天文ガイド・購読半世紀の思い出①

田中邦明  

 この記事は、天文ガイド1972年1月号から半世紀にわたって定期購読を続け、その思い出を、主に、天文ガイドの表紙と広告からたどるものです。
 1971年12月6日、福知山駅前商店街の小さな本屋さんに、通学途中に上原会長とともに立ち寄り「天文ガイド1972年1月号」を購入しました。人生初の天文ガイドの購入でした。天文ガイドの発売は毎月5日でしたが、1971年12月5日は日曜で、自宅近くには本屋さんもなく、翌日の通学途中の購入になりました。
 上原会長はすでに数年前からの定期購読者でしたが、私は、この日から天文ガイドの定期購読者になりました。
 1972年1月号の表紙は、群馬県の内田克広氏の作品で、1971年1月1日に45分露出の実に美しいカラーオリオン座の中心部でした。アサヒペンタックスSLにタクマー200mmF3.5解放、サクラカラーと記載されています。(フォト参照)私もいつかは、こんな美しい写真を撮ってみたいと感動したことを憶えています。

天文ガイド1972年1月号

 初めて購入した天文ガイド、記事は当然ですが、広告も隅々まで、穴が開くほど見続けました。今では懐かしさ満載の広告ですが、振り返ってみたいと思います。


 まず、インパクトが強かった日本光学の8cm屈折赤道儀です。ニコンの光学系はプロ用の高級品という印象で、将来、いつか買えるようになれればいいなあという、憧れの機器でしたが、50年以上経過した今も現物にお目にかかったことは一度もありません。
 広告では、赤道儀の仰角は固定されているように見え、緯度の高いところ、低いところでは、どうするのかなあと思った記憶があります。デザインもシンプルでピラー脚もスタイリッシュかつプロっぽいイメージを醸し出していました。

天文ガイド1972年1月号Nikon


 続いて、タカハシ製作所の65mm屈折赤道儀です。こちらは少し庶民的なサイズでしたが、赤道儀は質実剛健といった感じで、価格は少し高め、経済的余裕のある庶民向けでした。読者の天体写真のコーナーではタカハシ製作所の望遠鏡による作品が多かったように思います。

1972年1月号タカハシ製作所


 タカハシ製作所に比べ、庶民も手が届く価格を設定だったのが日野金属工業(ミザール)でした。この時、すでに上原会長はミザールユーザーでしたが、ワンランク上の8cm赤道儀、ミザールカイザーユーザーでした。そのカイザーで見せてもらった土星は夕暮れの宇宙空間にポッカリと浮かぶ素晴らしい姿でした。広告の鏡筒アイピース側を見てもらうと、ハンドルのようなものがあることに気づかれたと思いますが、これは何?と思われた方も多かったのではないかと思います。これは、焦点を合わせるためのハンドルでした。大型望遠鏡のイメージ作りかなと思いましたが、当時の多くがラックアンドピニオンによる合焦操作を行っていた中で、ヘリコイド式は印象的でした。

天文ガイド1972年1月号ミザール


 この頃の天文ガイドの表紙をめくれば、表紙裏には、毎号、アストロ光学工業の広告がありました。ピラー脚が印象的でした。現在はドームや大型天体望遠鏡のメーカーとして有名だそうです。

1972年1月号 アストロ光学工業


 この初めての天文ガイド購入の翌月、1972年が始まったのですが、1972年は、国内外ともに、落ち着かないことが多くありました。戦後17年余り続いた枠組みが変わりそうな出来事が多くあったように思います。日本人が関係した主な出来事だけでも

2月 札幌オリンピック。
   あさま山荘事件。
   ニクソン大統領訪中。

5月 沖縄返還、沖縄県発足。
   大阪・千日デパート火災で118人死亡。
   テルアビブ空港日本赤軍乱射事件、26人死亡、73人負傷。

9月 ミュンヘンオリンピック。
   台湾、日本との国交断絶を宣言。

 など、特徴的なニュースが続きました。


 一方、天文ガイドには、後に流行となる製品の広告が相次いでいます。

 まず、当時「何じゃこれ!」と思ったのは私だけではなかったと思うのですが、セレストロンC8です。太短く、机上で使える…てな感じの望遠鏡でした。後にシュミットカセグレンの一大ブームが来ることをイメージできた人は少なかったのではないでしょうか。

