西中筋天文同好会40年の思い出

 その2 田中 邦明

 西中筋天文同好をスタートさせた3人は、1973年3月に福知山市立南陵中学校を卒業し、4月には京都府立福知山高等学校へ入学した。

 東は写真部、上原は物理部(科学部と記憶していたが、正しくは物理部であったとのこと)、私はバレーボール部に入部した。

 各人が各部活の中で活動し、高校生活の中では西中筋天文同好会の活動は低調にならざるを得なかったが、なぜか部員は増えていった。本当に部員と呼んで良かったのか、かなり曖昧な部分もあるが、一応そういうことになっている。

 高校生活にもやっと慣れ始めた頃であった。チェコの天文学者コホーテク氏が発見した彗星(1973年3月7日発見)が、翌年、地球に非常に接近し、肉眼でも観測できる大彗星になるという予報が流れるようになった。コホーテク彗星(1973f)である。

 近日点通過前の1973年12月までは明け方の空に見られ、近日点通過後の1974年1月には夕方の空に見られるようになることは明らかであった。マスメディアの報道は「金星より明るくなる」や「1月には1等星」というものなど、必ず肉眼彗星になると思える報道であった。

 「が、しかし待てよ、マスメディアの報道は前回のジャコビニ流星群で懲りたはずではなかったか。いや、今度は間違いないのでは…というのも前回はプロが否定的な見解を述べていたけれど、今回はプロもある程度は認めているじゃないか…え?一部否定的なプロもいるって?そうか、では大きな期待をしないように、派手な観測態勢もとらないように、ソッとして大彗星を待つことにしよう」ということになった。

 「ソッと待つ」こと数ヶ月。1974年正月明けから、バレーボールの部活が終われば直ぐに、12×50mmの双眼鏡を片手に持ち、毎日コホーテク彗星探しを行ったものの、肉眼彗星はおろか、見つけることすらできなかった。1月10日過ぎだったように思うが、かすかに尾を引く彗星のような天体を見つけることができた。あれは本当にコホーテク彗星だったのか、今でも確信が持てず、ジャコビニ流星雨に並ぶ「2大ガッカリ」であった。

 余談であるが、この頃、私と佐古田が所属する福知山高校男子バレーボール部は春の高校バレーの京都府代表となり、滋賀県代表と東京への切符を掛けた京滋決勝のため連日練習に明け暮れていた。しかし学業は高校入学時に学年トップクラスであった成績もズルズルと下がる一方で回復することもできず、結局京滋決勝でも滋賀県代表の近江高校に敗れたため東京体育館へも行けず、ここで一区切りつけようと、もう1人の1年生部員足立耕三(後に赴任先の博多で急性心不全を発症し25歳の若さで他界)とも相談して全1年生3人が退部した。

 ここで天文高校生として活動するるつもりであったのに、そうはならなかった。7人しか部員がいないのに、全1年生3人が退部すれば2年生4人しか残らず、6人制バレーボールには出場できない。新年度になって新入生が加入するまで待たざるを得ず、また加入したところで少し前まで中学生であった新入生に過大な期待はできず、我々に復帰を促す強力な誘いがあったのは当然のことである。

 結局、佐古田と私は復帰し、足立は勉学の道を選んだ。幸いなことに1974年の全国高等学校総合体育大会(通称インターハイ)と国民体育大会の京都府予選も勝つことができ、福岡県直方市と茨城県古河市で全国の強豪と戦うという貴重な体験もできた。

 全国高校総体バレーボール会場となった直方市では炭鉱から掘り出されたボタ山を見て驚き、宿泊先の裏山が福智山という名で不思議な気持ちになった。

 国体では開会式の大きさと派手さに驚き、関西と地元の言葉のイントネーションの違いに不思議を感じた。その国体から帰って、3年生の退部とともに、やっと退部することになった。

 ここまで読まれた方は私と佐古田が国体へ出場と理解されたと思うが、佐古田は国体には行かなかった。

 当時福知山高校の2年生は秋に九州旅行をすることになっており、1974年(昭和49年)は偶々国体京都府選手団の出発と福知山高校2年生の修学旅行への出発が同じ日であり、就学旅行団は朝、国体京都府選手団は夜の出発であった。佐古田は朝の就学旅行を選択した。私は国体を選択した。そんな経緯である。

