江戸時代の日本における基礎科学研究の成果についての概観

上原 貞治

目次


0.序

1.物理学

 1-1 三浦梅園

 1-2 志筑忠雄

 1-3 帆足万里

2.天文学

 2-1 麻田剛立

 2-2 高橋至時

 2-3 間重富

3.数学

 3-1 日本の江戸時代の数学界

 3-2 和算史の概説

 3-3 和算の特質

 3-3 微分と積分について

4.3つの分野のつながり

5.まとめ

参考文献

0.序


自他共に認める「科学技術大国」の日本において「基礎科学における国際貢献」が叫ばれるようになって久しいが、まだまだ辛口の評が多いようである。「日本は基礎科学分野での貢献が少ないのではないか。」という意見だけでなく、「日本人は基礎科学が得意でないのではないか」という意見さえある。また、その一方で、「十分がんばっていますよ。」という声もある。
現代の日本が「技術」つまり「応用科学」の分野で優れた成果を多く上げていることは周知の事実である。日本の技術の伝統は、江戸時代以前にさかのぼることができる。日本人が、たとえば鉄砲を、種子島に伝来して以来わずか半年後に国産品として量産を始めたことは、これの典型的な例である。
さて、それでは「基礎科学」の方はどうだったのであろうか。ここで「基礎科学」という言葉が問題になる。厳密な意味で言うならば、日本の江戸時代に基礎科学なるものがあろうはずはなかったし、当時の西洋にもそんなものがあったかどうかあやしい。しかし、そのような厳密な定義の議論は、ここでは有用ではない。ここでいう「基礎科学」は、科学史上の言葉としての「自然哲学」と考えてもらってよい。「科学史上の」とことわったのは、現代の科学者に見られるような「実証主義的な」あるいは「客観的な」態度をこの学問をした歴史上の人たちに多少なりとも要求したかったからである。
江戸時代、日本は鎖国をしていた。現代の視点から考えると、国を閉ざすことは学問の発展にとって致命的であるように思われるだろう。しかし、実際には、鎖国は外国の文化からの干渉を逃れて日本人固有の思索をゆっくりと発展させる機会となったのである。それが、文化や芸術の分野で大輪の花を咲かせたことは周知の事実である。しかし、科学の分野では、情報の蓄積や客観的な分析、研究者同士の議論というものが不可欠である。鎖国をしていた日本人は、この状況を克服できたのであろうか。そもそも、日本に基礎科学と呼べるようなものがあったのだろうか。これが、ここで論じたい問題である。
以下、便宜上、現代の区分に従い、基礎科学を、物理学、天文学、数学の3分野に分ける。江戸時代にこんなジャンル分けがあったはずがない。でも、私が、ここで行いたいのは、現代と江戸時代の学問の違いを強調することではなく(大きく違っているのは当たり前で、そんなことは強調するまでもない)、共通点を見つけることなのである。それで、ある程度無理を承知で、現代にそのアナロジーを求めるという方法をおもに採用した。現代の視点から江戸時代の学問を評価することによって、我々は、多くのことを江戸時代から学ぶことができるに違いない。

