安藤昌益と三浦梅園の自然学(前編)
上原 貞治
 
1.はじめに
 安藤昌益と三浦梅園は、ともに江戸時代中期から後期にかけての思想家である。 二人とも高校の日本史や倫理の教科書や参考書に出てくるとは思うが、そうメジャーな思想家ではない。山鹿素行、荻生徂徠や二宮尊徳といったところが、ずっと有名であろう。幕末、明治に与えた影響も限定的である。ところが、「自然学」という見地から見ると、この二人は日本に得がたい傑出した人物となる。その思想は強力無比で、国際的レベルのものである。後世に与えた影響が少ないということは、あまりに時代に先んじていたために追随できる者がなく一旦忘れ去られた、というポジティブな評価になる。
 
 なお、私がここで言う「自然学」とは、我々が日常普通に使う言葉の「科学」と古代ギリシアの「自然哲学」の中間のような意味である。私がこの二人を天文同好会の会誌で取り上げるのにはもちろん根拠がある。彼らの自然学は、宇宙全体を説明し記述するものであったのだ。宇宙全体を説明するにはどうすれば良いか? これはたいへんな難問であるが、もちろん現代の我々はその答えを持っている。現代の最先端の天文学、物理学、化学、生物学、そして数学の研究を進めれば、宇宙全体の記述は可能、と。多くの現代人がそう信じているだろうし、私もそう信じている。現在もこれらの科学は未完成であるが、相当いいところまで進歩しており、今後の発展で、より正しい方向でより詳細の記述が行われることが期待されている。
 
 では、江戸時代の日本ではどうだったか。現代のような科学がほとんどなかった時に宇宙全体を相手にどうしようとしたのか? 当時の中国や西洋でも事情は似たようなもので、外国からの学問を学んでも残念ながらどうにもならなかった。西洋では、宇宙全体を記述したのはキリスト教―宗教―であった。宗教で宇宙の記述をすることは原理的にはできるが、それが「自然学」ではないのは明らかである。宗教の指導者や聖典は、自然はどうあるべし、人間はどうあるべし、ということは述べても、観測される宇宙の構造を説明しないし、その法則や現象を予言しない。彼らは、人の歴史を予言する。しかし、日食の起こる日や鉄の密度は決して予言しない。そもそも江戸時代の日本ではキリスト教は禁制であったし、仮にこっそりキリスト教を研究したところで、日本人に納得のいく宇宙の知見など得られなかった。それでは、仏教はどうか。仏教は、キリスト教のような宗教はなく一種の宇宙哲学であるという見方もある。しかし、自然相手に予報計算をしないという意味では、仏教も宗教である。では、江戸時代に日本で行われた中国伝来の儒学はどうだったであろうか。儒学は宗教ではなかったのではないか。この辺からスタートしたい。
 
 以下の本論では、日本史や倫理社会の解説をするつもりはないので、歴史的文献の出典については一切省略し、儒学と二人の思想の自然学に関わる部分の論理だけをフォローする。これを書くにおいて、私は、安藤昌益と三浦梅園の書いた一次資料を、漢文、古文、あるいは現代語訳で一応読んで(もちろん一部だけだが)、自分なりに本誌『銀河鉄道』に取り上げるのに適当なコメントをつくったことを申し上げておく。従って、他の解説書で書かれていることとは違っていて、それは私が間違っているのかもしれないし、逆に画期的に傑出した解釈になっているのかもしれないのである。
 
2.中国伝来の自然学 〜儒学〜
 「諸子百家」の時代から始まる中国の古代からの思想は、儒教とか儒学と呼ばれ、それは宗教というよりも東洋思想、あるいは東洋哲学として捉えられている。それが日本に伝わり、江戸時代には、儒学がスタンダードな学問、いわば今でいうと小学校から大学で学ぶべき教養的教科の全体、とされた。そういう意味で、日本で行われた儒学は宗教ではない。しかし、儒学は、自然科学や自然哲学と違って、人間の行動倫理までひっくるめた思想であることから、道徳・精神論や宗教的な部分も含んでおり、そこには仏教の禅宗の影響が大きいといわれている。おそらく、禅宗で発達していた論理学や抽象的な宇宙構造に関する自然哲学を取り入れたものであろう。しかし、儒学は、宗教でもなければ自然科学でもない。それは、儒学において人間が死後どうなるのかという大問題に定説がなかったことに象徴される。仏教でもキリスト教でも人間が死後に行く場所は判明している。儒学では、何となくその辺に気体として漂うのではないか、というくらいの頼りない考えしかない。また、禅宗から論理や哲学を学んだということも、抽象的な思考構造がそれほど確立していなかったことを意味するのではないか。
 