 高校生になってから会員数は徐々に増え、観測会も何度か開催したが、まともな観測会は一度も行われなかったように記憶している。

 観測地は、高校のグラウンドから福知山市北方の三岳山中腹、青少年山の家近くの鳥居前広場キャンプ地で開催することが多くなった。(この鳥居がどの神社の鳥居だったのか、全く記憶にない。)

 当時からキャンプは有料であったようであるが、地元の高校生二人が参加していたためか、参加料を請求されたことはなかった。ヒョッとすると、地元の高校生の保護者の方が支払ってくださっていたのかも知れない。

 この観測地は、国鉄福知山駅(現JR福知山駅)から山陰本線に乗り、一駅ではあるが10分程度乗車し上川口駅で下車、そこで京都交通の上佐々木行きバスに乗り国道426号線の曲がりくねった山間の約5kmの道を20分ほど揺られ「農協前(三岳小学校前)」で下車、そこから更に約3kmの登り坂を約1時間半歩く。

 この道は自動車が走行できる幅はあったが、当時未舗装部分がほとんどで、自動車もオートバイも自転車も歩く人も滅多に見かけなかった。

 またこの道は森下喜成君の祖父の設計であるとのことであった。いつの間にか同好会員となった二人の三岳小学校卒業生、森下喜成君と森下京子さんによると、通学時に熊よけの鈴をランドセルに付けていたとのことであるが、熊や猪や鹿に遭遇しても何の不思議もない登山道3kmであった。

 その3kmの道のりを歩いて、三岳山中腹へ流星観測に初めて行ったのがいつだったか記憶は定かではない。高校2年生の夏であったような気もするが、上原と二人で三岳小学校前のバス停から延々歩いたことは確かである。

 こんな交通の便の悪いところから「よく福知山高校へ通学しているなあ」と感心もし、平家の落人伝説が多いのも納得できた。この観測地近辺から福知山高校へ通学していたのは少なくとも3人である。先ほどの2人の森下さんと、天文同好会とは無関係ではあるが、観測地の更に上に立地していた金光寺の御住職の娘さんだったと思われる石坪さんである。

 他のメンバーの多くは、自宅から自転車で10分程度で福知山高校へ通学していたため、その差はあまりにも大きい。

 三岳山頂は標高約839m、中腹の観測地は約350mである。観測地は南側に開け、北極星付近から南のかんむり座あたりまで良く見えた。また大都市からも離れ、夜間の人光が少ないため夜空は暗く、天頂から南天にかけての銀河が雲のように見える驚愕の星空であった。

 驚愕は星空だけではない。驚くべき蚊もいた。なんとジーパンの厚めの生地を通して血を吸われたのである。参加者の、ほぼ全員がジーパンや他の衣服の上から蚊に刺され血を吸われた。

 さらに驚愕は続いた。FM大阪が受診できたのである。※ソニー・スカイセンサー5500で受信した音声は実にクリアであった。(ソニー・スカイセンサー5500…これも懐かしいでしょ?)私が海外の短波放送を受信してベリカード(Verification Card)をもらうために使っていたラジオである。このスカイセンサー5500の購入には、修学旅行のために積み立てていた旅費が払い戻された数万円を充てた。私が国体(茨城大会)に出場するため、修学旅行に行けなくなり、親に頼んでスカイセンサーの費用に充てたのである。今のようなインターネットを活用した通販や宅配便も無かった時代であるが、偶然にも父が東京へ出張することとなり、秋葉原で購入し自宅まで持ち帰ることができた。

 後になって気付いたことであるが、私がラジオを買ってもらったのは2台目であった。1台目は小学校1年生、7歳の時である。その頃も父は東京へ数ヶ月出張しており、秋葉原で東京オリンピック記念ラジオで日の丸をデザインしたラジオ(東芝製であったと思われる)を買ってくれていた。

 電波の特異点は多く知られていると思うが、私が京都北部でFM大阪を受信できたのは、舞鶴市の日本赤十字病院と伊佐津川に挟まれた土手と、大江山連峰にある大江山スキー場上部、この観測地の3カ所である。