1.物理学


江戸時代中期以降、「窮理学」と言われていた学問が、現代で言うところの物理学・化学に対応する。しかし、この窮理学は、おもに西洋での研究成果が蘭書を通じて日本に入ってきたのち世に行われるようになったものである。ここでは、西洋の近代科学が輸入され始めたころ、これを研究しながら思索を巡らせた日本の窮理学の始祖ともいうべき三人の学者を紹介する。
 1-1 三浦梅園(1723-1789)
東洋には、そもそも体系的な学問としての自然科学は生まれなかった。世界をどのように捕らえるかという学問としては、古代中国に起源する儒学がこれの金科玉条的な役割をはたした。また、老荘思想、朱子学は、この中国哲学に自然哲学的な内容を盛り込んだものである。日本の江戸時代の学者は、儒学、朱子学をもってその自然に対する思想の根本とした。しかしながら、儒学、朱子学は自然の原理を金科玉条的に信じ込むものであり、科学として重要な実証主義的な面を持っていない。だから、これを、基礎科学と呼ぶことはできない。
三浦梅園の功績は、「中国の哲学を基礎とし、それに西洋の科学の成果を取り入れ独自の自然哲学を構築した」ことだと言われている。しかし、これは正確でない。
まず、梅園の自然哲学の基礎は中国伝来の儒学、朱子学とは全く違うものである。梅園は、中国の自然哲学の重要な要素である五行説を採っていないし、また、自然哲学を倫理学に結びつけることも積極的に行っていない。梅園自身が、まず昔の人々の説を忘れた真っ白な状態から考え始めるべきであるという意味のことを言っている。少なくとも、梅園は、過去の中国哲学を基礎としてそれを発展させた哲学をつくったとは全く考えていなかったであろう。梅園は、「陰陽」とか「気」とかという中国哲学の言葉を使っているが、それは梅園によって再定義されたものである。梅園は、年少のころより多くの書物を読みあさり万物の起源について知ろうとしたのであるが、ついに書物にこれを見つけることはできず、30歳近くになってようやく自分で「万物は『気』である」ことに思い及んだと書いている。この「気」が中国哲学でもともと言うところの「気」であるはずがない。梅園のいうところの「気」は、物理的実体を持つ自然の構成要素のうちの一つのカテゴリーを示す言葉なのである。
次に西洋の科学についてであるが、梅園は西洋から哲学を学ぶことは全くなかったと言ってよい。彼が西洋から学んだものは、天体の運動や物理現象などの「現象そのもの」であり、彼が長年かかって追い求めた「条理(根本の法則)」ではない。梅園は、ニュートンの力学法則に代表される西洋科学の基礎的な法則に触れることはいまだ出来なかったし、もし触れたとしてもそれを理解できなかったであろう。彼は、西洋人が発見した諸現象を自身がすでに完成していた哲学理論を証明する実例として利用したにすぎない。彼にとって、自然現象を説明することによって自身の理論を証明することは非常に重要なことであったが、西洋の科学思想などはどうでもよかった。あとに述べるように、彼の研究方法が西洋の近代科学におけるそれとほとんど違わないものであったことは驚くべきことであるが、これは彼自身が独自に到達した境地であった。
梅園が生涯を捧げて研究した分野は「自然哲学」であるということになっている。これは全く正しい。彼は、天文学や工学の専門家ではなかった。文系・理系という分類を敢えてするならば、彼は文系の人であった。しかし、彼の目的・彼のとった方法は、「自然科学」のそれである。彼は、自然界の現象にひそむ根本的な法則(条理)を探るために、まず対象をはっきりさせ、そして、それを抽象化・モデル化する。そのあと、仮説としての数学的な理論をそれに適用し、最後に現実の現象を参照してこれを実証したのである。これは現代の科学で行われている方法とまったく同じである。そういう意味では、彼がめざしたもの、彼がとろうとした方法は自然科学であった。しかしながら、時代の制約により彼の研究は自然科学の段階まで登ることはできず、自然哲学のレベルにとどまった。それは、ちょうど古代ギリシアのアリストテレス、ピタゴラス、デモクリトスといった人々が、宇宙論、原子論を論じながら自然科学者になれなかったのと同じである。まさに、梅園は古代ギリシアの自然哲学者と同列に扱われるべき人であったし、また、さらに近代のデカルト(気との近接作用)、ヘーゲル、マルクス(広い意味での唯物論、弁証法)といった人々とも共通点のある仕事をしている。
さて、いよいよ梅園の研究成果を基礎科学の立場から評価してみたい。梅園の自然哲学は独創的ではあるが、創造的なものをほとんど含んでいないため「実益がない」という評がある。また後継者がまったくいなかったため後世に影響を与えることもほとんどなかった。しかしながら、現代の基礎科学の観点から彼の進歩性を認められる点が少なからずあることは大いに評価すべきである。
梅園は、宇宙像を複数の観点から取り扱った。彼は惑星の軌道の形を論じる「幾何学的宇宙」と同時に光や熱の流れを説く「熱学的宇宙」を並列的に採り上げた。秩序整然たる宇宙と躍動的な宇宙の共存を認めることは、現代宇宙物理学を先取りするものであった。
また、梅園は、人体の現象と宇宙全体の現象を同じ俎上に載せ同じ法則で説明しようとしたが、彼はこの際に、人間において対象とするものと対象としないものを峻別した。すなわち、彼は人間の身体の構造、機能は自然法則の対象としたが、倫理学や社会学は扱わなかった。彼は自然科学が扱うべき対象とそうでないものを見抜いていたようである。また、現実の宇宙の構造を説明できるかどうかが自分の理論の正否の試金石と考え、相当の苦労をして西洋天文学の知識をとりいれたことは、まさに達見であった。
彼の自然哲学理論は、自然界に究極的な対称性を与えるものであった。彼は、宇宙に存在する物質や生起する現象にこの単純な対称性を付与するためにそれらを抽象化し、数学的記述である彼の膨大な量の「玄語図」に記載したが、彼はそれらの概念をただの観念的なものと考えず、それを「実在」のものとして扱った。これは、ちょうど現代物理学において、対称性や演算法則を持つ数学的な存在として数式で表現される素粒子や相互作用、エネルギーなどの物理量といったものが、同時に、現実世界に実在するものとして扱われているのと同じである。また、この梅園の理論では、自然界の異なる階層間の関係を支配する法則は、違ったレベルの階層間でも同一のものとなっている。これは、ちょうど現代の物理学・化学で、原子の構造、原子核の構造、ハドロンの構造を説明するのに、共通した数学的模型(ポテンシャルモデルや殻模型など)が適用できるのと酷似している。
そのほか、自然界の現象を「物質」と「気」という二つのもので説明しようとしながら、この二つを分離したものとしては扱わなかったこと(物質波、量子場と共通する考え方)、時間と空間の対称性とその構造、特に時間の起源と構造について深い洞察を与えたことは驚嘆に値する。梅園は、一次元の座標軸上に整列したものとしての時間のモデルに、「今」というものをどうやって融合させるかということについて試論をした。また、これに関連して、時間・空間の無限分割可能性や、時空点と宇宙全体 との関連で量子力学でいう不確定性原理を思わせるようなことまで論じている。
梅園の着想が、20世紀の物理学者と共通するところが多かったことはもっと注目されねばならないし、科学者の発想という点からもっと研究されねばならないのではないか。梅園の功績は、その歴史の流れにおける位置を分析するような科学史的方法でからではなく、現代の我々の視点から直接的に評価されるべきものであると思う。

 1-2 志筑忠雄(1760-1806)

