ソ連の宇宙開発における隠蔽の歴史 (第2回)
上原 貞治
ソヴィエト連邦の宇宙開発の歴史において、初期の有人宇宙飛行が行われた1961年〜1971年を中心に、どういう事項がどういう理由でソ連で秘密にされたかということを分析している。前回は、ソ連が有人月飛行計画の準備を始動した1965年くらいまでのことを書いた。今号では、有人月飛行計画の全容とそのテスト飛行の1968年末までのことを書く。ソ連においては、有人月飛行は結局実現されず、その全容は1980年代後半まで秘密にされた。対外的には、有人月飛行計画自体がなかったことにされた。
今回は、ソ連の「ソユーズ型宇宙船」の初期の開発史が中心になる。ソユーズは、これまでにもっとも成功した宇宙の乗り物として、広く知られたソ連・ロシアの有人宇宙船であるが、そもそもはソ連の宇宙飛行士が世界に先駆けて月まで飛行するという使命を帯びて出発した宇宙船であった。
6.ソ連の有人月飛行計画の内容
ソ連の有人月飛行計画は、複雑な経緯をたどっているので、多少の整理が必要である。繰り返しになるが、計画は全体が秘密で、結局、人間の月飛行は実施されなかったので、ソ連当局から外部に発表されたのは、そのテスト過程で何らかの成果が得られた部分のみである。それも達成事実が伝えられただけで、目的や解説は省かれ、評価は報道に触れる人々の憶測に任された。いっぽうのアメリカは、ケネディ大統領が有人月着陸を行うことを宣言していたので、1965〜66年のジェミニ計画の地球周回軌道飛行のあたりで、それが月着陸船関係のランデブーやドッキングのテストということはわかったが、1967年1月のアポロ1号の火災以降、月着陸船の開発の遅れも相まって、やはり、ソ連の進展具合との対抗上、混乱や計画の場当たり的変更があった。それでも、打ち上げ前には、飛行計画の概要と目的は公表されていた。
以下は、ケネディの宣言以後、ソ連に存在した有人月飛行計画の分類である。
6.1 オリジナルL3計画
これは、OKB-1設計局のコロリョフがもともと考えていた有人月着陸計画で、L3-1963と内部報告されているものである。月着陸では、飛行体を月へ向かう軌道(月遷移軌道)に乗せるために一旦加速し、さらに月付近で減速させる必要があるが、それには、けっこうな重量のロケットエンジンと燃料を宇宙空間にまで運ぶ必要があり、小型のロケットで実現するのは無理である。この計画は、飛行体(L3複合体)全体を地球周回軌道上で組み立てるもので、それには当時設計中の大型のN-1ロケットを使うことが想定された。しかし、大型の宇宙船が月面までを往復することから、燃料が一度に運べないなど、4回に分けた打ち上げが必要で、地球周回軌道上での組み立ての手順が複雑になる。結局、アメリカより早期に月着陸が出来ることを優先して、アポロ計画と同じく、L3複合体を一発のN-1で一括打ち上げして、月周回軌道で月着陸船の分離(帰路は再結合)をする方式(下のN-1/L3計画)に変更された。これだと、月着陸部分の相当の軽量化を図ることができ、燃料も大幅に減量できる。
6.2 オリジナルL1計画
こちらは、コロリョフの月計画ではなく、OKB-52設計局のチェロメイが率いた有人月往復計画(着陸はしない)で、正式にはLK1計画と呼ばれるものである。チェロメイは、軍事用ロケット(ICBM)の大型ロケットの開発をコロリョフとは独立に進めていた。ロケット製造や全体計画はコロリョフと干渉・同期していたが、フルシチョフの信頼を得て彼が開発した月往復のためのロケットは、中型というべきプロトンロケット(UR-500)と呼ばれるもので、宇宙船も独自の設計によるものであった。しかし、このオリジナルL1計画は、後述のように、フルシチョフの失脚後、コロリョフのN-1/L3計画と統合され、ソユーズL1計画(公表名はゾンド計画)と呼ばれるものに移行した。チェロメイのLK1計画については謎の部分が多い。
6.3 N-1/L3計画
