現代に続く曜日の起源について
 
                       上原 貞治
 
 またもわかりにくい題名で恐縮ですが、ここで問題にするのは、現代、我々が使っている「曜日」は、連続的にいつまで遡れるかということです。仮に今日が日曜日だとして、その7日前は日曜日です。70日前も日曜日です。7万日前も日曜日です。70万日前も日曜日のはずですが、これが当時の文献記録のある範囲でどこまで遡れるかという問題です。7万日前は、約190年前になりますので、これは当時の西洋の出版物やカレンダーを見れば確かに日曜日 であったことが確認できると思いますが、70万日前というと約1900年前で、古代ローマ帝国の時代になります。当時、現代と同様の曜日を記載した日報やカレンダーがあったのか?という問題になります。
 なお、この問題は、起源すなわち最古の文献例を見つけるという意味では、未解決です。この探索研究においては、暦の会の須賀隆氏と、それから須賀氏から紹介を受けて、国立天文台の片山真人氏からの知識を全面的に受けました。私の貢献はほぼ皆無で、むしろ、片山氏の研究成果とさせていただくべきところですが、この問題提起自体は私自身が行い、問題意識をもって20年くらい(自分としては成果なしに)追求していることなので、私の研究課題としてここに報告させていただきます。もちろん、ここでの記載の「文責」は、すべて私にあります。
 
1.問題の定義づけ
 ここで探索する「起源」については、すでに上で述べましたが、もう少し、厳密に定義しておきます。
 
・現在の曜日と、「同等、同相、連続的」な曜日を記録した最古の歴史文献は何か?
 
 ということです。
 ここで、「同等」 というのは、現在の Sun, Mon, Tue, Wed, Thu, Fri, Satとの対応関係が証明された曜日名を持つ七曜のシステムであるという意味です。曜日名は、多くの西洋言語と日本語は同等で、太陽、月、5惑星(火水木金土)に対応する神の名前を表しています。日本では5元素の名前になっていますが、曜日と惑星の対応は同じなので同等です。また、「同相」というのは、現在の曜日と同じ7日サイクルの位相を持っている、つまりユリウス日(日数カウントによる通日)の剰余(通日を7で割り算した時のあまり)との同一の対応関係を持っているという意味です。「連続的」というのは、位相が現在のものと同相であることが、それ以降、現在にいたる歴史で因果的・連続的にたどれるということです。あとの2つは、日月火水木金土日月・・・のサイクルが欠けも飛びもなく現代まで正確に続いていることを要請するものです。
 曜日の起源になるものを、古文献に見つけたとして、それに記載されている日付と曜日の信頼性は、文献の信頼性に依存することになります。特に、日付がユリウス暦、あるいは中国や日本の官暦などにもとづいている場合は、これまでの暦学、歴史学におけるメジャーな暦システムの知識の積み重ねで、これらの暦の上の年月日は現在まで連続的にたどれていますので、日付を見れば今日から何日前かがわかります。曜日の記載がともにあれば曜日システムの同相性が確認可能となります。日付がいつのことか判断が難しい場合でも、日食などの天文現象の記録があれば暦システムの検証を行うことが可能です。現在まで連続しているかは、別の文献や、日付、曜日のシステムの成立の事情から推定できると思います。
 ややこしい話になりましたが、たとえば西洋のユリウス暦での日付とその日の曜日が記載されている古い文献が見つかれば、その暦年を判別し、曜日の位相が現代を合致することが確認できれば、おそらくはそれらの中での一番古いものが目指す「起源」だということになります。
 