 この土手は、私が以前住んでいたところの近くであり、父が大きなVHF用アンテナを立て、1960年頃から大阪で放送されていたテレビの民放を受信していたことで、幼い頃から大阪の電波が届く場所として知っていたものである。いずれも大阪からの電波を遮るものが無いことが特徴である。おそらく、大江山連峰の各ピークや大江山スキー場の上部でも大阪のFM局は容易に受信できると思い試した結果、受信を確認することが出来た。

 雲海が眼下に広がる場所だけに水蒸気による影響も少ないため透明度も高く、流れる流星も大きく明るい気がした。ここで惑星を見たら素晴らしい像が見られるのではないかと自然に思ってしまう。

 今も夏になると、この場所に星を見に行きたくなるが、冬に足を運ぶ気力と体力は無い。

 天体から少し、いや、かなりずれてしまったので、天体現象に戻そう。



 1974年の11月29日から30日の明け方にかけて皆既月食が見られるはずであった。高校2年生であった我々も観測することになった。

 当然ながら観測地は三岳山中腹のいつもの観測地であるが、月食観測のために、わざわざ三岳山中腹まで遠征する理由は全くといっていいほど見つからない。
 なぜ、そんな遠方まで遠征したのか、今となっては、ますますわからない。
 大雨で月食観測は全くできず、テントの中で約10名ほどが明け方まで晴れ間を待って、ウダウダとろくでもない話しや麻雀やトランプをしていたのであろうと思われる。
 翌日の授業1時間目に間に合ったのかどうか憶えていないが、私は国語の授業中に爆睡して麝島先生の御機嫌を損ねたことは憶えている。



 1975年8月31日(日)、明日から2学期が始まるのを前に「嫌やなあ〜」と思っていたところへテレビのニュース番組で「はくちょう座に新星発見」が流れた。なんでも国内の第一発見者は岡山県の高校生らしい。夏休み終了の嫌な気分が少し薄れた夜であった。

 翌9月1日、NHK朝の報道番組(番組名は「スタジオ102」やったような)に、その高校生(長田健太郎さん)が岡山だったか広島だったかのスタジオへ出向き、中継で東京のスタジオからインタビューを受けていたのを今も憶えている。また学校へ登校する前の出演であることをNHKが強調していたことも記憶している。

 詰め襟制服姿の真面目そうな高校生が、控えめに受け答えするインタビューであった。インタビューの内容を聞いていると、我々と同じ高校3年生らしい。何処にでも似たようなことをしている高校生がいるなあと思った。発見は8月29日午後8時頃。その頃、福知山近辺は雲が多く、とても天体観測をする気分ではなかったなあ、と言い訳めいた思いもあった高校3年生2学期の初日であった。

 この後、特に目立つ天文現象もなく、高校卒業後の進路が決定するまで活動を休止することとした。活動休止のために銀河鉄道記念号を出すことにしようと企んだ。会員だけではなく、いろいろな人に記事を書いてもらおうと、彼方此方に無理をお願いした。先に御機嫌を損ねてしまったことを報告した国語の麝島先生、大して御縁もなかったのに無理矢理お願いして快く一文を寄せてくださったフォーク歌手の高石ともや氏など、なんでこの人が?と思われる人からも原稿を戴いた。

 その数ヶ月後、我々は高校を卒業した。上原は広島大学理学部へ、東は陸上自衛隊の幹部候養成学校へ、佐古田は福井大学工学部へ、私は大阪府立大学工学部へ、ある者は浪人の道を選び予備校へ…と皆がバラバラになってしまった。しかし上原の「銀河鉄道創刊40周年に思うこと」によると、この後も3年間で15回「銀河鉄道」は出されている。ひとえに上原の努力に依るところが多い。

 しかし、その後1979年〜1993年の15年間1回も「銀河鉄道」が出されることはなかった。この間、学位を取得、就職、結婚、子育てなど、日常に追いまくられる多忙な時機であったため、そうなったように思う。おっと、また脱線している。話しを天体に戻そう。



 1976年のウエスト彗星は、メディアの大騒ぎもなかったが、近日点通過後の1976年3月には肉眼でも見られる大彗星となった。今も20世紀を代表する美しい彗星とされている。