これは、有人月着陸を行うもので、フルスペックのソユーズ宇宙船(2人乗り)と月着船LK(1人乗り)を、船体としては別々とし、両者をまとめて月に向けて加速・減速する上段ロケット(ブロックGとブロックD)を含む大型ロケットN-11機で宇宙空間に運ぶ計画である。N-1は下段部が3段で、ブロックGが4段目にあたる。簡単にいうと、「ソユーズ+LK+ブロックD」が月まで行くL3複合体で、N-1の1回の打ち上げで人間の月着陸が可能になる。N-1がアメリカのサターンV型に対応するロケットであり、L3複合体がアポロの「月着陸船+司令船+機械船」に対応する。また、ソ連の計画では、L3複合体とは別に、月面車と予備のLKをバックアップとして、事前に別のロケットで着陸予定地付近に無人着陸させておく予定であったという。これで、月着陸船と帰還用の燃料の軽量化が図れるが、ソユーズとLKのあいだの飛行士の移乗が月着陸の前後でそれぞれ1回必要になる。これは、アポロと同様である。この設計は、1964年ごろにコロリョフによって固められ、1965〜66年ごろに製造に移ったが、1966年1月にコロリョフががんの手術中に死亡したため、OKB-1のトップを継いだミーシンに引き継がれた。
6.4 ソユーズL1計画
これは、フルシチョフの失脚後、チェロメイのL1計画を、コロリョフが取り上げて、N-1/L3計画と一部統合したものである。月往復の宇宙船と月遷移軌道の加減速用には、それぞれN-1/L3のソユーズ宇宙船の簡易バージョン(ソユーズL1=ゾンド宇宙船)とブロックDロケットが使われる。月着陸はしないので、LKは不要である。全体の打ち上げには、チェロメイのプロトンロケットを使うが、それでも「ソユーズL1+ブロックD」複合体の打ち上げには重量の制約が厳しかった。コロリョフは、N-1/L3とソユーズL1を同時並行で進めることになった。こちらも、1964〜1965年ごろに設計され、1966年までには製造に移った。
チェロメイは、コロリョフにプロトンロケットと月往復計画を取り上げられるかたちになったが、彼のほうも、サリュート・アルマズ宇宙ステーション計画を設計し、後に、プロトンロケットとソユーズのドッキング技術を取り返し、世界初の宇宙ステーションを実現することになる。このへんは、慎重なブレジネフが、無駄な対立が深まらないように配慮したのであろう。プロトンロケットと宇宙ステーション構想が軍事的に価値があるとみて、チェロメイの有人宇宙計画への関わりを維持させたのである。
ところが、ロケットの製造のほうを率いたグルシュコが、プロトンロケットには協力的だが、N-1には非協力的になるという非対称が生じた。これは、技術的主張とコロリョフのグルシュコへの個人感情の交じった複雑なものであったが、ここではこの部分は省略する。
図2は、のちに公表された、ソユーズL1=ゾンドを搭載したプロトンKロケットの形状である。この図は、ロシアのプラモデルメーカーのものだから正確であろう。先端の搭状のものは脱出ロケットではなく、空気学的な整流用の構造だという。
図2 プラモデル説明書(ロシアSTC START社)より、ソヴィエト連邦宇宙計画「プロトンK-L1(ゾンド)」宇宙ロケット複合体。赤字の書き込みは、筆者(上原)による。全長57メートル。
7.ソユーズ型宇宙船のバリエーション
次に、最終的に実施されることになった、N-1/L3計画とソユーズL1計画に登場する宇宙船「ソユーズ」のバリエーションについて紹介する。いずれも、今回(1968年末まで)の期間では、完全成功と言える成果が上げられず、その仕様や写真が公開されることはなかった。
まず、月軌道に達するフルスペックのソユーズは2人乗りで、7K-LOKと呼ばれるタイプのものである。7Kはソユーズ宇宙船のコードで(有人型のヴォストーク、ヴォスホートは3Kだった)、LOKは月軌道船、つまり、月まで飛んで月の周りを回るという意味である。LOK自体は着陸しないのでほかに月着陸船LKが必要である。LOKは複雑な構成で、宇宙空間での人の居住スペースであるほぼ球形の軌道船、打ち上げ時と帰還時に飛行士が操縦する「帰還船」、それに燃料電池を持つ「機械船」の3つに分かれていて、さらには帰還用ロケットであるブロックIが付属している。地上に戻ってくるのは「帰還船」部分のみで、通常はソ連領内にパラシュートで着陸する。LOKとLKは物理的にはドッキングするが、ドッキング装置に通路はなく、宇宙飛行士は宇宙遊泳で移乗する(図3参照)。
7K-L1は、月往復ミッションに特化した軽量版のソユーズ(「ソユーズL1」とも「ゾンド」とも呼ばれる)である。LOKから軌道船とドッキング装置を取り除き、重量のある燃料電池とブロックIは積まず、より軽量の太陽電池パネルで電源を供給する。上述の通り、プロトンロケットで打ち上げるのだが、7K-L1+ブロックDの重量はプロトンロケットの能力をもってしてもギリギリで、重量の制約が最後まで残った。