2.途中の話
 国立天文台の片山氏に質問を出したときにいただいた回答によると、この問題は未解決だそうです。片山氏からは、まず、国立天文台の「暦Wiki」にある曜日の起源に関するページと、英語版Wikipediaにある"Week"の「ヘレニズムとローマ時代の歴史」の項を紹介いただきました。そのあと、「354年の暦」に関する情報をいただきました。
 ところで、日本国内に限りますと、一般によく知られた最古の例がありまして、それは、空海が中国(唐)から持ち帰った宿曜経(すくようきょう)にある「蜜」日の記載です。宿曜経は東洋占星術の一種ですが、それには西洋の暦の「日曜日」に対応する「蜜日」を記載することになっていました。昔の日本の暦で西洋の7日1週の曜日が採用されていたわけではありませんが、とにかく、日本の暦の日付との関係で、これが上の「同相」「同等」の条件を満たした日曜日の記載であることが証明されているそうです。空海が中国から帰国したのは、西暦806年のことになります。また、10世紀には、日本の貴族がこの蜜日の記載を文献に残しているそうです。「蜜」はソグド語の「ミール」の音訳と言われていて、ソグド語は中央アジアにおける交易言語ということですから、この「日曜日」はシルクロード経由で西洋から中国に伝わったものなのでしょう。日本に伝わっているくらいですから、西洋では、8世紀以前に現在の曜日が遡れるはずであることになります。
 西洋の文献で曜日が記載された有名な例は「キリストの処刑日=金曜日」です。これは、聖書に曜日名が直接記載されているわけではありません。新約聖書の福音書に、イエスの処刑の翌日が安息日であったとの記載があり、当時のユダヤ教での安息日は土曜日のことと言われているので、処刑は金曜ということになります。なお、ユダヤ教では、旧約聖書の天地創造が7日からなる1週間の記載の起源とされていて、神が世界を6日で創り、7日目を休息日としたということになっています。当時のユダヤ教徒の社会では、7日で1週間でその最後の日が安息日(シャバト)で、この日は休日ということになっていました。(現代のユダヤ教徒にもこれは受け継がれています。)また、キリスト教では、「イエス・キリストは、死後3日目に復活した」とされています。現在では、復活の日は「日曜日」ということになっているので、これも計算が合います。なお、ここで、3日目というのは処刑の日(金曜日)を1日目と数えます。現在のイースター(復活祭)は必ず日曜日ですが、これがキリスト教公認の規則になっています。イースターについては後にまた触れます。ただし、イエスの時代のユダヤの土曜日が現在まで同相で連続して続いているという証拠はありません。また、曜日の名のシステムも、現在のものが月、太陽、惑星の名前(あるいはそれに結び付いた神の名前)になっているのに対し、ユダヤのそれは、単に何番目の日というふうに数でカウントしたものだったので、「安息日が土曜日に対応する」という言明だけで、「同等」と言ってしまっていいかも疑問です。
 いっぽう、イエスの処刑の日付ですが、一般には「ニサン月の13日」ということが言われています。「ニサン月」というのは、当時のユダヤの暦での月の名前です。これも、新約聖書に直接の記載はありませんが、イエスの受難の前夜に行われた「最後の晩餐」が「過越の祭の夜」と読めるので、この夜がユダヤでの風習として、ニサン月の13日、あるいは14日に当たるということのようです。そうしますと、処刑の日は、13日ではなく、14日あるいは15日となります。これが正しいにしても、当時のユダヤの暦とローマのユリウス暦の対応は取れておらず、また、イエスの処刑が西暦の何年に当たるのかは不明なので、この日の情報は本件の役に立ちません。また、新約聖書の福音書は後世に編纂されたもので、イエスの処刑を記載した同時代の文献は今まで見つかっていませんので、リアルタイムの記録といえるものではありません。
 なお、天文学を利用して、イエスの処刑の年を西暦30年であるとか33年であるとか決定したという説が出ていますが、これらは、聖書にある処刑の直後に起きた天変を実際に観測された日食または月食と対応づけているものです。ここでは、金曜日であることが条件として使われている場合があり、本件に照らせば循環論法になる危険性があります。ただし、ニサン月を現在の春分の頃、3〜4月(イースターの決定規則「春分のあとの満月のあとの日曜日」と対応する。後出)として、イエスの処刑があったと考えられる期間の年の春分の頃に日月食が起こった年を探索するならば、バイアスのかからない議論になります。聖書とタキトゥスの記録によると、それは、ティベリウス帝の即位15年目の2年後以降、ユダヤ総督ピラトの在任中(30〜36年の間)となりますが、その季節にはエルサレムで顕著な日月食は起こっていないそうです。
 