志筑忠雄は、オランダ語の通訳で、物理学、天文学に関する蘭書の翻訳、とくに地動説を日本人に紹介したことで知られている。しかし、忠雄はただの翻訳家ではなかった。彼は、当時、日本人が誰も知らなかった西洋の科学思想に触れ、それをかなりのレベルまで理解しようとしたのである。もちろん彼にはそれをすんなりと理解することはできなかった。彼は、東洋の自然哲学を土台とした立場から西洋の科学思想の理解につとめ、その結果、彼独自の世界を切り開くことになったのである。
忠雄は、その初期の著「求力法論」で、いきなり難しいテーマに挑んでいる。これは、英国人カイルの書いた物理学書の蘭語訳を邦訳(正確には漢文訳)したものであるが、ただの翻訳ではなく彼自身の解説が和文で付け加えられている。この書物は、原子論を土台として分子間力を説き、これによって自然界の諸現象を説明しようとしたものである。ただし、当時はヨーロッパでも、原子論はまだ化学現象で直接証明されておらず、なかば観念的なひとつの仮説に過ぎなかった。
当時、日本には、原子という考え方もなかったし、カイルが基礎としたニュートンの科学思想(粒子間にはたらく機械的作用を自然の根本とする思想)についてはそれにたとえられるものすらなかった。しかし、忠雄はこのカイルの書を概ね消化している。ニュートンの科学を理解できたこと自体、驚くべきことであるが、ここで重要なのは、かれが西洋科学の理解するときに土台としたのは東洋の「気の哲学」だったことである。これは、粒子性を重要視するニュートンの科学思想とは相容れないものなのであるが、かれはその矛盾点に拘泥しているふしはあまりない。連続的な存在である「気」が粒状の原子と矛盾すると知ると、彼は五行説を持ち出して、「気」を現代いうところの力の「場」のように解釈した。かれは寛大にも、ニュートンの科学という竹を東洋哲学という木についだのである。
東洋の自然哲学は、気の一元論によって力を統一的に説明しようとする。忠雄は、重力も、分子間力も、空気の圧力も同じ起源のものと考えた。この考え方は、次に述べる帆足万里にも引き継がれている。彼は、自分が学んだ少数の科学法則でできるだけ多くの種類の現象を説明しようとしたようである。これは、現代の基礎物理学を奉じている学者の考え方と一致する。また、どうやら日本人は、こういう考え方を採る傾向があるようである。彼は晩年、カント・ラプラスの太陽系の星雲生成説と同様の太陽系の起源説を唱えた。おそらく、混沌から宇宙が生成されるというのは、神話をみてもわかる通り、東洋人が得意とする考え方であったのだろう。
忠雄は、西洋科学を理解したにもかかわらず、それを東洋哲学と対立するものとは夢にも考えなかったし、それらの違いについて思いを馳せることもなかった。その考え方を支えたものは、「一元論」の思想、すなわち、一見違うように見えるものも一つの原理により説明できるはずである、という彼の信念であった。この信念により、彼は、西洋科学と東洋哲学までをも一元化したつもりになったのであろう。西洋で幾多の大論争と宗教裁判を引き起こした「地動説の導入」は、日本においては、一人の東洋哲学の信奉者により何の葛藤もなく達成されたのであった。

 1-3 帆足万里(1778-1852)

帆足万里は、「窮理通」を著したことで有名である。教育者として優れた人であったことは間違いないようであるが、学問上の功績はどのように評価すればよいであろうか。
万里において最大の業績とすべきことは、彼が、朱子学や三浦梅園の自然哲学を、西洋の自然科学と比較するべきものとして扱っている点である。万里において初めて、日本における東洋自然哲学は西洋の近代科学と同じ土俵の上で比較された。これは、日本の科学史においても特筆されるべき事件と言えよう。志筑忠雄を含めた彼以前の人々にとっては、思想のベースは東洋哲学であり、西洋の学問はそれに新しい知見を加えるものにすぎなかったのである。
万里自身も旧来の儒学の信奉者であったので、科学に関する観測や実験のデータでは西洋の優越性を認めたが、「理」においては東洋の方が勝っていると考えた。しかし、これは、決して彼が西洋科学の思想を理解していなかったからではない。彼は、ニュートンに代表される西洋科学の法則や現象の結果のみを記述しその根本原因を問わない姿勢に不満であったのである。そして、彼が指摘した問題点はは西洋科学においてもその進歩とともに解決されてゆくべきことであった。
万里は「窮理通」で、様々な自然現象に対する西洋科学の立場からの説明の後で、自分自身の考えを添えている。そして、それがしばしば西洋科学による説明に反駁するものとなっている。万里の反論は、今日の知識から見るとほとんどの場合誤りであり、これは万里の知識の不足に起因している。しかしながら、当時は西洋にしても確固とした実証ができるほどの知識の蓄積があったわけではないので、万里の反論の誤りをただ単に彼の勉強不足のせいにすることはできない。それよりも、東洋の哲学を信奉する限り、西洋の自然科学は批判されねばならないということに気がついた万里の功績を多としたい。また、万里の反論の内容も興味深い。彼の反論は、万物を一つの原理(たとえば「気」の作用)で説明しようとする、東洋風の自然哲学に由来する内容の場合が多い。例えば、彼は重力と磁力とは同一起源の力であると考えた。
すでに述べたように、万里は日本で初めて、東洋哲学を西洋科学と同じ土俵の上で、冷静に分析した上で闘わせた人であった。おそらくこれは世界史上においてもまれな出来事であったであろう。そして、かれは東西の科学の葛藤の時代に生きた最後の人になった。というのは、彼以後の人々は「窮理通」などの詳しい教科書で西洋の科学を「勉強する」ことが可能になったからである。西洋科学を勉強するようになった日本人は、もう東洋哲学をそれと真っ向から勝負させるべきものとは思わなくなったのである。

