物理学から見た時間(第1回)
                          上原 貞治
0.時間とは何か
 
 時間とは、まことに妙なものである。我々は皆、時間というものに親しみ、それをよく知っているつもりである。そして、「今日はまだ時間がある。」とか「時が流れる」などとこともなげに言う。
 「時間」の概念については5歳の幼児も理解しているように見える。しかし、本当に我々はよくわかっているのだろうか。「時間がある。」と言うが、いったいそれはどこにあるのか。空間を見てもどこにもそれは見えない。時は流れると言うがどこからどこへ向かって流れるのだろうか。そもそも本当に流れているという証拠があるのか。我々の五感にその流れは感じられないではないか。こう考えてみると時間とは恐ろしく抽象的な概念であることがわかる。
 では、時間とは何であろうか。また時間は、時間以外の何に似ているであろうか。時間とよく対比される、「空間」も、物理学の方程式の上ではともかく日常生活においてはほとんど似ていない。我々は,空間においては、じっとしていることもできるし、ある速度で移動することもできる。空間的に大きな場所を占める人もいれば小さい場所しか占めない人もいる。時間についてはどうであろうか。これらの性質を全く持っていない。
 では、時間とはどのようなものなのか。物理学の成果をもってこれの答えに迫ろうというのが本連載の意図である。物理学というと、また抽象的な小難しい議論をするのかとお思いの方もあるだろう。確かに物理学は抽象的な大難しい学問である。しかし、物理学は実地の学問であり如何なる抽象的議論にも現実世間の反映があると思ってほしい。如何に美しい理論でも、実験でそれと矛盾する事実が表われれば放棄されるしかない.我々が求めているのは現実の世界の時間の性質からその本質に迫ることなのである。
 
1.古典力学と決定論
 
 19世記の後半、多くの物理孝者は、物理学の基礎はすでに完成したと感じていた。17世紀以降の多くの天才の努力によって、物体の物理的運動は美しい理論で記述され、実験との矛盾は見出されなかったのである。ニュートンはカ学の法則と万有引力の法則を発表し、地上の物体の運動も天体の運動も同一の法則から導かれることを示した。マックスウェルは、クーロンやファラデーらの成果をわずか4つの方程式にまとめ、電磁気力も簡単な法則に従うことを示した。問題は方程式を解くことのみであり、方程式自体の正しさは疑いを入れないものであった。では古典力学、古典電磁気学、における時間とはどのようなものであろうか。ニュートンの運動方程式によれば変位(x)の2階時間微分である加速度は加えられた力(F)に比引し、物体の質量(m)に反比例する。
F=m・d2x/dt2      (1)
またニュートンの万有引力の法則によれば、重力Fは、2物体の質量(M,m)の積に比例し距離(r)の2乗に反比例する。
F=-G・M・m・R/r2     (2)
ここでGは万有引力定数、Rは二つの物体の間をまっすぐに走る単位ベクトルである。また電磁場中の荷電粒子にかかる力はクーロン力とローレンツ力の和として書かれる。
F=q・(E+dx/dt・B)      (3)
qは電荷、Eは電場、Bは磁束密度(通常は磁場の強さに比例する)である。dx/dtは、電荷の速度である。すべての物体の運動は((1)の右辺)=((2)の右辺)又は((1)の右辺)という方程式の解として得られることが期待される。
 さて、これらの方程式における時間の役割をみてみよう。まず、これらの方程式において時間は微分の形のみではいっており、ある特別な時刻t0とか、1945年1月3日とか、お釈迦様の誕生日とかは現れていないことが注目される。つまり、これらの方程式は時間の並進に対して不変であり、時間の原点(t=0)はどこにとってもよいことを保障している。例えば落体の実験(ガリレオがピサの斜塔でやったといわれているのが有名であるが)で重要なのは手をはなしてから地面に達するまでの時間差であって、測定を行なった時刻ではないのである。これは当り前のことであるが重要なことであり エネルギー保存則はこの時間の並進不変性から導かれる。また「現在」という概念が特別の意味を持たないことも示唆しているがこのことについてはずっとあとでもう一度ふれることにする。
 次の性質として、時間反転対称性がある。即ち、tを-tに置きかえたとき、言い換えれば過去の方向と未来の方向を逆転したときも方程式は不変である。実際(1)右辺のd2x/dt2はd2x/d(-t)2に等しく、(2)の右辺はtを含んではいない。(3)右辺のdx/dtは時間反転で符号がひっくり返るが、Bも同様に符合がひっくり返り、結局(3)の右辺は時間反転で変化しない(興味のある人は、マクスウェル方程式rot H=j+∂D/∂tを検討されるとよい)。これは単なる数学的な遊びではない。これはある運動がこれらの方程式の解であるならばそれの時間を逆にした運動(フイルムの逆回し)も同じ方程式の解であることを示しているのである。(x=f(t)が解ならば x=f(-t)も解であるということを示せばよい)、即ちある運動が存在しうるならば、それの時間を逆にした運動も存在しうる。例えば、ビルの屋上からボールが落下しはじめ、徐々に加速し、地面に達する運動があるならば、逆に地面から上に向けて発射されたボールが徐々に減速してビルの屋上に達する運動もありうるわけである。
 このことから物体の実際の運動を見ただけでは客観的に時間の方向を決定できないということが言える。つまり、映画のフィルムを見ただけでは、そのフィルムの上映の正しい方向を指摘することはできないということである。過去と未来とは対称であることになる。これらのことは常識に大いに反する。
 確かにボールの運動や天体の運動は支障ない。しかし、世の中には非可逆過程というものがある。ブラックコーヒーに角砂糖を入れ、スプーンでかきまわせば砂糖入りコーヒーになるが、砂糖入りコーヒーをスプーンで(逆方向に)掻き回してもブラックコーヒーと角砂糖には断じてならない。子供はいずれ大人になるが大人は子どもになることはない。また世の中には「因果律」というものがある。原因は結果の前に起こる。江川が甘い球を投げれば岡田がホームランを打つ(巨人ファンの人ごめんなさい)。岡田がホームランを打ったから江川が甘い球を投げたのだということはない(そういう解説者もいるが)。江川は球を投げる前は、注意してホームランを打たせぬ様気を配ることができる。しかし、ホームランを打たれたあと、いくら首をひねっても、王監督がピッチングコーチに電話を入れてももうホームランの事実を消すことはできない。原因と結果は過酷なまでに非対称である。これらは方程式の時間対称性と矛盾するように見える。大問題である。この問題は根が深いので次章以降で検討することにする。
 最後にこれらの方程式は恐るべきことを予見する。それは、これらの方程式に初期条件を与えれば任意の時刻におけるすべての物体の状況が計算できることである。宇宙中のすべての状況がある瞬間に決定されたなら、その後の宇宙の変化、事件はすべて計算により予言できる。我々人間も、物質としては原子分子でできており、感情や意志もこれらの物質や電磁気カに支配されているならば(唯物論が正しいかはいまだ不明であるが)我々も、これらの方程式の解として動かなければならなくなり、我々の感情や生活についても予言できるはずである。我々は、幸か不幸かすべての物体の運動を知ることができないし、計算も実際にはコンピューターの能力不足で不可能である。しかしそれはただ我々が無知であり技術力が足らないからだけのことであり、我々や宇宙の運命はすでに宇宙の始め、初期条件が与えられた(神により?)時に快定されているのである。だから我々がそれを知らないだけのことである。もう我々は誰もこの運命から逃れることはできない。我々は方程式の解にそってただ生きていくしかないのである。これは機械的な決定論であり言い換えれば宿命論である。
 この決定論に従えば、時間は神の手にあるシナリオに打たれているページ数にすぎない。すべての物体は人も星もいっせいに、このシナリオに忠実に時間どうり役を演じるしかないのである。
 