3.古代ローマでの曜日
 慣習として、日付とともに曜日が使われるようになったのがいつ頃のことなのかははっきりとしませんが、歴史文献で日付と曜日を特定できるとなると、多くの文献が現存して、歴史事件を現代から正確に遡ることができる古代ローマのユリウス暦の制定の頃が、一つの目安になるでしょう。ユリウス・カエサルによるユリウス暦の制定は、紀元前45年のことです。ただし、古代ローマでは、7日の曜日制度は定着しておらず、「ヌンディウム」という1週間が8日の週が使われていたそうです。それが、ユリウス暦の制定後くらいから7日間の週もよく使われるようになり、しばらくは混在して使用されたといいます。
 また、ローマでは、8日の週の曜日としては、A〜Hのアルファベット文字、7日の週の曜日については、A〜Gの文字が使われている場合があり、これだけでは、曜日の名前のシステムは順序として指定されるだけになりますが、ローマの7日の週には太陽、月、惑星の神を結びつけた記述もあったので、ローマの1週7日の曜日のシステムは、現在と同等といってよいと考えます。一般的に言われている「曜日の起源」の説では、7日1週の曜日に惑星の神の名を冠することは、古代ローマでアウグストゥスの頃(紀元前30年頃か)に始まったと言います。ただし、7日1週の曜日の慣習は、それよりもかなり古く、太陰暦の1つの月を4分するために中東のシュメール〜バビロニアあたりで始まり、これがユダヤに伝わったと言われています。ローマでは、まず、7日の週が東方から移入され、それに、国内で惑星の神の名がつけられて、その後に広く普及するようになったという順番かもしれませんし、惑星の名前をつけることも中東方面から伝わったことかもしれません。
 仮に、ローマでの7日の週の使用の広がりが、キリスト教の普及と関係あるとしたら、それは、ローマでのキリスト教の布教が始まった1世紀半ばから、ローマ帝国でキリスト教が公認される紀元313年の間のことになるとみます。ローマ帝国で今回の条件に見合う最古の文献を探すならこの時代にまず目をつけるべきと考えます。
 
4.ポンペイ遺跡の曜日の記載
 Wikipedia の"Week"によると、この時代の日付と曜日がともに記載されているものとして、紀元79年にヴェスヴィオ火山の噴火で埋もれた都市ポンペイの遺跡に、「(60年)2月6日 日曜」という落書があるそうです。しかし、この日(ユリウス暦)は、現在から遡った曜日では、水曜日ということになり、日曜日ではありません。ただし、この「日曜日」と「水曜日」の食い違いは、曜日の命名規則の異なる2方式の違いで説明できるそうで(6節に述べる)、解釈を緩めれば、「現代につながる同相の曜日の記録」としてその最古のものの候補と考えてよいという指摘があります。それにしても、現代とは方式が違うのですから、その後に方式が改められたことになるわけで、現代と「同等・同相・連続」の3条件を全て満たすシステムとは言えません。
 また、上で、「(60年)」と括弧をつけましたが、これは「西暦(キリスト生誕紀元)」の使用が始まったのは、ずっとあとの6世紀以降であることによります。それ以前は、別の「紀年法」(建国や皇帝即位の紀元など。東洋の元号も紀年法の一種です)が使われていましたが、それらの紀年法は、西暦に換算可能である限り、曜日の決定の議論に支障をもたらさないので、以後、西暦でない紀年法も問題なく西暦に換算したということで話を進めます。古代ローマ帝国では、皇帝即位紀元が使われていたそうです。
 
5.イースターの決定規則
 キリスト教の重要な祝日であるイースター(復活祭)の日付の決定は、ローマ帝国でキリスト教が公認されるまでは、各地で様々な方式が行われていたそうですが、325年の第1回ニケーア公会議で、ローマ教会の規則として定められることになりました。それによると、イースターは、現代と同じく年ごとに日付が変わる規則になっていて、上に書いたように、「3月21日(暦上の春分の日)当日あるいはそれ以降の最初の暦上の満月(新月から数えて14日目)を過ぎたあとの最初の日曜日」となっています。なお、春分の日を3月21日にするのもニケーア公会議で決めた規則ですが、4年に1度うるう年を設けるユリウス暦では、400年に3日程度ずつすれていくのが現在では知られています(正確にいうと、春分の日がどのようにずれていくかは、地球の公転軌道が楕円軌道であることとその近日点移動と歳差の影響を考慮して計算する必要があり、話は単純ではありません)。また、満月の日付も新月の14日後ということで計算で定めたそうですが、新月の決定も月の運動理論と関わって、今日の天文学知識と比べると不正確な点が多かったはずです。
 そのような天文計算の正確さがイースターの日取りの決定に影響するのはもちろんですが、ここではそれは重要ではありません。「イースターは日曜日である」ということが重要です。たとえ春分や満月の計算が不正確でも、イースターの日取りは7日ごとに循環する日曜日のどれかであることは間違いないからです。従って、ローマカトリックの国で何年何月何日にイースターが祝われたという記録があれば、その日は日曜日と解釈してよく、その日が現在の日曜日と同相であれば、本件の証明になると考えられます。
 それで、それに関連する資料を片山真人氏に教えていただきました。その情報によると、354年に作られた"Chronograph of 354"という文献(「354年の暦」)に、312年以降100年間のイースターの日付が記載されていて、それが確かに現在の日曜日と同相であることが計算でわかるそうです。そこに載っている一番古い日付は、ユリウス暦の312年4月13日に対応するそうです。この日付が現在の暦の日曜日と位相が合っており、かつ、イースターの日付の決定規則は、今日に至るまでローマ(ヴァチカン)のカトリック教会で同等の規則が維持されているので、日曜日の宗教的な意義も継承されており、「同等」「同相」「連続的」の3条件が満たされているとして間違いないでしょう。
 ただし、この「354年の暦」は、暦上の祝日の計算書であって、具体的な日の記録ではありません。だから、これをもって、312年4月13日が日曜日であったという記録とはいえないでしょう。しかし、実際に、このカレンダーの通りイースターの祝日が祝われていたと信じるに足るならば(たとえば、354年3月27日にローマ教会でイースターが祝われたと確信できるならば)、広い意味では、日曜日であったことが記録された文献ということもできるかと思います。
 