 この彗星は1975年8月10日にヨーロッパ南天天文台のリチャード・マーティン・ウェストによって発見された彗星とされている。

 この年、大学生になった私は、憧れであった高橋製作所のTS式65mm屈折赤道儀P型を購入した。
 鏡筒は有効径65mm、焦点距離500mmのセミアポクロマート、高価であったが、とても口径比7.7 とは思えない良い星像であった。また赤道儀も極軸望遠鏡を備えており極軸合わせも短時間で可能となっていた。

 なんとか、この望遠鏡でコンテスト入賞をとの意気込みだけはあった。固定撮影で白鳥座を横切るペルセウス座流星を捉えたカラー写真がフジカラーネイチャーフォトコンテストの天体写真分野で入選し、梅田の丸ビルで展示されたことがあったが、単なる偶然の産物であり、結局大学時代に、この望遠鏡で天体写真コンテスト等に入選したことはなかった。

 TS式65mm屈折赤道儀P型のポータブル機能を活かし、北アルプス徳本峠(とくごうとうげ)から蝶ヶ岳まで遠征した。
 その降るような星空たるや…と書きたかったが、山にいる間、一度も晴れず「自分はヒョッとすると雨男か?」と思うほど天候には恵まれなかった。
 総重量30kg(今では信じられない)になった背負子で山を歩いたのは徒労であった。

 若い頃には何の苦労もなかったことが、今では信じられないほど苦労することも少なくない。
 まず視力が格段に低下した。高校時代は白いバレーボールが回転する方向までハッキリ見えたが、今では3色のカラーボールでさえ回転の向きがわからない。筋力も低下した。高さ2m40cmのネットでアタックを苦もなく打っていたことや、相手のアタックしたボールをブロックする際に、喉や胸に当たったことなど、夢のようである。
 同様に星も見えなくなり、天体観測に遠出する体力も気力も徐々に低下してきている。オッと、また脱線。



 1983年4月30日の明け方、木星食が観測されるはずであった。就職して4年目の私は向日市に住んでいたが、ゴールデンウィークで気が緩んでいたのもあり、目覚ましを無意識のまま止め、目覚めた時には日は高く昇っていた。

 1983年4月25日、国際協同計画で打ち上げられた赤外線天文観測衛星IRAS(アイラス)が発見した彗星が、5月4日に新潟の荒貴源一氏とイギリスのオールコック氏が発見した彗星と同じものであることがわり、IRAS・荒貴・オルコック彗星と呼ばれることになった。
 明るく見えるとメディアは騒いだが、私が向日市から12×50mmの双眼鏡で観測した際は、あまりにも大きく拡散し、ボンヤリした本体から細めの尾が目立っていた程度である。しかし、その移動の早さには驚かされた。数分で移動が視認できる超高速移動彗星であった。

 1986年のハレー彗星もメディアは大騒ぎであった。私は2年前、昭和59年の大雪の頃に結婚し洛西に住んでいた。久しぶりにミザールHー100を持ち出し観測した。長男がお腹にいた家内もアイピースをのぞき込んだが「これがハレー彗星?雲じゃないの?」と尋ねられる程度で、メディアが大騒ぎするほどのものではなかった。そこでハッキリとハレー彗星が見られるようにと25cmの反射鏡と斜鏡を購入したのもこの頃である。しかしこの反射鏡と斜鏡は、半自作反射望遠鏡として日の目を見ることなく、未だに押し入れの段ボールの中に眠っている。
 ハレー彗星ほどの大彗星になると、専門家の「今回は大して明るくはならないですよ」の説明に耳を傾けず、ネームバリューだけが一人歩きし、メディアも便乗した。

 この頃、京都市の空は明るすぎ、星の観測にはチョッと無理があるとの思いもあり、長男誕生も間近になった翌年3月、勤務していた半導体メーカーを退職し、教員となって福知山へ戻った。