 儒学が自然科学ではないことは、例えば、自然界を陰と陽のせめぎ合い、物質の構成要素である五行の説で説明をしても、それを実験で定量的に分析する努力が行われないことからわかる。例えば、儒学を宋の時代に発展させた朱子学(朱熹)の自然学において、陽である太陽と、陰である月の役割は議論されるが、太陽と月が宇宙の中でどのような軌道を取るのか、という基本的な問題について定説を示すことすらできなかった。科学的な定説がなかったことは、儒学が自然科学としての完成度が低いということと、一神教的な宗教でなかったことの両方を意味している。儒学で「神」という言葉が出てきた場合は、これを「シン」と呼び、全能と意思を持つ神様ではなく宇宙を支配する自然法則を意味すると解釈しないといけない。
 
 では、儒学の陰陽五行説が頼りなかったのかというと、決してそうではない。それは強力な指導原理であった。陰陽のバランスやせめぎ合いが宇宙全体(地球上の自然現象も含めて)を支配しており、かつ、それが間の身体や感情(したがって人間の行動も社会も)も支配しているという基本構造に一切の揺らぎはなかった。宇宙における天体の運動に秩序があるのは、神様がいるのか、どんな自然法則なのかわからないが、とにかく法則はあり、いずれにしても、人間社会においても宇宙と同じ法則が成り立たなくては結局はうまくいかないとする。これはかなり強固な信念である。従って、中国の王朝と官僚の機構、日本の幕府、士農工商の身分制度は、宇宙の自然法則と同様に要請されるものであった。支配階級に都合の良い忠孝仁義などの徳目は、単に個人のための徳目ではなく、宇宙が人間に制約として与えた法則として理解された。だから、これは「天道」として絶対的に守る必要のある徳目であり、「天に代わりて」忠孝仁義により人間社会を統べることに絶対的な大義があり、これに逆らえば人間社会が滅びてもやむをえないと考えられたのである。また、宇宙の陰陽五行の法則は、人体内部にも適用されたから、漢方医学では、体内の陰陽五行が説かれ、その考えで薬を処方し養生すれば、手術などしなくても病気を治療することができたのである。現代人は天文学に興味を持っても、天文の法則と自分の日常生活はまったく別世界に属することと思っているであろう。天のことを忘れて人間界に没頭し、星を眺めるときには日常生活のことを忘れる、こんな心得では、とうてい忠孝仁義の精神を理解することはできないであろう。
 
 こうして、儒学による自然と人間社会、人体の記述は一定の成功を収めたのであるが、それには限度があった。そして、江戸時代中期以降になると、儒学の知識人にすら不満が鬱積するようになった。儒学を学びそれに従っても、庶民の生活は楽にならないではないか。農業で米の収量を上げるにはどうしたらよいか、食料を適正に流通させ、貧困や飢餓を避けるにはどうしたらよいか、身分社会における矛盾や庶民の困窮をどう救済するか、儒学はそれに十分な答えを与えることが出来ない。政治家や儒学者の言っていることは立派で筋が通っているようではあるが、科学的施策としては完成度に欠けるようで当てにならない。およそ善政・徳政を敷いているとは思えないような支配者もいる。また、戦国時代後期も江戸時代も、西洋人は船に乗って千里万里の海を渡って日本に来ている。彼らは星を測って船を操っているらしい。万一、彼らと不測の事態になった時に大艦巨砲がなくては困るであろう。儒学の陰陽五行説がそれに何ほどの役に立つのか。儒学はタテマエの能書きしか与えてくれないではないか。そもそもタテマエだけ論じて真理に迫れるのか怪しいものだ。
 
 江戸時代も後期になり、日本は思想のブレイクスルーを待つ時代に入った。そのブレイクスルーは、医学や軍学、暦学など実用的学問については、杉田玄白や平賀源内、志筑忠雄らが道を拓いた蘭学によって達成された。しかし、上で述べたように、宇宙全体の法則については、18世紀の西洋科学でもまだ全貌を現してはいなかったし、日本人もそれ以前のベーコンやデカルト、カントの西洋の実証哲学を学ぼうとしたわけではない。仮にそれらを学んだところで、満足のゆく解決は得られなかったであろう。日本人は、その代わりに、蘭学に依らずに儒学の破壊と再構築によってこれを達成した。そういう人が少なくとも2人はいた。安藤昌益(1703-62)と三浦梅園(1723-89)である。
 
3.安藤昌益の自然学
3.1 農業を原理とする
 安藤昌益と三浦梅園の生涯の時代はオーバーラップしているが、それぞれの出身は東北と九州で、当時、二人の直接の関係、互いの影響というものはまずなかったとしてよい。だから、ここでは一応別々に議論することにし、最後(後編)に共通点についてまとめる。より時代の古い安藤昌益から取り上げる。
 