2.天文学

江戸時代中期までの日本の天文学の研究内容は、暦を作るための暦算と特異な天文現象(いわゆる天変)の記録とがおもであった。これらの天文学は、精密な天体観測を要求すると言う点では現代の天文学と同じであるが、その根本の思想はかなり違うものであった。暦算にしても天変にしても、興味の中心になるのは、一言で言ってしまえば地上から見た天体の見かけの現象である。長い間、東洋では、天体の「真実の姿」すなわちその物理的本性が問われたことはなかったのである。
しかし、西洋の地動説に基づく天文学が日本に入ってきた頃、日本の暦算天文学の最先端にいた麻田派の中心にいた三人の学者は、すでに新しい道を切り開く必要性に気づいていた。
 2-1 麻田剛立(1734-1799)
麻田剛立は、アマチュア出身であったが、暦算天文学に秀でていたため、幕府により改暦のための天文方に指名された。しかし、老齢の故をもってこれを辞退し、彼の弟子、高橋至時と間重富をこの任に推挙したのであった。
麻田剛立は、当時の暦算天文学の第一人者であったが、ここで、暦算天文学は「基礎科学」かということが問題になる。暦を作る仕事は、天文学の一応用分野であり、基礎科学ではないというのが今日のおおよその見方であろう。しかし、当時の暦である太陰太陽暦は、作製にたいへん複雑な計算を要する割には精度が悪く、暦に記載されていた日食の予報などがしばしばはずれ、素人にもその不備が露見してしまう有様であった。そもそも剛立がその名を高めたのも幕府の暦の日食予報の不備を指摘したためである。それで、人びとに非難されないような暦を作るためには、当時得られた最高精度の天文計算(といっても太陽と月の視位置を計算するだけであったが)をする必要があった。暦算天文学は、当時の基礎科学であった、といって差し支えないだろう。
ところが、そのころの東洋ではまだ天体の運動の原理が知られていなかったので、計算は過去の観測との一致を手がかりにして勘と経験を頼りに試行錯誤で行われた。問題は、原理を知らずしてどうやって計算の精度を高めるか、ということである。
麻田剛立は、当時、漢書に載っていた暦算天文学の知識をすべてマスターした。しかし、西洋の天文学の知識について、漢書から学ぶことができるのは、地球中心のティコの体系と地球の周りの太陽の楕円運動(ケプラー運動)止まりであった。地動説については漢書には記載がなく(これは中国に来ていたカトリック系宣教師が意図的に地動説に触れなかったためといわれる)、蘭書の翻訳を通じて西洋の新奇な説として紹介されていただけであった。このような状況の下で、剛立は既存の暦の精度を独自の方法で高めることを目指したのであった。
それが、剛立の「消長法」である。これは、大変ユニークなもので、科学史の上からも注目すべきものである。「消長法」は、天文計算において、太陽年の長さを時代によって変化させる(消長させる)方法を指すが、これ自体は古代中国から行われており何ら新規なものではない。また、これは現代天文学でいうところの「永年加速」と呼ばれているものと同等の効果をもつものであるが、古代中国の天文学や剛立が採用した変化量は、現在正しいとされている値と比べて桁外れに大きいもので、実際上は全く正しくないものである。
剛立の時代の暦算天文学は、天体運行の原理を考えることはなしに、試行錯誤によって計算を過去の観測に合わせようとする努力に終始した。剛立は、この努力に一生を捧げた人であった。剛立は、太陽年の消長をただ単調な変化とせず、歳差の周期である26000年で周期的に変わるものとした。そして、太陽年以外の諸「定数」をも同じ周期で変化させた。彼は、自分が発見したこの消長法に絶大な自信を持ち、これを「秘法」として弟子以外には明かさなかった。ところが、この消長法は寛政暦に採用されたものの、短期間にして実際の天体の運行との間に差が生じ始め、剛立の消長法は誤りであった、ということがのちに明らかになる。それでは、緻密な計算家であった剛立は、なぜ(結果的に間違っていた)自分の消長法に大きな自信を持つことができたのであろうか。
私は、彼にはこの消長法の原理が正しいという確信があったのだと思う。彼は、太陽年の長さの変化と歳差は、共通の原因を持つ宇宙で最も壮大なスケールの変化であると考えたのではないか。彼には宇宙最大の原理を捕らえることができたという自信があったのだと私は推測する。剛立は、数字合わせの暦算天文学から一歩踏みだし、一挙に壮大な宇宙原理に目を向けたのではなかろうか。実際には、永年加速と歳差は、どちらも地球の自転運動の変化に帰着されるという「宇宙で最もスケールの小さい」変化であったことは、たいへん残念なことであった。
さて、次の問題は「ケプラーの第3法則」である。剛立がケプラーの第3法則を独立発見したという話の真偽は、科学史家によっていろいろと研究されているがはっきりとしない。しかし、剛立がケプラーの第3法則に相当する法則を日本で出版物で紹介される以前に知っていたことは事実であろう。それは、彼の直近の弟子たちが、剛立がケプラーの第3法則を独立に発見していたことを主張しているからである。これらの弟子たちは、剛立と一緒に研究をした後に、剛立の唱えた法則が西洋でも発見されていたことを知って驚いているので、弟子の言い分を信用したくなる。しかし、これが本当に剛立の独立発見であったかどうかは、今となってはもう実証のしようがない。オランダ通詞などから直接的にケプラーの第3法則について聞いていたかもしれないからである。しかし、弟子たちが剛立の発見と信じていたのであるから、独立発見説が正しい可能性は大きいと思う。もし、剛立がこの法則を誰かから教えられたとしたら、彼はそのことを正直に弟子に伝えたであろう。剛立たちは入手困難な文献を互いに回覧し合って議論をしながら研究を続けたのである。ニュースのソースを弟子たちと共有するよう努力したに違いない。
もし、剛立がケプラーの第3法則を独立発見していたのなら、これは、日本天文学史上最大級の快挙と言って差し支えない。日本天文学は、観測史の方で多くの世界に誇る輝かしい実績を挙げているので快挙のうちのひとつに過ぎないが、なにせ第3法則は、ケプラーでなければ発見できなかったであろうと言われたそのケプラーさえも、発見に十年を要したものなのである。
剛立は、この件に関する唯一の著書「五星距地之奇法」の中で、この法則を、惑星の軌道半径と公転周期との関係としてではなく 惑星(あるいは太陽)と地球との間の距離と公転周期の間の関係としている。 剛立は地球中心説の立場から ケプラーの第3法則を表現しているのである。ケプラーの法則は、地動説 (太陽中心説)を前提としたものなので、この点でも剛立がこの法則 を西洋直伝で丸ごと学んだということは考えにくい。しかし、ここで、 剛立は、何度も「地動の説によれば」という但し書きを繰り返しており、 ケプラーの第3法則の説明においては、地動説を採用する方が 適当であることを察知していたらしいことが伺われる。間重富 による「力学的説明」(間重富の項を参照)について言及していることや、 地球の月と木星のガリレオ衛星を同列に扱っていることは、 剛立が「物理的な」立場から地動説による説明を採用すべきと考えていた ことを裏づける。  剛立は、暦算天文学の伝統にのっとり、形式上は天動説ですべてを 説明する姿勢をとったが、少なくとも惑星運動の説明に関する限り 地動説がより優っていることをすでに知っていたのではないか。 それで、問題のケプラーの第3法則についても、これが彼の創見によるものか、何らかの手段で西洋天文学から学んだものかは別にして、彼の頭の中には この法則を正しく受け入れる素地はできていたものと解釈できる。
剛立は、暦算書以外には多くの著述を残していないし、日本で惑星 の運動論の研究が始まった頃に没しているため、どの辺まで惑星の運動の 研究を進めていたかは明らかではない。剛立とケプラーの第3法則の関連につい てはまだ多くが闇の中となっている。