 赴任した中学校の関係者で天文好きな複数の人と知り合いになったが、極めつきは現在の近隣の児童科学館のK館長であった。星好きが高じて、京都府南部の光害から逃れ舞鶴の郊外へ移り住んだだけではなく、自宅に26cm反射赤道儀を据え付けた天体観測所まで作ってしまった人である。勤務した中学校の校庭で星夜撮影や星を見る会を開催する有名な校長先生でもあったが、御退職後、児童科学館館長として活躍しながら、福知山の地方紙「両丹日日新聞」に星空散歩を連載される尋常ならぬ星好きである。
 また舞鶴市の多祢寺には天文ガイドの天体機器製造販売広告もあるユーハンの舞鶴工場があり、その近くには舞鶴の天文好きの人たちが作った自作天体ドームもある。
 私がミードの10インチシュミットカセグレン望遠鏡を購入したのも、この頃である。集光力は別格であった。写真撮影には不向きな赤道儀であり、いつかは堅牢な赤道儀に載せ替えたいとおもいつつ20年以上が経過した。

 1990年4月から1年間、私は某大学大型計算機センター(現在は情報メディアセンター)に居候(本当は国費で研究活動等を)させていただいた。中学校には3年間数学の教師として勤務したが、平成元年からは高校の教師として勤務していた。そこでコンピュータ好きが高じた結果、このような機会を得ることができた。大型計算機センターで過ごした1年間は刺激的であった。スーパーコンピュータがあり、UNIXワークステーションがあり、メインフレームのネットワーク ビットネットがあり、インターネットの前身のJUNETがあり、TCP/IPの勉強会があり、古典的な電子計算機の書籍から最新のコンピュータサイエンスの情報誌までがあった。今では当然のようにハイパーテキストをWEB上で眺めているが、UNIXマシン上で初めて見た実装ハイパーテキストは新鮮で、フレンドリーであった。この新鮮でフレンドリーは銀河鉄道のような分散型チームに向いていると直感的に感じたことを記憶している。

 1990年の何月であったか、すでに理学博士となり、当時の国立高エネルギー物理学研究所に研究者として、あるいは大学院生の指導教官として勤務していた上原を訪ねた。上原は国立高エネルギー物理学研究所の「大穂」に籍があり、既に素粒子物理の専門家になっていた。地下何階であったか記憶にはないが、調整中であった加速器の一部と検出器の一部を見せてもらった。年初の東証での株価大暴落で景気後退は始まっていたが、やはりバブル期に計画された研究所は別格であった。

 初日の夜に訪れた筑波学研都市の上原宅では、奥方がお産のために帰郷中であったため、上原が準備してくれた鰹のたたきがビールに良く合い美味しかったことと「震度4程度の地震はしょっちゅうあるし、気にせんでも大丈夫」と言われたことを記憶している。20年ほど後に東日本大震災が起こるなどと夢にも思っていなかった。

 1990年と言えば思い出す歌がある。吉屋潤や菅原洋一が歌っていた「1990年」である。「1990年 娘は21 女の季節を 迎えているだろう 春が来て 恋を知り 夏が来て 血が騒ぎ  どんな男に どこで抱かれるやら どんな男に 命預けるやら 秋の夜 涙して 粉雪にうちふるえ 女の悲しみを はじめて知った時 私のすすめる お酒を飲むだろう  1990年 娘は21 女の季節を迎えているだろう しあわせになるんだよ しあわせな女に 母親を棄てても 父親を棄てても しあわせの旅を 続けていくんだよ」と、吉屋潤がパティ・キムとの愛娘を想って作った歌と言われている。その娘さんも今は43歳。私に娘はいないけれど、子どもに「しあわせになるんだよ 母親を棄てても 父親を棄てても しあわせの旅を 続けていくんだよ」という思いは同じである。

 1991年4月に大型計算機センターから高校へ戻った私は校内情報システム導入の担当をしていた。「集中から分散へ、分散から超分散へ」が、成長最盛期の独立系情報処理会社CSK(当時)のオーナー社長である大川氏の言葉であるが、時代を象徴する言葉として非常に印象深く記憶に残っている。メインフレームを中心とする集中処理から分散型処理へ、サーバとネットワークを使った超分散処理へと時代とともに推移するという意味である。

 当時の高校は、校外のネットに接続することに多くの規制があり、JUNETに接続するのはかなり困難な状況であったが、多くの情報技術に関する新しい情報を入手するためには何としても接続したいという思いがあり、近い将来、TCP/IP上のメールサービス機能やサーバ機能、ハイパーテキスト、WWW等の技術が一気に広がる確信もあったため、当時の高校としては規格外の情報機器を導入した。校内LANのバックボーンに100Mbps光ファイバ、支線には10BASE5のイエローケーブル、サーバとして11台のUNIXマシンも導入し、外部接続後の校内LANは整った。校内でのUNIXマシン上で各種サーバの設定や、プロセス間通信、アクセス制限等の演習は、当時の高校生にも好評であった。これらは、当時の教育委員会の先進的な高校を作るという思いがあったからこそ実現できたことである。