1972年4月号 セレストロン8


 次に、タカハシ製作所3連発です。

 7月号にタカハシ製作所初?の10cm反射赤道儀望遠鏡、10月号に8cmのアポクロマート屈折赤道儀、12月号には、後に大ヒットする65mmP型赤道儀の発売予告、と怒濤の新製品ラッシュでした。

1972年7月号 タカハシTS100   1972年10月号 タカハシTS80   1972年12月号 タカハシP65


 また、1972年と言えば、大騒ぎのジャコビニ流星群です。11月にやってくるはずだったジャコビニ流星群も広告に登場しました。
 しかし、現実には、たいへん残念な結果だったことは多くの天文ファンの記憶に残っていると思います。
ジャコビニ流星群


 1972年の特徴的な広告を、あと2つ御紹介します。ひとつは、五藤光学研究所のポータブル星野撮影赤道儀です。
 後のスカイメモのイメージです。この頃は、高級品だったような気がします。
1972年1月号五藤光学ポータブル赤道儀

 もうひとつは、協栄産業の広告です。
 この頃は、とても小さな広告で、関西唯一…が印象的でした。当時、天体望遠鏡はカメラ屋さんか眼鏡屋さんで購入するのが一般的だったようなので珍しい広告だったのかも知れません。
1972年1月号協栄産業


 1973年5月号の天文ガイド表紙は、ペルセウス座二重星団(h-x)のカラー写真であった。実に美しい印象的な表紙でした。
 撮影者は岡山県の大倉信夫氏で、1972年10月14日にアサヒペンタックスSV+タクマー500mmF4.5、露出25分、フジカラーR100とデータが記載されています。美しい写真を撮るためには、500mm超望遠レンズを25分もガイド撮影する必要があることと、そんなことができるのは凄いなあと強く思った記憶があります。
1973年5月号二重星団


 1973年の天文ガイドからは3つの広告を御紹介します。

 ひとつ目は、五藤光学の16cm反射赤道儀の広告です。反射赤道儀の大型化の先駆的な広告だったのかも知れません。

五藤光学16cm反射赤道儀


 二つめは、富士電子工業のスカイメモPです。現在まで続くスカイメモの原型でしょうか。たしかに、星野写真を標準レンズや広角レンズで撮影する場合は、大きな望遠鏡を運ぶ負担を考えれば、こちらの方が合理的ですね。焦点距離の長い望遠鏡を赤道儀にのせてガイド撮影をしているとき、急な雷雨に襲われてしまうと人間も光学系も悲惨な状況になることを考えれば、直ぐ避難!が可能です。
1973年8月号 スカイメモP


 三つ目は、誠文堂新光社の「天体観測ハンドブック(著者:鈴木敬信氏)」と「星雲星団写真集(著者:古田俊正氏)」の広告です。
 「天体観測ハンドブック」は天文年鑑を活用するためのガイドブックになっていて、著者の鈴木敬信さんは、天文ガイドにノモグラムの連載をされていた方です。ノモグラム(Nomogram)は、関数計算や座標変換などを簡易に行うための図やグラフのことで、関数電卓が登場するまではアマチュアの魔法のグラフでした。また、星雲星団写真集は、著者である古田さんの驚異的な集中力・体力による長焦点手動ガイド星雲星団写真集でした。私は上原会長から借りて見たのですが「これは自分にはできません。」と思うような作品ばかりでした。現在の機器からは想像できない手動ガイド、長焦点、長時間露光でした。

1973年8月誠文堂新光社


 1974年、1975年と特に記憶に残るような表紙や広告はなく、気づけば受験生になっていた1976年2月5日、発売された天文ガイド3月号に、福井雅之氏の入選作「登りゆく火星のスペクトル」が掲載されました。そう、この銀河鉄道に何度も記事を書いてもらっている福井氏の作品です。高校の卒業式の約1ヶ月前の快挙でした。

1976年3月号登りゆく火星のスペクトル
 福井氏入選作掲載の翌月、私たちの大学入試の真っ最中に発売された1976年4月号の天文ガイド表紙は「2年ごしの日周運動」で、長野県、向井義明氏の作品でした。1975年12月31日17h49m30sから1976年1月1日05h50m00s(24h00m~02m中断)までの、まさに足かけ2年、12時間露光の作品でした。機材は、ペンタックスSPにSMCタクマー55mmF1.8をf5.6まで絞った撮影と記載があります。フジカラーR100で、6.5cm赤道儀に同架とも記載されていますが、三脚がなかったのかな?とも思われる記載でした。大晦日から元旦未明にかけての撮影と、こんなに暗い空を探してこられた熱意に敬意を表さずにはいられない表紙でした。