 2-2 高橋至時(1764-1804)

高橋至時は、麻田剛立の弟子で、師の推挙により間重富とともに寛政暦の編纂に携わった人である。至時は、日本人で初めて西洋の近代天文学、即ち、地動説とニュートン力学を基礎とした天文計算法の全容を理解した人であった。とはいっても、至時は暦算天文学の専門家であったから、天体の運動という現象面がその興味の中心 であったことは否めないし、逆に暦算に有用だからこそ複雑で高度な計算を要する西洋式の天体の位置推算法 の会得に邁進することができたのである。梅園や剛立は天才的な資質を持った人であったが、至時はこれらの人とは対照的に努力家・勉強家のタイプであったようである。また、彼は有名な伊能忠敬(1745-1818)の師であった。忠敬は、50歳になってから天文・測量の 勉強をし高い精度の日本地図をつくった偉人と讃えられている。しかし、これを教えた先生(至時) のほうも劣らず偉大だったであろうことを疑う人はないであろう。
至時の功績について知ろうとすると、彼が命を縮めて行ったラランドの天文書の抄訳から彼がどの程度西洋天文学を理解していたか読みとることがどうしても興味の中心になるが、基礎科学の点からは、むしろ天文学の基礎的なことについて彼自身の考え方が触れられている文献が興味深い。
至時は、剛立が消長法を使って古代の観測と自身の計算とを一致させるのに苦心したことに触れ、「天文計算は今後も時代とともにだんだん精密になり、この学問はいつになっても完成することはないだろう。人の力で無窮の天を測ることなので、わずか千年、二千年の学問の集積で完成できるものではない。」という意味のことを書いている。これは、ニュートンの決定論的な天体運動論に真っ向から反する立場である。至時は、西洋天文学の計算法を学んでも、これが絶対的に正確な究極的な計算方法であるとは考えなかったものと思われる。彼は、少数の単純な法則から、諸天体の複雑なすべての運動を導き出せるとは考えていなかったのだろう。
また、至時は、恒星のそれぞれが、地動説における太陽のようにそれぞれの「太陽系」の中心に座っているという西洋の新説に触れ、「それならば歳差は恒星の運動に由来しているはずはなく、地球の自転と公転の間に由来しているのに違いない」という意味のことを主張している。至時は、壮大な宇宙を心に描きつつも、冷静に天体の運動のメカニズムを分析することができたようである。
至時は、天体の運動を精密に研究することによって、その原理に着実に迫っていけると考えた「現象論的理論家」であったといえる。それは、神によって与えられた絶対的な法則の存在を信じたニュートンとは対照的な立場であった。

 2-3 間重富(1756-1816)

間重富は、高橋至時とともに寛政暦の編暦にあたった人である。至時と重富を対照づけて、至時は理論家であるのに対し、重富は天文観測器械の開発や作成にたけた技術者であったという評がよくなされる。現実の仕事を見ると、確かにその通りである。しかし、重富は決して経験と勘に頼って道具を拵える職人風の人ではなかった。新しい器械や新しい観測法を開発し、そして、データ処理の方法まで工夫するという、綿密な計算のもとに観測の誤差を小さくする努力をした人であった。
彼は実地の観測にも熱心であり、当時の日本最高の観測技術を持っていた。その他にも、彼は、早逝した至時がやり残したラランドの蘭語天文書の翻訳・解説、日本地図・世界地図の作成、そして至時の息子や弟子の養成に尽力し、これらすべてを立派にやり遂げた。とくに、地図の作製は、伊能忠敬や高橋景保を助けて行ったもので、その結果は当時の世界最高レベルの精度を誇るものであった。重富は、その性格の故か、また、町人出身という身分の故か、常に縁の下の力持ち、あるいは脇役として当時の天文界を支え、目立つこともなかったのであるが、その実は天才肌のいわゆるマルチ人間であったようである。
さて、この間重富には、いわゆる「麻田剛立の法則」すなわち剛立の弟子たちが剛立が発見したと考えた「ケプラーの第3法則」の解明をしたという話が残っている。重富は、惑星の軌道半径の3乗と公転周期の2乗の比を一定とするこの法則を、力のモーメントの釣り合い(天秤の腕の長さと相手方のおもりの重さとの比が一定)や振り子の糸の長さと周期の関係(振り子の糸の長さの2乗と周期との比が一定)にたとえることによって説明した。もちろん、ただたとえるだけでは、ケプラーの第3法則の証明どころか解説にさえなっていないのであるが、当時の重富の周りの人々は、この説明を絶賛したようである。
このことをもって、当時の日本の科学のレベルはやはりその程度であったかと考える人が多いであろう。しかし、私は、重富がとにもかくにも当時の日本ではほとんど知られていなかったケプラーの第3法則の起源を簡単なアナロジーをもって自分たちの手の届くところに持ってこようとしたことを高く評価したい。さらに、彼が振り子の法則を持ち出しているところは大いに注目に値する(重富は、振り子時計の設計・製作が得意中の得意だったので、振り子には特に親しみがあったのだと思う)。彼が、天体の運動に対して、地上の器械で働いている法則のアナロジーを適用しようとしたことは、「ニュートンのリンゴ」にもたとえられるべき画期的なアイデアである。そして、実際(さすがにこれは偶然であろうが)、振り子の法則とケプラーの第3法則は、どちらも、重力の働いている物体についての運動方程式を解くことにより説明が可能なものであり、重富の説明は決して的外れのものとは言えないのである。
重富は至時との間でかわした多くの書簡の中で、知識が正確であること、 観測装置において常に高精度が実現できるように注意を払うべきことを 折に触れて強調している。そして、あやふやな知識の人の意見、精度の 低い観測については遠慮なく厳しい批判をした。自然の真実の姿を知るためには、 客観的な態度が必要であり、観測機器の仕組み・性能を熟知しこれを基盤として 観測に望むべきであることを重富はよく知っていた。まさに、重富は近代的 実験科学者として日本における嚆矢となる人であったし、その精神は現代においても 模範として仰ぐことが出来るものである。