 当時、安藤昌益はそれほどの有名人ではなく、没後も後継者はなく、明治期前半まで忘れ去られていたくらいの思想家であった。彼が有名になったのは昭和期以降である。安藤昌益は時代的には蘭学による西洋科学の普及以前の人で、蘭学の影響は受けていない。日本のそれも一地方の思想土壌に閉じた人と見るのが妥当である。
 
 安藤昌益は、独特の自然学を築いたが、決して自然科学者ではなかった。それどころか、彼は自然観察に長けていたわけではないし、彼自身、自分が自然現象を研究する人間であるとは自覚していなかったであろう。彼の自然学はあくまでも思想上の産物であり帰結である。しかし、その論理と信条の一貫性には比類のないものがあった。それは、人間の存在を冷徹に自然環境の中で捉える見方、今日で言えばエコロジーに立場に近い見方であった。しかも、今日の環境活動家が足下にも及ばないほどの強靱な論理的な信条があった。昌益のエコロジーは、倫理や人間の生活の目的をかなえるための議論ではない。自然の法則から当然として人間に要請されることに基づくものなのである。
 
 彼は、中国古来の儒学の思想の通説のすべてを否定した。孔子、孟子から江戸時代の権威の学者の説をすべて否定した。そして、「人間の営む農業」を宇宙の理解の根本に置く。もちろん、人間の農業が宇宙の根本原理というわけではない。安藤昌益もそこまでは言っていない。しかし、人間が農業をする存在である、すなわち田圃で米を作りそれを食べ、夫婦、家族で農業を行う社会を子々孫々に伝えてゆくことが人類が宇宙で存続することの唯一の条件である以上、それは自然が与えた人間の法則であり、単に人道というのみならず、自然法則の根本の帰結であり、すなわち絶対的な天道である、と捉えたのである。ここで、国産米を作って日本人全体が食べて行けることが日本民族存続の精神的な必要条件であることまでは、現代の日本人の多数にも賛同できるところであろう。しかし、それが天道であり、宇宙の法則と関係があるとは、どういうことだろうか。
 
 安藤昌益は、そこから、一歩、二歩と踏み出し、勇敢に進んでいく。田圃を耕して米を作ることが人間の根本条件である以上、すべての人間は米を作らないといけない、少なくともそういうタテマエで社会を作りる努力をしないといけないと考えたのである。これによると士農工商の身分制度は完全な誤りである。そもそも田圃を耕さない君主や思想家が農民を支配するという、アジア的専制主義も日本的封建主義も根本からの誤りである。いやしくも人間たるもの全員が農業従事者でなくてはならない、もちろん、身体の都合で農業が出来ない人もいるだろうし、農具を作る職人、米を作れない人に米を運ぶ商人、国土の防衛に当たる役人や軍人も必要である。そんなことは、昌益もわかっているので、すぐに農民独裁共産革命を目指すわけではない。しかし、タテマエとして、全員が農業に従事することが本質であり、制度上は全員が農業従事者であるべき、という考えは一歩たりとも譲れない。
 
 現代にたとえるならば、国家・地方の公務員(当時は武士がそれだった)の組織、あるいはJAのような共同組織に国民全員を強制的に参加させ、農業が出来る人には農業(彼の言葉では「直耕」)を強制し、一部の人に他の必要な仕事をさせてはどうか。それによって理想的といえないまでも、天道に従ったより良い社会が築けるだろうというわけである。歴史上の孔子や孟子などの聖人、仏僧、江戸時代の武士は、口で偉そうなことを言い、いろいろ理由をつけて農民から米を集めることはするが、彼らは決して自分の手で耕そうとはしない。彼らは、思想上でもそもそも万民が耕すことを理想にしておらず、自分たちが農民から米を集めて食べることを当然の権利と心得ている・・・とんでもない話である。お話にならない。こんな人たちの唱える社会制度も政策も、人倫も哲学もすべて間違いで、彼らの教えや国の法律は、すべて個人の勝手な都合による「こしらえ事」に過ぎず、自然の法則とは何の関係もない嘘っぱちであると唱えた。これで、従来の儒学、仏教の教えはすべて大間違いで何の効用もないことになり、幕府の指導者や役人がそれに基づいて法律や政策を進めても、間違いで天道に逆らうものである以上、人類の生存に貢献せず、どう頑張っても社会の不安定や飢餓を避けることができない、実際うまくいかずみんな苦労ばかりしているではないか、と主張したのである。
 