7K-OKもLOKの別種の簡易版である。こちらは、地球軌道周回に特化している。これが後に広く知られるようになった「ソユーズ」である。軌道船とドッキング装置が付いている点でLOKに近いが、太陽電池パネルを採用しているところはL1に近い。乗員は3人まで、おもにランデブーやドッキングのテストに使われた。これは、N-1/L3のLOKとLKの連携や移乗の予行演習として必須で、のちの宇宙ステーション建設にも生きる技術であった。R-7派生型のソユーズロケットで打ち上げ可能で、以前のヴォストーク、ヴォスホートの打ち上げ信頼性が引き継がれた。図3に、3種のソユーズの形態の概念図を示す。

図3 3種のソユーズ宇宙船。左から、7K-LOK、7K-L1、7K-OK。構成はアンテナなどの細部を省略している。イラストが実機と合っているか不明の部分もある。A:軌道船、B:帰還船、C:燃料電池内蔵の機械船、D:ブロックIロケット、E:ドッキング装置、F:太陽電池パネル付き機械船
8.初期ソユーズの苦戦(1965〜1968)
前回登場のヴォスホート宇宙船は、ソユーズ宇宙船が最終的に完成するまでの繋ぎとして、長期滞在に加えて、宇宙遊泳やランデブーの試験や訓練をするためのものであったが、ヴォスホートは、1965年3月の2号の宇宙遊泳の成功をもって停止していた。これは、ヴォスホート宇宙船が急造のものであったために何かと不具合が多く、ドッキングテストなどの便宜を考えると、本番用のソユーズ宇宙船の開発に集中すべきという意見が出たためである。それで、ヴォスホートはしばらくペンディングになり、次はソユーズ1号が飛ぶことになった。その間、当局からは、新型宇宙船が開発されていることだけが、意図的かつ非公式にリークされたという。
このころ、N-1/L3計画とソユーズL1計画が固まり、7Kシリーズが生産ラインに乗ったと思われるが、前述の通り、1966年1月、いちばん大事なタイミングで、チーフデザイナーのコロリョフが大腸がんの手術中に亡くなってしまった。彼の身体は、若いときのシベリアでの虐待と長年の過労で手術に耐えなかったとされている。偉大なコロリョフの存在は、彼の死を待って公表された。
ソユーズ7K-OKの無人テストは1966年からはじまった。この時点では、ドッキング技術について言えば、ジェミニ8号を手動で無人の標的衛星にドッキングさせたアメリカが先行していた。ソ連は、それを有人同士のソユーズで実施し、飛行士の移乗も行うことで、追いつき追いつく予定であった。N-1ロケットの開発には相当の年数がかかると見られたので、7K-OKはR-7派生型のソユーズロケットで打ち上げられた。
ところが、アメリカ、ソ連とも、最大級のトラブルに見舞われることになった。1967年1月、アメリカのアポロ宇宙船の有人初号機の地上テストの際に、後に言う「アポロ1号火災」が起こった。地上の発射台での訓練中に宇宙船内で火災が起こり、飛行予定の宇宙飛行士チーム3名全員の生命が失われた。これによって、この後のアポロ計画の手順が見直されることになった。ソ連にとっては、新型宇宙船の開発で追いつく機会になるものであった。
7K-OKの無人テストは、地球周回軌道には乗ったものの、有人に耐える安全性はまだ完全では無かった。ここで、ふだんは慎重なソ連にも焦りが出ることになった。1967年4月、ソユーズ1号は有人で打ち上げられたものの太陽電池パネルを初めとして装備・制御関係に不具合が続出し、計画を切り上げて帰還することになった。本当は、2号とドッキング試験をするはずであったが、2号の打ち上げはキャンセルされた。1号の宇宙飛行士コマロフは、地上からの制御も自動運転も働かなくなった宇宙船を手動で立て直し、何とか大気圏再突入まで達成したものの、メインパラシュートが開かず、地面への激突と火災によって死亡した。ソユーズの事故はすぐに発表され、コマロフの遺体は、クレムリンの壁に葬られた。国葬が行われたが、事故の技術的原因と飛行の目的が月着陸のためのドッキングテストのためであったことは長く伏せられた。ただただ、コマロフが新型宇宙船に搭乗した勇敢な飛行士であったこと、彼が不運に見舞われたことが報道された。アメリカの宇宙飛行士が葬儀への参列を申し出たが、ソ連政府はそれを断ったという。この時、7K-OK には飛行前から200を超える欠陥が指摘されていて、それの改良に1年以上を要したという。アポロとソユーズの悲劇の原因は、ともに有人仕様の安全性を満たしていない新型宇宙船に人を乗せたことであった。