3.数学

 3-1 江戸時代の日本数学界

数学も基礎科学の一分野として扱って問題ないだろう。近代・現代の数学にギリシアのピタゴラス学派に見られるような自然哲学的な側面があるかどうかあまり明確でないので、数学の研究の成果の評価をするとなるとどうしても優劣の比較となってしまう。それで、日本の数学も、一般には長い間西洋の数学との優劣比較により評価されてきた。
しかし、日本の江戸時代の数学(以下、和算と呼ぶ)は、単に西洋との優劣比較を論じてすませることは全く適当でないだけの特質を備えていた。当時の西洋の数学は、すでに大学を中心としたアカデミックな社会でこれを学び研究するものであった。現在の自然科学の研究体制に近い状態にあったと言ってよい。しかし、日本の数学界はこれとは全く違っていた。ひとことで言えば、和算は一般の人々のための教養であり趣味であったのである(商業、生産や建築などの実用目的の数学については世界中どこでも似たり寄ったりの状況だろうし、これは基礎科学には分類しないのでここでは除外する)。だからといって、当時の日本の数学界のレベルが西洋のそれと比べて格段に劣るということはなかった。それどころか、西洋に比肩するような分野もあったことは以下に述べる。和算でトップにある学者は、いわば芸事の師匠のようなものであった。名高い関孝和なら関流という和算の一門が存在し、弟子たちがそこで師匠に習った。また、弟子以外の道楽として和算を学ぶ人や他の流派の人々も「関流の芸事を身につける」ことを唯一の目的としてその門をくぐったのである。

 3-2 和算史の概説

和算の分野では、研究上の業績は、流派内のグループ研究によって挙げられることが多く、特定の個人名に帰することができないことが常なので、ここでは、個人個人別々に業績を紹介する代わりに、江戸時代中期前後の和算の発達史の概略を関流を中心として述べる。
和算の源流は中国の数学にあるが、和算にとっての江戸時代はまさに日本独自の飛躍を遂げた時代と言うべきである。また、西洋の同時代の数学は江戸後期になるまで直接・間接を問わず入ってこなかった。
和算を飛躍させた人は関孝和(1640?-1708)であるが、彼は、最初は、連立多次方程式の研究をしていた。彼は、この種の方程式が解を持つ条件を係数が変数である場合に拡張して研究し、世界に先駆けて行列式を発見した。ここで、関は、この行列式を 連立方程式の係数が一次独立でないことを要請するという、極めて近代数学的、 かつ本質的な局面で使用している。これが、江戸時代の日本で達成されたことは驚くべきことである。 しかし、これは数値計算にとくに便利というわけでもなかったのでその後の発展を見なかった。
その後、関は円の性質の研究、とくに円周率の計算に没頭する。関は円周率を計算するための一つの数式を見つけることを究極の目標としたようだが、それは死ぬまでかなわなかった。代わりに、円に内接する正多角形の周長を計算するという古典的な方法に、画期的な方法を持ち込んだ。正多角形の周長が、辺数を増やすにつれて外接円の周長に近づいてゆく様子を一つの数列と考え、その階差数列を等比数列で近似されるものとして円周率の精度の高い近似値を得たのである(増約法)。この考え方は、弟子の建部賢弘(1664-1739)によって徹底的なまでに拡張され利用された。
その後、念願の円周率の式は、建部によって円弧長の級数展開として獲得された。これは、(少なくとも表面上は)西洋における円周率の歴史と同じ道を歩んだものである。さらに、この建部の級数展開の式に限って言えば、これは西洋ではまだ発見されていなかった。そして、西洋におけるのと同様、円周率の数値計算の「桁数競争」が日本でも行われれた。
円理の隆盛をうけて円や多角形を扱う幾何学が大流行したが、その延長として円筒を斜めに切った楕円の性質の研究にその興味が移り、その周長を求めるために楕円積分にまで発達したところで幕末となり西洋の数学が入って来た。そして、明治維新になり、和算は放棄された。天文学と違って、中国経由で西洋の数学がはいってくることは江戸中期以前はほとんどなかったようである。

