「ヴォイニッチ手稿」の天文図

                       上原 貞治
 
0.ヴォイニッチ手稿の紹介
 皆さんは、「ヴォイニッチ手稿」という(または、「ヴォイニック写本」などとも呼ばれる)古文書をご存じだろうか。世界一の奇書と呼ばれている本である。「手稿」、「写本」(英語では、"Voynich Manuscript")と呼ばれている通り、手で書かれているが、表紙があって200ページ以上からなり、カラーの挿し絵も入った立派な「書物」である。現存している1冊は、今世紀始めにポーランド人の古物商のヴォイニッチ氏が世に公表し、現在はイェール大学のベイニッケ希少本手稿館に収蔵されている。これが唯一のオリジナルであるかもしれない。
 さて、なぜこの本が「世界一の奇書」であるかだが、それは、一言で言うと何が書かれているかさっぱりわからないからである。そこには、わけのわからない植物の図、薬草の図、天文の図、裸体の人物の図が書かれている。テキスト部分の文字はすべて暗号であり、ヴォイニッチ文字と呼ばれる特有のアラビア数字もしくはギリシャ文字に似た横書きのアルファベットがぎっしりと書き込まれているが、これまで誰も解読に成功していない。残念ながら権利の関係で、ここにコピーを掲載することはできないが、その一部の鮮明なコピーをインターネットで閲覧することが可能である。(最後の参考文献を参照)。それを見ながら、本文を読んでいただけるとありがたい。
 
1.ヴォイニッチ手稿に書かれていること
 ヴォイニッチ手稿は、15〜16世紀にヨーロッパで成立したと言われているが、確固とした証拠はない。より古い時代の書物の写しだという説もあるが、これもわからない。
 書かれている図は、既存の歴史や科学、哲学、文化のどれとも一致しない。東洋の影響を指摘する人もいるが、見た目は中世ヨーロッパ的な古拙の風情がある。しかし、中には複雑な器官が書かれ近代的な感じのする図も少なくない。
 中世ヨーロッパと言えば、キリスト教に関連する神学やユダヤのカバラなどの秘術との関連が考えられるが、直接的なつながりは見いだせない。近代科学思想の礎を築いたロジャー・ベーコンの手によるものだという説も出されたが、信頼に足る根拠はない。
 様々の分野の専門家である多くの人々の研究にもかかわらず、何が書かれているのか有力な説がない。また、テキストが、現代の暗号の専門家の挑戦をことごとく退けているのも不思議である。文字が不鮮明であったり、複雑であったりするからでは全くない。 文字自体はかなり鮮明に記録されている。種類も英語のアルファベットと同じくらいしかない。不思議な魅力を感じさせる文字で、発音することも意味を汲むこともできないが、韻文のようなリズミカルとも執拗とも言える同音節?の語尾で終わる繰り返しが随所に見られる。2人の人がテキストを書いたらしいこと、手書きにもかかわらず、訂正した部分が全く見あたらないことが指摘されている。
 かくして、多くの人がヴォイニッチ手稿の魅力に取り憑かれ、不毛な研究に多大の時間が費やされることになった。ある人は、そこにはたいへんな価値のある、自然科学や哲学の奥義が書かれていると考えている。 また逆に、そこに書かれているのはまったくのデタラメな絵と文字もどきの羅列であって、意味をなさないものであるか、仮に解読できたとしても、実用に役立つことも学問的に価値のあることも一切書かれていない、と予想する人もいる。 また、図はテキストとは関係がなくただの目くらましであるという説もある。ラテン語に解読できるという人もあるが、ごく一部の断片が意味の良く通らない文に訳されているのみで、とうてい信用できるものとは思えない。
 そして、多くの人は、解読を試みることは時間の浪費であるということを半ば認めながらも、とにかくその意味が理解されることを待ち望んでいるのである。
 
2.天文図
 ここでとくに取り上げたいのは天文図である。「暗号解読」において、天体あるいは暦の分野の記述は特別な意味を持っている。 古代中米に栄えたマヤ文明の文字は、今でも完全には解読されていないが、暦に関する部分だけは、比較的初期から解読が進み、今では完全に解明されている。また、それをきっかけに、歴史的事件の解読も可能になっている。また、ピラミッドやストーンヘンジといった巨石構造物の構造と天文との関係が解明された例は多い。ヴォイニッチ手稿の解読も天文図から始めればよい、ということは誰しもが考えることだろう。
 しかしながら、そう簡単には行かなかった。天文図が何を言わんとしているのかすらよくわからないのである。例の暗号文字も図中にちりばめられているが、これも暗号解読の助けにはあまりならないようである。でも、天文図から始めるのがやはり最短距離であろう、と考えるしかない。
 ヴォイニッチ手稿の天文図は何種類かあるが、「月ごとのカレンダー」と呼ばれているものがもっともわかりやすい。他に、円盤状に星を配置した、星座盤のような図もある。また、渦巻きの周りに星を配置したものもある。でも、月ごとの図の中心にある星座図と、各月がほぼ30日からなっていること以外のことはほとんど意味を把握できない。
 