 3.2 宇宙の物質界への挑戦を始める
 安藤昌益の思想は、以上の点で、既存の社会を拘束していた考えの壁を打ち破った画期的な発想として特筆されるが、これだけでは重要な自然学の思想とまでは言えないだろう。彼はこれを自然学に向けて前進させた。まず、人間が田圃を耕して米を作り、それを食べ、男女が子孫を作り、子々孫々と米作りを伝えていくことが人間社会と人体の自然法則の根本であるとし、これが、宇宙全体の縮小モデルになっていると考えた。ここまでは伝統的な儒学の考えと同じであるが、昌益は逆転の発想によって、宇宙の有様を見て人間の倫理を論ずるのではなく、人間に原理を与えることによって宇宙全体の自然現象を解明する道筋を唱えたのである。もちろん、宇宙の原理が先にあり、それと同様の原理が人間に生じているというのが自然の順序であろうが、それが実現しているならば、逆に人間を見れば宇宙がわかるはずである。ここで、安藤昌益の思想は自然解明の手法を示すことになる。
 
 安藤昌益は自然学者ではないけれども、彼の理論は自ずから自然学となる力を発揮する。現代の科学者も、実験室において人工の設備を使った個別の実験から宇宙全体の法則を探求している。宇宙全体の法則は、身近なところに分散かつ連携して実現しているのだ。現代の科学者は、天体からの光や宇宙線を観測するのみならず、実験室で、素粒子を観察し、物質の相変化や流動を観察し、生命の機能や遺伝を観察する。そして、その成果は、自然全体の解釈につながっていく。批判はあっても昌益の発想が画期的に科学的であることは認めざるを得ないだろう。
 
 また、安藤昌益の言うには、「人間は全員、米を作って食べるべき存在である」という原理を真理として導かない原理はすべて虚偽である。根本原理に逆らっているが例外的にこれだけは正しい、などという「例外」は存在しない。士農工商の差別制度を認める行政権はすべて不正で、それを認める「天道」はすべて虚偽である。これによって、宇宙全体の法則の真偽を見分けることができる。現代の理論物理学で、アインシュタインの一般相対性原理を真理と仮定するなら、一般相対性理論を肯定的に導かない宇宙原理は、すべて虚偽、あるいは本質的な欠陥品である。アインシュタインの相対性理論を超える新理論を作るのはよい。しかし、一般相対性理論が正しく説明できている宇宙現象と矛盾する結論を導く新理論は、間違っていると言わざるを得ない。これによって、宇宙の原理の新説を論理的にふるいにかけることができる。
 
3.3 昌益の思想の具体的戦略
 昌益が宇宙の物質界の原理として重視したのは、五行説であった。五行説は現代の原子論に対応するもので、木、火、土、金、水の5元素から宇宙ができているとするものである。昌益は五行の5要素を宇宙の基本的かつ動的な構成要素とするために、これを統一し、抽象的操作でそれが5種類に変化するという形式に扱えるような理論を作った。この理論の構造と特徴については後編でまた取り上げるが、三浦梅園の陰陽説(これも次回)と共通する数学的構造を持つものであった。惜しむらくは、昌益には現実の現象を系統的に記述する知識と才能が欠けていたので、これを自然現象の研究にまで進めることはできなかった。ただ、研究の方向を示したのみである。しかし、一つの方向に向けてともかく出発した、そして、それは現代科学の方法と共通性を持っていたということは、それだけでも高く評価されるべきである。
 
 昌益は、政治家でも社会活動家でもなく、また、農業指導者でもなかったので(本職は医師であった)、現実に農業を改革することも、一揆を指導することも、後の大塩平八郎のように思想と武力で反乱を起こすこともなかった。そういう意味では、彼は東洋思想の範囲の人であり、知識人、学者として見れば、二流、三流とされるかもしれない。しかし、自然学の発想だけは、前人未踏のものであった。残念ながら、江戸時代にはその期は満ちていなかった。彼の思想は来たるべき近代社会を待っていたのである。
 
 現代の社会を動かしているのは、決して個人の思想や信条ではない。種々の製品の製造技術、エネルギーの循環、通信技術、環境科学が、自然科学を基礎として、世界の経済を支配し、政治形態をも制約する世である。人間のこしらえ事の法律だけでは、橋を架けることも、自動車を走らせることも、原発を運転することも、都市環境を維持することもできなくなった。そして、それを学ぶことが、現代社会で政治や経済の複雑な案件を処理するためにもっとも重要なことになったと言っていいだろう。現代における思想は、これらの実証された事実の積み上げの上に成り立つもので、こしらえ事では一日たりとも通用しない。安藤昌益は、人間と宇宙の法則をつなぐ自然学が社会を支える時代を予見した偉大な先駆者であった。
 
 次回は、三浦梅園の自然学を紹介、分析し、二人の自然学がなぜ宇宙全体を説明する方法に迫れたかという問題を考える。
 
                        (つづく)


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