 3-3 和算の特質

和算においては数値計算が重んじられていたので、その研究の中心は、算盤で数値計算ができるような状況にもっていくための解法であった。その一方で、論理的に厳密な証明や抽象的な形式論にはあまり重きが置かれなかった。それでも、算盤によって膨大な量の計算ができたので、ただ特定の問題の答えの数値が出すことで満足せず、問題中の数値が異なるときも含めた一般的な解法が要求された。現代の計算数学で言うところのアルゴリズムの構築が重要な課題だったのである。関の行列式も、そして、和算が徹底的に利用した連分数展開も、建部の近似計算法の力作「累編増約法」もまさにアルゴリズムであった。 この研究手法は、20世紀の計算科学の方法を先取りするものであった。
建部以降の多くの級数展開式が発見されたが、これらは多くの場合「数値実験的」な方法により獲得されたことに注目すべきである。和算家は、数学にまで現象論的手法を持ち込んだのである。「数に拠って数を探る」という建部の言はこの方法を端的に示している。和算家は、西洋の数学者のように定理や法則を演繹あるいは厳密な証明で確立する必要を感じなかった。信頼できる「道具」として用いることができれば十分だったのである。

 3-4 微分と積分について

和算では、積分は発見されたが微分は発見されなかったという話がある。積分は微分の逆演算であり、現在ではどちらかというと積分の方が高度だと考えられているのでこのことは奇妙に思える。ことの真相について探ってみたい。
積分については、楕円の周長を求めるための楕円積分という高度な領域までの進歩があったところから見て、完全に理解されていたようである。回転体の体積の計算法などむしろ優しい方の部類であった。しかし、和算家が達成したのは微分積分学では決してなく、求積計算のアルゴリズム化、すなわち定積分の数値を得るための方法であった。これは、区分求積の極限をとる方法であり、原始関数の概念を媒介するものではなかった。西洋の方法とは全く別の方法で積分が導入されたのである。
さて、積分を発見した日本人が、微分に類することを全く知らないはずはなかった。しかし、かなり後の時代に至るまで、はっきりとした微分の概念は把握されていない。2次方程式の判別式を求める方法と方程式の近似解法であるニュートンの方法は、すでに関によって研究されていた。これらはいずれも西洋の数学では、微分の知識を持って計算が行われる。しかし、和算家は微分の概念の根本に気づくことはなかった。今日では、微分は、関数の変化率(dy/dxで象徴的に示されるように)として捕らえられている。このようなダイナミックな捉え方は和算にはなかった。和算では幾何学は高度に進歩したが、座標系という考え方がなかったし、動力学もなかったので変化率を計算するなどということは思いも及ばなかったのである。これらの問題は、多くの場合、算術的、代数的な方法で解決された。ただし、微分や積分が生来的に備えている「無限」という考え方の存在には気づいていたようである。関のニュートンの方法や増約法においてすでに、無限回の手続きを繰り返すことによって初めて正確な答えに到達できることが示唆されている。
円弧長の計算に用いられた級数展開は、西洋の数学で言うところのテイラー展開と結果的には同じものである。テイラー展開の公式には微分計算が含まれているので、現代数学でこの展開を行うためには微分の知識が不可欠である。しかし、日本人はここでも微分を用いなかった。級数展開は、多くの場合、数値実験的な方法で探索された。一般の関数の定積分を得るときは、その関数を級数展開してから項別積分して、定積分値の級数展開を得ていたようである。だから、この結果はあくまでも一種の「推測」であり、それを実際に数値計算をして望みの数値に収束することを確認して「実証」としたようである。この方法は、数学的にはまったく厳密ではないが、実用的な計算方法としては問題が起こる確率はほとんどない。
というわけで、日本人は、面積や体積を計算する幾何の方法として積分を発見した。その積分の逆演算の微分については、積分とは関係ないものとして算術的な解法の中に、おぼろげながらその存在に気づいていた。しかし、この微分を「変化率」というダイナミックな意味でとらえることなかったようである。それで、和算において微分積分学が誕生することはなかったのである。

和算の最大の特徴は、論理的に厳密な証明に重きを置かず、実際に数値計算が可能な表現によっていくことが重要とされたことである。実際、膨大な量の数値計算が行われた。円周率の桁数競争では当時の西洋の記録を凌駕したことはなかったが(それでも西洋からの遅れはわずか数十年に過ぎなかった)、最大の素数では世界最高レコードを記録していたこともあったようである。また、長時間を要する 計算が、グループ内の複数の人の分業によって達成されていた形跡もあるという。 数値計算のための技法を一般化することが和算における究極の目標であった。そのためには、 あらゆる方法がトライされ、効率のよいものが「道具」として採用された。

4.3つの分野のつながり

ここまでで、私は、3つの基礎科学の分野、すなわち、物理学、天文学、数学について論じてきたのであるから、これらの分野の学問的な融合について触れないわけにはいかないだろう。よく知られているように、西洋では、17世紀に3つの分野は、3人の天才、ガリレイ、ケプラー、ニュートンにより融合された。それまでは、天体の見かけ上の運行を数式で再現すること、すなわち暦算天文学のみが唯一の接点であったのだが、斜面での落体の実験、ケプラーの3法則、運動の法則は、天文学、物理学が、本質的に数学で表現できることを示した。そして、ついに、天文学と物理学は、同じ万有引力の法則で説明できることが明らかになった。

ところが、数学との関連で言えば、東洋において達成されたのは暦算天文学だけである。天体の運動の本質が数学的に追求されることはなかった。また、物理学、おもに、力学の数理的側面が追求されることもなかった。これは、どういうことであったのだろうか。

