された1920年代後半以降のこととされています。『春と修羅』では、宇宙線の概念が欲しそうなところで「宇宙塵」「流星群」を利用していますので、「宇宙線〜宇宙から来る放射線」という情報も概念も賢治は知らなかったのではないかと思います。
 では、賢治の概念を、逆に宇宙側からたどって探してみましょう。太陽については、太陽活動と気象の関係について、「グスコーブドリの伝記」に示唆がありますし、農業に影響を及ぼす気候との関係に注目していたのは事実です。恒星間空間からの影響について何かアイデアがあったのでしょうか。ここで、私が注目するのは、「電気」です。まず、「銀河鉄道の夜」に、
 
「それにこの汽車石炭をたいていないねえ。」ジョバンニが左手をつき出して窓から前の方を見ながら云いました。
「アルコールか電気だろう。」カムパネルラが云いました。

電気が宇宙空間における推進エネルギーとして想定されています。それから、もっと決定的と思われるのは、「水仙月の四日」にある記述です。この小品は、1924年に書かれたそうです。
 
「ぼくね、どうしてもわからない。あいつはカシオペーアの三つ星だらう。みんな青い火なんだらう。それなのに、どうして火がよく燃えれば、雪をよこすんだらう。」
「それはね、電気菓子とおなじだよ。そら、ぐるぐるぐるまはつてゐるだらう。ザラメがみんな、ふわふわのお菓子になるねえ、だから火がよく燃えればいいんだよ。」
 
この電気菓子というのは、機械で作る綿菓子(綿飴)のことのようです。それほどははっきりしませんが、ここでも似た発想があって、カシオペアの三つの恒星が地上に雪を降らすことに作用していて、それは宇宙空間の火に起因し、その根拠を電気による運動に求めているのです。綿菓子と雪雲との連想のようですから、これは、賢治が、恒星から地球の気象に及ぶ作用の主体に、電気(の運動)を想定していたように見られます。これは、原子を構成する、原子核、電子、イオンなどがいずれも電気を帯びているという知識に関係するのではないでしょうか。宇宙の物質は原子で出来ており、その原子の内部には電気があるのです。これで、宇宙のエネルギー現象は電気で起こるとして考えを進めることができます。
 宮沢賢治は、原子物理学と放射線の知識について、片山著『化学本論』から学んだはずです。原子内部には電気を帯びた構造があり、そして、アルファ線とベータ線という放射線は、電気を帯びた粒子が自由に運動しているものです。しかし、この本には地上での測定の説明のみで、宇宙の現象の記述はありません。すでに述べたように、地球を離れた宇宙空間の放射線の知識は当時はまだ確立しておらず、賢治の知識にも想定にもなかったでしょう。しかし、天文学では、以前より恒星の光のスペクトルを用いて宇宙の物質が研究されています。それをもとに、宇宙空間の電気については、賢治が独自に考えたのかもしれません。足穂のほうは、さらに進んで「星から来る放射線」という概念にハッタリながらも到達しているのです。
 稲垣足穂は、電気についても、1923年初出の「星を売る店」(単行本は1926年)で、天から採集された星(ごく小さいもの)が火花を発するとか模型の蒸気機関車の煙突に入れるとその車輪が回って動き出すということを書いています。これも、賢治の銀河鉄道の機関車の「電気」に似た発想と思います。また、「星を売る店」には、店に陳列されている飾りや商品に「銀河鉄道の夜」のジョバンニが見たショーウィンドウと共通するモチーフがいくつか見られ、賢治が足穂のこの作品を読んで影響を受けた可能性が完全に否定はできないように思います。
 
7.より直接的な接点〜霧箱?
 私が、賢治の「水仙月の四日」を読んで思いついたのは、「霧箱」です。霧箱は、放射線検出器の一種で、宇宙線や素粒子の研究に決定的な貢献をしました。霧箱を発明したのはスコットランドのウィルソンという学者で、彼は、最初は湿度を持つ気体から雲を人工的につくる実験で霧箱を使ったのですが、後に、X線の作用で霧箱中に霧ができやすくなること、それから1910年頃には、電気を帯びた放射線の軌跡を可視化できることを発表しました。後に、霧箱は、他の学者により、原子核の破砕の実験や宇宙線の観察や陽電子の発見に用いられましたが、それは1924年以降のことです。だから、上記の賢治や足穂の年代には、霧箱はまだ放射線の研究に本領発揮はしていなかったのですが、「放射線の作用で『雲を作る』装置」として、科学を知る人々におぼろげに認知されていた可能性があります。ただ、日本でこの時期、どれほど霧箱が知られていたかはわかりません。第一次世界大戦が障害となって、ヨーロッパとの情報交流が難しい一時期がありました。
 霧箱は、英語では、cloud chamber ですので、「雲箱」が直訳になります。箱というのは、内部の気体の水分を維持し、気圧を制御するために、外部に対して気密になっているからです。霧箱中の放射線の軌跡は、「飛行機雲」によく例えられます。飛行機雲は、1915年に初めて観測されたそうですが、当時の日本でも知られていたものであるかは知りません。霧箱と飛行機雲の連想がつながれば、大気に降り注ぐ放射線=宇宙線が気象に影響を与えるという着想は、比較的容易に浮かぶと思います。大気中の湿度(水蒸気)が何らかの衝撃で水滴に凝結するという意味では、飛行機雲も霧箱も同じです。しかし、飛行機の排気ガスにはもともと水分が含まれているが放射線には水分が含まれていないという違いがあります。放射線が気体をイオン化(イオンとは原子の中の電気!)することによって、近くの水蒸気が凝結するのです。なお、宇宙線が霧箱の原理によって地球の気候に与えている影響については、現在も研究が続けられています。
 「霧箱」の知識を賢治と足穂が持っていたとしたら、宇宙の物質である原子の内部にある電気、宇宙線、雲、雪、気候がすべて繋がるのですが、残念ながら、彼らが「霧箱」について知っていたかどうかはわかりません。おそらくは特に勉強したこともなかったと思います。1922〜24年当時、日本ではまだ認知されていなかったであろう「宇宙からの放射線〜のちの『宇宙線』」と、知られていたかわからない「放射線が雲を作る装置〜霧箱」について、賢治と足穂がごく一部であっても断片であっても、何らかの情報を持っていたという可能性に期待するものですが、それは想像にすぎません。宮沢賢治と稲垣足穂の文学にこれらの新知見が関係していた可能性を留保してくだされば、それで私は満足です。
 
 私の今回の議論を思いつく発端となった宮沢賢治の太陽黒点と原子物理学の知識をブログ『天文古玩』で紹介してくださった玉青さんに感謝します。また、大正13年発行の『改造』誌を開架で閲覧させてくださった筑波大学図書館に感謝します。本論は、文学史、科学史の研究ではないので、参考文献のリストは省略します。

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