その後、ソユーズの有人テストは、1968年10月の2号と3号まで行われなかった。その間、無人の7K-OK型の宇宙船で自動ドッキングを含むテストが慎重に繰り返され、最終的に7K-OKは完成の域に近づいた。これらの無人テストは、一般的な科学技術目的とされ、ソユーズのテストであることは隠蔽された。1967年11月に行われたコスモス186号と188号の無人での自動ドッキングテスト成功は、7K-OK同士のドッキングであったが、その点は伏せられ、西側観測筋は、将来の宇宙ステーション建設のための技術と受け取ったようである。月着陸計画でのドッキングは、当然、人間が操縦すると思われていたからである。実際は、有人のソユーズにも、目視に頼らずに済むよう、自動ドッキング装置が装備されたのである。
1968年10月、ソユーズ2号が無人で3号が有人で打ち上げられた。3号の飛行士ベレゴヴォイが2号とドッキング後に乗り移る予定であったと思われるが、ランデブーには成功したもののドッキングには至らず、ドッキングは断念した。無人のままの2号を含め両号とも無事に地上に帰還した。ドッキングの計画は伏せられ、連携飛行ののちソユーズの飛行士が安全に帰還したという成功内容のみが公表された。
9. ゾンド前半の苦戦(1967〜1968)
ソユーズ7K-OKの改良と、7K-L1による無人の月往復テストは並行して進められた。これは、同じルーツの宇宙船を使っていたものの、目的の重点が違うため、ヒューマンパワーの食い合いになるものであった。7K-L1は、まず無人で月往復して、地上で回収することが優先された。月を往復して帰還する飛行は、ゾンド(探査針)という名前で呼ばれ、宇宙空間と月の無人探査機であるという粉飾がされたが、最終的には人間を乗せることを目的としていた。ここでは、ランデブーやドッキング技術は不要である。
7K-L1の無人飛行は、ソユーズ1号の事故の直前、1967年3月、プロトンロケットの完成とともに開始された。プロトンロケットは、1965年、「プロトン衛星」という地球周回軌道の宇宙観測衛星打ち上げで試験された。ロケットの仕様は秘密であったが、大型の衛星であったので西側観測筋がこれは大重量用の新型ロケットと見極めて「プロトンロケット」と仮称したものである。しかし、これが月周回宇宙船ゾンドに使われるものであることはその後も長らく見破られず、さいわい「ゾンドロケット」とはならなかったので、ソ連も後に「プロトンロケット」の名称を追認して自称した。ただし、その打ち上げ映像や仕様は、後に宇宙基地や宇宙兵器などの軍事目的が控えていたため、1980年代後半まで秘密にされた。
7K-L1で初めて月軌道の近くまで行ったのが1968年4月のゾンド4号で、この時から「ゾンド」は7K-L1の公表名となった。ゾンド4号は地球に帰ってきたが、ソ連の回収不可能海域に向かったので、指令で破壊された。同年9月に打ち上げられた次のゾンド5号では、月の裏側を回って帰還した。帰路に多少の不具合はあったが、最終的に回収に成功し、乗せられていたカメは生存していた。これが地球での回収に成功した初の月往復飛行となった。11月に実施された次のゾンド6号も月往復と回収には成功したものの、パラシュートにトラブルが生じ、回収時に中の生命が危険にさらされる状態だった。その直前には、7K-OKのソユーズ2号、3号の部分的成功が得られていた。判断に悩ましい部分的成功ばかりが続いていた。
それにも関わらず、ゾンドの部分的成功に刺激されたアメリカがアポロでの月往復飛行(アポロ8号)を同年12月後半に予定したため、ソ連は、それに先駆けて、次の7K-L1を12月前半に有人で打ち上げる計画を立てた。人が乗れる7K-L1を搭載したプロトンロケットを発射台にセットし、2人宇宙飛行士に待機命令を出していたが、失敗を恐れたソ連当局が最終的な実施命令を出せず、ソ連の宇宙飛行士が月に向けて飛び立つことはなかった。プロトンロケットと7K-L1には緊急脱出装置がなかったので、人を乗せる決断が下せなかったという。いっぽう、アメリカのアポロ8号は、サターンV型による月往復の無人試験無しの有人一発勝負での成功であった。そもそも、アポロ宇宙船は無人運転で月往復から帰還して、地球海面でピンポイントの回収が出来るような設計ではなかったという。