おそらく、日本人は、宇宙の究極的な法則が数学的に表現できるものだと思っていなかったのであろう。暦算天文学により天体の運行を計算して予言できたとしても、それは天体運動の見かけの現象にすぎない。日本人も見かけの現象のほかに、本質的な現象、天体の場合はその物理的側面が「存在する」ということを知っていた。それは、元々は中国の東洋哲学に学んだものであったし、のちには西洋のニュートン科学の断片を少し聞きかじったかもしれない。現象論的な一致、すなわち、見かけの現象が計算に合うことのみで、当時、先端にいた天文学者はもはや満足しなかったと思うが、さらに一歩を進めるためのベースとなる物理学については、その基礎すら持ち合わせていなかった。物理学においては、この世の複雑かつ多様な現象が算術的な計算(日本の数学は如何にその手法が複雑かつ高度であっても本質的に「計算方法」であった)で説明できるとは思っていなかったので、法則を探すことをしなかったものと推測される。彼らが、中国伝来の自然哲学を心から信じていたかはわからないが、少なくとも、究極の法則というものは、もしそれがあったとしても、数式で表現できるものと思っていなかったに違いない。この状態は、幕末近くになって幕府の天文方が蘭書の完全な理解に到達できるまで続いた。

天文学と物理学の関連については、日本人には、もともと、「天上界」と「地上界」を全く別のものとして扱う素地はなかった。西洋流の天動説、とくに、水晶の球殻に天体がくっついている、というような考えは問題にならないと繰り返し排斥されている。また、日本人が、少数の法則により、いろいろな自然現象を説明しようとしたことはすでに紹介した。東洋自然哲学は天にも地にも(さらに人にも)同じ法則が適用できるものであったし、三浦梅園の哲学でも「天」と「地」は峻別はされているもののその内部の法則は同じものが適用されている。だから、間重富のケプラーの第3法則の解説も、日本で突飛なアイデアが出てきたものと考えるべきではない。西洋におけるガリレイやニュートンの方がよほど突飛であったといえよう。逆に日本人は、これらの「西洋の新説」をすんなりと受け入れることができた。山片蟠桃(1748-1821)は、志筑忠雄の著書などで西洋天文学を学んだが、恒星がすべて太陽であること、恒星の周りには惑星が存在しておりそこには人畜が棲息していることを、当然のことのように何のためらいもなく自身の著「夢の代」で述べている。かつて西洋でこの説をとなえたジョルダノ・ブルーノが火あぶりの刑になったことはあまりに有名な話である。

残念ながら、天上界と地上界を結ぶ数学的法則については、日本人は考えも及ばなかったので、これらが真に融合されることはなかった。ただ、哲学的に観念的に「天と地は対応関係があるはずだ」という信念だけが貫かれた。もちろん、これは基礎科学とは何の関連もない。ただ、芽を育むことのない基礎科学の素地にとどまったのである。

4.まとめ

江戸時代の日本に基礎科学といえるものは確かにあったようである。しかし、それは断片的なものであったし、当時の西洋と対抗できるレベルのものはほとんどなかった。ただ、小さいながらもキラリと光るものはいくつかあった。江戸時代の日本の科学のレベルが西洋と拮抗していたと考えるのが大きな間違いであると同様に、江戸時代の日本の学者が西洋の科学をただひたすら受動的に学んだと考えるのも大間違いである。
江戸時代中期までの日本の基礎科学(すなわち科学哲学)はほとんど西洋科学の影響を受けていない。それにもかかわらず、その手法や考え方が西洋科学のそれに似たものがしばしば見受けられるのはおもしろい。当時の日本の知識人が思考のベースとしたものは中国哲学であったが、自然科学に興味を持つ人にとって中国流の複雑で形式的ともいえる考え方は本当はしっくり来なかったのではないか。それで、彼らは中国流のベースをただ「かたち」としてだけ受け入れ、それに西洋的な考えに近い合理的な思想を盛り込んだのであろう。西洋科学は西洋の近代的合理主義の成果であるが、日本の基礎科学は日本的合理主義から生まれてきたものといえよう。
西洋の科学思想における合理主義を一言で言えば、「宇宙を支配する唯一の存在である神が造った科学法則は崇高にして美しいものであるはずであり、論理的な方法によりこれを完全に解明できる」ということである。一方、日本的合理主義は、これよりはるかに実用に重点を置き、現実的な解決が得られる方法を尊ぶ傾向のものと考えられる。「どうせ自然の奥底は我々には当面理解できないのだから、とにかく正解にいちばん近い答えが得られる手段が最高の手段ではないか」というようなところだろう。
このように考えると、日本の基礎科学は、中国や西洋のたんなる真似でもなければ取捨選択でもない、日本人なりの価値観により構成された独自のものといえよう。そういう意味で、江戸時代の科学は、世界の他の歴史的に孤立した文化、古代のインドやアラビア、中南米文明のそれとも比較されるべきである。
さらに、もうひとつ、日本の江戸時代には、世界史の他の部分には見られない決定的な事実がある。それは、西洋の学問の原著(蘭書)が、単独で、つまり西洋人の教師・指導者あるいは宣教師・軍隊に付き添われないで海を渡って来たということである。鎖国下の日本では、西洋の学問は書物のみで輸入されたので、日本人はそれを自分で苦労して翻訳をしなければならなかった。しかし、そのかわり自分勝手な解釈をすることもできたのである。そして、この状態はなんと百年近くも続いた。こういう状況下ではどういうことがおこるか、これを歴史的事実として提示することができたのは、江戸時代の日本が空前絶後であったのではないか。いろんな捉え方があるだろうが、一言で言えば、日本人は非常に冷静に西洋の科学を道具(手段)として「導入」することに成功した。混乱や争いは、ほとんどおこらなかった、というのがこの実験の答えである。

我々は、基礎科学といえば西洋近代科学が唯一のあり方だと頭から信じていたのではないか。しかし、世界史の別の部分、つまり日本史に、小さいながら貴重な例外があったようである。

三浦梅園、帆足万里にかんする文献や資料を紹介し貸して下さったいるか書房の上門卓弘氏に感謝いたします。また、和算における円理の発展について詳しくご教授下さいました小川束氏に感謝の意を表します。

参考文献


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