 こんな校内LANを持ちながら、外部ネットワークとは接続することができず、まさに陸の孤島状態であったが、何としてもJUNETに接続し、丹波の盆地で高校3年間を過ごす生徒に少しでも世界の香りだけでも届けたいという思いは強かった。そんな思いを持ちながら、1993年10月全国の研究会で校内LAN導入の事例発表でTCP/IPやハイパーテキスト、各種サーバ設定等のネットワーク技術に携わる現場作業者が今後不足することは明白で、その教育が必要であり、学校にも何としても外部接続の導入を、と訴えた。発表後の参加者の反応は冷やたであった。特に他の電子回路技術の発表者や制御技術の発表者に比べると異端として見られているのがよくわかった。発表後、一人の参加者が近寄ってきた。一見すると柔道無差別級のチャンピオンのような、警察なら暴対所属のような…。聞くと、神奈川県の高校のM先生であった。現行犯逮捕されるのではないかと思わせるような迫力で、矢継ぎ早に質問を投げかけてくる。どうやら、この先生もネットワーク技術が今後広く普及し、その技術が社会を変えて行くために、その準備が必要であると考えているようであった。その場で、じっくりと話したかったが、生憎、直ぐに函館発の列車で帰らなければならず、名刺の交換だけで足早に函館を後にした。

 暫くすると、M先生からデジタル通信回線を提供できるかも知れないという連絡が来た。あるプロジェクトのスタート前年のことであった。このプロジェクトに参加し、当時としては高速の64kbpsデジタル回線を提供を受け、この回線を通じてインターネットに接続することができた。(このプロジェクトでは多くの人にも出会うことができた。K大学のM先生、シスコシステムズのSさん、当時の通産省のKさん、雑誌や専門誌で見た人たちと出会うことができた。この人たちに共通していたのは一日を30時間くらいに濃密にして使っていることであった。私は逆に今も昔も一日を半分程度にして無駄に使っている。)ちなみに、この前段階で私が所属する高校はネットワークアドレスBクラスを取得していた。その当時Bクラスを持っていたのは府内では京都大学くらいである。知る人が聞けば、何と無謀な、ということかも知れない。またまた大脱線したため、本線に戻ることにする。



 インターネット接続が可能となって間もなく、ビッグニュースが飛び込んできた。1994年 SL9彗星、つまりシューメーカー・レヴィ第9彗星が木星に衝突したのである。この衝突は中野主一郎氏が予測していたことで有名である。また、この衝突時の画像を多くの人がインターネット経由で見ようとしたために、画像を提供していた京都大学のサーバがダウンしたことでも有名になった。

 衝突痕は小望遠鏡でも見られた。黒っぽい衝突痕と見慣れた木星のコントラストは、多くの人に強い印象を与えたと思われる。こういう現象を見る度に、私たちが生きているのは奇跡に近いと感じざるを得ない。地球の海の平均深さを4000m、富士山より少し高い4000m、海面を挟んで上下8000mを私たちの生活を主に支えている空間と考える。直径1mの地球を考えた場合、この上下8000mは、0.6mm程度の厚みしかない。また地球上の大都市が海抜0m付近に集中していることを考えても、よく滅びずに存続していると思うが、地球規模で考えると、ヒョッとして西暦2000年も、中国4000年の歴史も、ほんの一瞬の出来事であるがゆえに存続しているだけで、春の宵の夢の如し、なのかも知れない。

 この後、肉眼彗星が続く。1996年の百武彗星、1997年のヘール・ボップ彗星である。この2彗星は家族で見た。私には過去にない見やすい彗星であったが、家族にはぼんやりとした印象しか与えなかった。私の家族は、上原の家族とともに綾部市上杉の体育館前でペルセウス座流星群を何度が眺めていた。それで、彗星もコントラスト良く見えるのではという期待が、私の家族には、あったのかも知れない。この流星観望には、森京と息子さん、魚屋さんの中井夫婦などの参加もあった。中久保真理さんも子どもさんと参加しようとしてもらったようであるが、場所を連絡しておらず、参加はかなわなかった。