こうして、1968年末の時点では、月往復とドッキング実績の両方で、アメリカがソ連を優越することになった。ソ連は、自動制御がなまじできるだけに、無人テストで時間を費やしていた。しかし、アメリカでも月着陸船の完成が遅れていたため、ソ連は、敵失待ちながら月着陸で巻き返せるチャンスは残っていた。
図4の新聞記事は、ゾンド5号の帰還を報道する1968年9月25日の朝日新聞のコピーである。朝日の科学記者が座談会を開いてゾンドの帰還方法と有人搭乗可能性について論じ、これを有人宇宙船の可能性のあるものとみているが、その自信は五分五分という感じである。次は、犬の飛行を期待しているところは面白い。犬の次は人の可能性が高いという読みだろうか。地球大気圏突入の減速方法の選択にまで言及しているのは、科学記者として秀逸である。また、引用されているソ連のプラウダが発表したゾンド5号の形状は、実際の7K-L1(図3)と似ても似つかないSF的でサンダーバード3号に似た形である。この時点では、コマロフが乗った7K-OKの形状も、プロトンロケットについても公表されていなかった。

図4 左:ゾンド5号の成功を伝える1968年9月25日の朝日新聞記事の一部(筆者の当時の家庭に配達されたもの)、右:そこで紹介されているプラウダ発表のゾンド5号の絵の筆者による適当模写(真実は、図3の7K-L1の形であったが隠蔽された)
10.付属の話
ソユーズとゾンドの話はまだしばらく続くので、ここで、箸休めとして、その流れとは直接関係のない挿話を少々。
ガガーリンの事故死:1968年3月、ガガーリンが飛行機操縦の訓練中に事故で死亡したという発表があった。多くの人は、ソ連邦最高の英雄が今さらそんな危険な訓練をしていたのかと疑問に思ったものである。実際、彼は広告塔として使われていたが、それに満足せず、飛行教官をしながら現場に復帰することを目指していたそうであるが、ブレジネフがそれを許したのはやはり謎である。ガガーリンの事故の詳細は公表されなかった。訓練の安全が保たれない空域の状況で、ソ連空軍の訓練が行われていたという見方が出ている。
バイコヌール宇宙基地:スプートニクも、ガガーリン等のヴォストークも、それ以降のソユーズもゾンドもN-1ロケットも、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地から打ち上げられていることになっている。事実、この基地は、名称としては正しいのであるが、その所在地は、1980年代後半まで秘密であった。それどころか、この名称自体が詐欺的なカムフラージュで、カザフスタンには別の300kmも離れたところにバイコヌールという街があって、そこと混同させることになっていたのである。正しくは、宇宙基地の最寄りの街はチュラタムであったのだが、それがバレると位置がわかってしまうので、チュラタムの名前は消され、レーニンに由来するレニンスクという名に改名された。そして、レニンスクは宇宙基地を支える街になったが、場所がバレるとやはりいけないので、この街は閉鎖都市として外部との交流が遮断された。郵便の往来はモスクワ住所の私書箱を通じてなされた。チュラタムという鉄道駅は、宇宙基地設立以前の名で残されたが、基地との関係は隠蔽された。宣伝や外交上、宇宙飛行士の居住などの街の機能を外部に知らせる必要があるときは、この町は「星の街」という一般名詞的な名称で呼ばれた。主要な「星の街」はモスクワ近郊にあったとされ、特定の地名を指すニュアンスではなかったのかもしれない。宇宙飛行士やロケット発射技術者が住んでいるところは、どこでもいいのでとにかく「星の街」ということで済まされたのだろう。なお、余談だが、ソ連崩壊後は、「レニンスク市」が「バイコヌール市」に改名され、宇宙基地が街の名を奪うことになっている。モスクワ近郊やプレセツク基地など、他の場所にも、訓練施設や製造工場、ロケット射場があったが、バイコヌール以外は地名自体が隠蔽された。1970年代以降は、偵察衛星で上空からかなりこまかく観察できるようになったので、発射場を隠蔽すること自体の意味は変わってきた。
次回は、1969年のソユーズ7K-OKのドッキングとゾンドの月往復の成功の話から始める予定である。
(つづく)
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