2.熱力学と非可逆過程
 
 前章でコーヒーの例を上げたが非可逆過程は、この世に多く存在している。どうして時間反転に対して対称な注則から非可逆過程が生じるのであろうか。それに対する答えを与えたのは熱力学であった。熱力学の第2法則「孤立した系内において、熱は高温の物体から低温の物体に移る」あるいは「孤立した系内においては、エントロビーは減少しない」は、いずれも「時間の経過とともに」と言う言葉を補って解釈するのが普通である。これは明らかに時間反転に対して対称ではない。確かに湯の中に冷酒をいれたとっくりを入れておくと、酒は温かくなり湯はぬるくなり、いずれ両者の温度は同じになる。ぬる酒をぬるま湯にいれても、水とかん酒にはならない。エントロピーは乱雑さの度合いのことであり、物理的には、等価な状態の数の対数に比例する。これがコーヒーの問題に対する答えを与えてくれる。砂糖入りコーヒーは、水とコーヒーの粒子と砂糖の分子が混ざりあった状態にあり、ブラックコーヒーと角砂糖が別々にあるものよりも乱雑な状態である。よってエントロピーも大きい。エントロピーは減少しないのであるから砂糖入りコーヒーはブラックコーヒーと角砂糖にはならないのである。
 さてこの章の冒頭の問に対する答えは出たのであろうか。実はまったく出ていないのである。熱力学の第2法則はどこから出てきたのであろうか。これがわからないと答えにならない。
 熱力学の第2法則は、現象論的な法則であり、究極的な法則ではないと考えられる。その証拠に、この法則が扱っているのは「温度」とか「エントロピー」という巨視的な量であり、原子の運動量というような微視的な量ではない。巨視的な量は微視的な量から構築できる。事実、温度やエントロピーは、原子の微視的状態から定義することが可能である。よって熱力学の第2法則も、微視的状態を支配する運動方程式から導かれなくてはならない同様の問題が復活する。
 どうして、時間反転対称な方程式から非対称な法則が出てくるのか。こういうことは絶対にありえない。男女同権を定めた憲法のしたで男女の差別を容認する法律が許されないのと同じことである。
 実な熱力学の第2法則は本当の意味で時間反転非対称な法則ではないのである。それは数学の確率論の物理的現象の反映にすぎない。それは、「ある秩序だった状態に操作を加えれば無秩序な状態になる可能性が大きく、無秩序な状態に操作を加えても秩序だった状態になろ可能性は小さい。」という数学的法則を物理的現象にあてはめたものなのである。加えられるのは「時間」ではなくて「操作」であり、この数学的(正しくは命題)の真偽は時間反転の影響を受けない。さらに熱カ学の第2法則は我々の宇宙において正直に適応できるものではない。どこにも孤立系が存在しないからである。かつては宇宙全体が孤立系と見られ宇宙の「熱的死」が予言されたが、膨張宇宙にはこれが適用できないことが、わかった。よってエントロピーが増大するのは、我々の近くだけのことであり、遠い宇宙、遠い未来ではエントロピーは減少するかもしれないのである。そのような世界では我々は生活できない。しかし宇宙が時間対称性を厳密に守っているなら、必然的にではないが、将来宇宙は収縮を開始し、そのときはエントロピーは減少するのだという人もいる。そのような時代にはどんな生物が活躍するのであろうか。
 我々がフィルムの上映の向きを正しく指定することができるのは、フィルム上の映像も我々の頭も同じ「常識」に支配されているからに違いない。
                               (つづく)
次回は相対性理論と量子力学について書く予定です。