3.月ごとのカレンダー
 中央に黄道12星座の絵(さそりの絵とか獅子の絵とか)が書かれているので、これらは、毎月のカレンダーであると推測される。 しかし、この絵はあとから書き加えられたものであることがほぼ確実で、書き加えた人がもともとの図の意味を良く理解していなかったとしたら、解読の際にあまり頼りになるものとは言えない。星座の絵の近くにはヴォイニッチ文字とは異なる文字が書かれているが、これも何語かわからない。別種の暗号であろう。また、黄道12星座といえば西洋占星術であるが、占星術の専門家が見てもヴォイニッチ写本の天文図の意味をくみ取ることはできないと言う。
 この星座を絵を信じるならば、1月、2月を除く(たぶん、ページが失われたのであろう)10カ月の図が存在しており、3月(魚座)だけが29人の、他の月は30人の星を持った女性(一部は男性か)が書かれている。4月と5月は15日ずつ2つの絵に分けられている。毎月が30日である暦は、ヴォイニッチ手稿に書かれている文化の背景を探る上で役に立つだろう。でも、そんな暦があるだろうか?
 ローマ時代以来のヨーロッパの公式の暦は、ひと月の日数が30日と31日が混じった(2月は29日か28日)、現在の暦にほぼ近いものであった。 太陰暦ならば、29日と30日がほぼ同頻度で混じるはずである。30日ばかりからなる暦はもっと古い時代の暦に基づいているか、別の流儀としてわざと採用したものであるだろう。とにかく、通常のヨーロッパの伝統にのっとったもののようではない。
 
4.太陽と月を中心におく星座盤
  人間の顔の入った太陽を中心に置き、周囲に16本の光芒を放射状に並べた図がある。おのおのの光芒は、紺色のベタの部分と星をちりばめた部分に分かれており、昼と夜、すなわち1日を示しているようである。その外周には、昼に当たる部分にはヴォイニッチ文字が、夜に当たる部分には複数個の星が描かれている。これを星座とする見方もあるが、特定の星座に明確に関連づけられない。16本の光芒は、16日に対応するのだが、太陽と16日との関連は明らかではない。星の個数にも意味があるかもしれないがそれもわからない。
 人間の顔の入った月を中心に据えた似たような図もある。こちらは、光芒が12本で、ベタの部分が2色(紺と茶)に分かれている。月のない闇夜と月夜を区別したものだろうか。12日ではなく12カ月と理解すべきかもしれない。そうすると、各月が2つに別れていることになり、4月と5月のカレンダーとの関連が理解できる。すると、太陽の図は、16カ月を意味しているのだろうか。
 
5.星を中央におく図
 中央が6〜7本の光芒を持つ星になっている図が少なくとも3枚ある。うち2枚は、やはり周りが放射状に分割されている。1枚は8分割になっているが、もう1枚はもっと多数(おそらく46分割)である。後者おいては、周囲には45個の楕円形が配置されている。さらにその外側が、16の領域に分割されている。これらの図は、中心に太陽、月を据えた図と同様、放射状に1分割おきに、ヴォイニッチ文字が書かれている。
 残る1枚には、月の欠けた図が描かれている。これは、日食または月食であるという見方もあるが、欠け方が日食・月食の時のものと異なる。月は12個で、分割されている領域も丁度12であるから、これは12カ月を意味しているものと解釈できる。
 
6.渦巻きのある図 
 中央がヴォイニッチ文字になっていて、その周りに星形と流線が渦巻き状に配置されている図がある。 他に多くの点と円環状の波線も描かれている。これを渦巻き銀河の絵であるといった人もある。確かにそのようにも見えるが、渦巻き銀河はヴォイニッチ手稿の存在が確認された以降にその詳細な形が判明したものであって、ミステリーを呼ぶものとなっている。渦巻きの腕は8本ある。その他にも、いくつかの天文図があるようであるが、手稿のコピーがないので割愛する。
 
7.解読について
 以上すべての図にヴォイニッチ文字が放射状、あるいは、円環状に書き込まれている。
文字が図の型式の一部として採り入れられているので、図と文字が関連していることは間違いがないように思われるが、結果的には解読できず、また天文図と文字との関連も解読の役に立っていない。これらが、実際には無関係だとすると、多くの人々の解読の努力によっても何の成果も得られない公算が大である。また、純粋に図だけを見ても、ここで述べたような簡単な解釈でさえそれが正しいという保障は全くない。
 もし、ヴォイニッチ手稿が、何らかの意味を持っており、古代あるいは中世の知られているヨーロッパ文化と関連しているとすれば、書かれていることがここまでさっぱりわからない、ということは驚嘆すべきことである。従来の伝統に則らない知識が書かれているか、まったくのデタラメなのかのいずれかではないだろうか。また、天文とは直接関係の無い情報を、天文図の中にカムフラージュしているのかもしれない。
 
文献
 私は、ヴォイニッチ手稿の存在を「奇跡のオーパーツ」(南山 宏著、二見書房、1994)によって知った。現在のところ、これに最も詳しい日本語のwebページは、おそらく  http://www.voynich.com/ である。また、ヴォイニッチ手稿のページの写真は、およそ60ページ分が、所蔵するイェール大学、ベイニッケ希少本手稿館のホームページ(http://www.library.yale.edu/beinecke/)から合法的にダウンロードできる。それには所蔵物の画像検索サイト(http://highway49.library.yale.edu/photonegatives/)において、"voynich"と入力して検索すれば良い。 完全なコピーは、書物としても電子的にもまだ出版されていないというが、近くCD-ROMが出版されるとも言われている。