6.惑星時間占星術と曜日の名前の決定規則
 ここで、上で述べたポンペイ遺跡に関する2つ方式の曜日名の決定規則について簡単に説明しておきます。問題は、曜日の名前が、太陽、月、5惑星(火水木金土)に由来するとした場合、なぜ、この順序(日月火水木金土)に並んでいるかということです。それには2つほどの説があるそうですが、その一つが、惑星時間占星術(Planetary Hours)に基づくもので、これは7つの星を古い時代の天動説にもとづいて地球から遠い順に並べ、「土木火日金水月」の順序とします。この順番は、もともとは日の曜日を表すものではなく、時間(ここでは、Planetary Hoursの和訳で「曜時」と呼びましょう)を表すものだったのです。この順序に従って、「曜時」を「土時」から始めて1日24時間にアサインすると、その日は「火時」で終わって翌日は「日時」から始まります。こうすると、この24時間ごとの曜時は、1日に2つ飛ばしで進むことになり、「土日月火水木金」の順番が出来上がります。それで、1日のある基準の時刻の「曜時」をその日の「曜日」とするならば、曜日は「日月火水木金土」の順に並びます。ところが、1日の基準をどの時刻にするかというのに流儀があり、これをポンペイの時代には「日没時」(午後6時)に置いていたとしますと、現行の曜日システムを決めた占星術で1日の初めは「日出時」(午前6時)ですので、12だけカウントがずれて、ポンペイの日曜日は、現代の計算では水曜日になるということになるそうです。ただ、この計算では、同じ日の昼に対して、日没時間の基準が日の出時間の基準に変わったとしないといけません。
 なお、「曜時」は現在の占星術ではこのように定義されていますが、古代ローマ時代のポンペイで推定したように使われていたという確証はないので、これによって、ポンペイの落書きの曜日のずれについて確実な説明ができるわけではありません。
 
7.目指す最古の文献は?
 以上のように、ローマ帝国に限れば、第1回ニケーア公会議の頃の暦のイースターの日付で確認が取れたのですが、これでは、8割がたの満足という程度です。一つは、これが暦法の計算値であって、何年何月何日が何曜であったというリアルタイムの記録(日記のような)ではないからです。また、ポンペイの落書きはリアルタイムの記録かもしれませんが、曜日名のシステムが現代とずれています。もう一つは、ニケーア公会議で認定される前のローマ帝国の文献に、何らかの情報が埋もれていても不思議はないからです。もう少し満足のいくような記録がどこかにあるとすると、それは、ポンペイの時代よりもあとになるかもしれませんが、第1回ニケーア公会議以前に遡れる可能性はあります。ある地方では1週7日の曜日が早く定着したかもしれないし、ローマ教会が規則を決める以前に、今と同相の日曜日にイースターを祝っていたところもあるかもしれないからです。
 なお、ユダヤの「安息日」が現在の土曜日であるとした対応も気になります。上に述べたように、ユダヤの曜日名は数の順序なので、現在の惑星の神の名前の曜日と「同等」とは言いがたいですが、ニケーア公会議でイースターを日曜日と定めた際に、「ユダヤの安息日は土曜日だけれども、その日ではなくその翌日をキリスト教の『主の日』として選ぶ」という議論が行われたようで、そこでユダヤの曜日とローマの曜日の「同等」性の議論があったと推定されます。また、キリスト教との関係を問題にせずに、古代ローマの曜日がユダヤ以外の国に移出された例もあるかもしれません(日本まで来た宿曜経のように)。今後は、ローマ帝国以外の国も含めて、探索をする必要があると思っています。
 
  この探索について重要な情報をご教示くださいました、暦の会の須賀隆氏と国立天文台の片山真人氏に深く感謝いたします。
 


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