 そんなことをしているうちに、「1999年7の月」に恐怖の大王の登場もなく、いよいよ世紀末を迎えた。西暦2000年は400年に1回しかない特別な閏年であった。

 地球の公転周期について、1太陽年(太陽が春分点から春分点まで一巡りする時間)が365.2422日で、1恒星年が365.25636日なので…なんて説明すると、読む人が嫌になるのではと思うので、早い話が、太陽の周りを1周する時間は、365日0時間0分0秒ジャストではないので、閏年として4年に1回2月を29日に増やし、100年に1回末尾に00となる閏年の2月を28日に、さらに400年に1回つまり1600年、2000年、2400年の2月は29日とする、なんてことをしながら微調整しているわけである。つまり西暦2000年は、400年に1回しかない珍しい閏年であった。その前は「天下分け目の関ヶ原」の西暦1600年であるので、大変珍しい年であったが世間では何の騒ぎもなかった。



 20世紀から21世紀に世紀をまたいでも特に大きな変化はなかったが、この年、天体観望を初めて最大の現象に遭遇する。2001年しし座流星群である。

 この流星群は、母彗星であるテンペル・タットル彗星から放出された塵が公転中もあまり拡散せず、彗星の軌道を中心に一定の範囲に集中していると考えられており、その位置を計算したイギリスのデイヴィッド・アッシャーは、流星群が出現する時刻と規模を正確に予測することに世界で初めて成功したと言われている。アッシャーは惑星の重力の影響や塵が太陽光から受ける圧力も考慮して1998年以降のしし座流星群の出現を予測、高い精度で極大時刻を的中させた。特に、この2001年の大出現では、最大出現時刻の誤差はわずか5分程度であったと言われている。

 私はつくばにいる上原と携帯電話で連絡を取りながら、舞鶴自動車道の福知山−丹南篠山口を南下、北上しながら観望した。それは、 銀河鉄道WWW版第9号 「2001年レオニズ・ドタバタ記」で御覧いただくことにする。

 過去の獅子座流星群大出現は33年に1度ということになっており、現在は2001年から11年を経過した2012年である。33年の2/3が経過し、私も観測時の44歳から55歳となった。後22年、なんとか誤魔化しながら77歳まで頑張って、2034年、獅子座流星群大出現を、もう一度観望したいものである。(ヒョッとすると大出現は数年ズレるかも。アッシャーさん、その系譜を継いで大出現を予測できる人たち、たのんまっせ!)



 私が死ぬまでに見たいと考えている自然現象が3つある。ひとつは先に書いた流星雨である。これは2001年に実体験した。残りのふたつは皆既日食とオーロラである。オーロラは、今のところマネーと時間が準備でき、タイミング良く北欧などへ行けば観望が可能である。しかしマネーも時間も(高額の宝くじにでも当たれば別であるが)今の私には無い。また皆既日食観望も、そう簡単にできそうにはない。

 残念ながら今年(2012年)5月21日の日食は金環日食であった。5月21日東京出張へ出かける朝であった。金環日食は予定通りの時刻に起こった。自宅を出発する際に天文ガイド付録のサングラスを持ち、列車内からも移動しながら観望した。最大食分時には快晴であるにもかかわらず薄暗くなった。しかし金環食は大きな部分日食である。これが皆既日食なら、鳥や動物の鳴き声、明確な気温低下が体験できたろうにと思うと、やはり一生に一度は皆既日食の皆既帯に入って、地上の状況も含めて観望しなくてはならない。

 その後2週間ほどして6月6日は金星の日面通過を観望した。これも天文ガイドの付録が活躍したが、太陽面を小黒点が淡々と進むという感じで、巨大黒点やSL9のジュピターインパクトのような一大現象ではなかった。



 この先、何年天体観望を続けることができるのか神に尋ねたいところではあるが、神は誰にも教えないようである。天が定めたことは神も答えられないのかも知れないが、可能な限り、いくら権力を握ろうが、お金を使おうが、意のままにならない天体現象を、可能な限り1回でも多く観望し続けたいと願っている。

2012年師走


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