1976年4月号 2年ごしの日周運動


 1977年からは10月号に掲載された2つの広告を御紹介します。

 ひとつは、日本特殊光学製「我が国最初のシュミットカメラ」です。凄い!いよいよアマチュアがシュミットカメラを使う時代が来たのか、と製品開発のスピードにユーザーとして追いつかなくなっている気がしてなりませんでした。この辺りから、シビアかつ先進的な天文ファンから、ゆる~い天文ファンへと、私自身のスタイルが変わったのかも知れません。




 もう一つは、タカハシ製作所のTS90mmフローライト屈折赤道儀です。それまでは、口径8cmが高級機だったのが、一気に9cmフローライト!!印象としては自動車1台分くらいの価格でした。そして次の年、1978年には「もう就職しても買えないなあ」という高級機器が複数登場します。

1977年10月号TS90mmフローライト


 1978年1月号、タカハシ製作所から16cm反射赤道儀が発表になります。アマチュアの反射望遠鏡は、口径10cmを超えると経緯台というイメージがありましたが、堂々の16cm反射赤道儀でした。TS90mmフローライトほどではありませんでしたが、やはり、それなりの価格になっていました。おそらく、そうとうシャープな映像を得ることができた機種ではないでしょうか。
1978年1月号 TS160mm


 1978年2月号では、富士写真光機・フジノン15cm双眼鏡の広告に目を引かれました。口径15cmの双眼鏡って何これ!でした。それまで、双眼鏡は5cmで大型のイメージでしたので、桁違いのサイズに、まず、驚きました。フジノン150mmも、この頃は未だ25倍で、後に出てくる40倍天体観望仕様ではなかったものの、やはり、それなりの価格でした。約10年後、妙見山の駐車場で開催された星空パーティーで公開用フジノン150mm40×を覗かせてもらった際には、その像のエッジが恐ろしいほどキレッキレで、ここまで見えるのかと、ため息の連続でした。

1978年2月号 フジノン双眼鏡


 1978年5月号では、西村製作所・Hαソーラーフィルターが登場します。Hαって、ソーラープロミネンスアダプターなしでプロミネンスを観察したり、太陽表面のフレアも見えるらしい。そんなことを話しながら、価格を見て、将来稼げる職に就かないと、趣味の天体写真では大きな格差社会になってしまうなあ、などと勝手に考えていました。


 1978年8月号では、ビクセン・暗視野ガイドアダプターの広告が目を引きました。当時、ガイド撮影用のアイピースは、コルキット8cm単レンズ・ボール紙鏡筒に付属してきた接眼レンズ内に接着剤で十字線を引いて使っていましたが、明視野ガイド接眼レンズであり、暗い星ではガイド星にならないことが多々あり、いつかは入手したいと思って眺めた広告でした。少し脱線しますが、このコルキットは低価格で小学生が天体観測入門で、お小遣いを貯め、お年玉を貯め、心弾ませて購入するには最適な天体望遠鏡でした。望遠鏡の構造や、月のクレータを観察するには非常に高いコストパフォーマンスであったと感謝しています。ただ、単レンズであったので、惑星は虹色に見えても我慢の望遠鏡でした。




 1978年9月号に、富士フイルム・天体写真コンテスト応募要項が掲載されました。その約1週間後、上原会長と、三岳だったか上杉だったか記憶は定かではないのですが、ペルセウス座流星群の撮影に出かけ、その際に、はくちょう座を横切った流星を偶然撮影でき、このコンテストに応募しました。その結果が、右の1979年1月号の発表です。運だけのA部門入選でした。

1978年9月号 富士フイルム・天体写真コンテスト募集広告  1978年9月号 富士フイルム・天体写真コンテスト結果広告

 1980年12月号の表紙は、あまり大きな驚きはなかったのですが、何がポイントで表紙になったのか理解できず、解説を見ると、エンパイアステートビルと三日月の合成写真であると載っていました。スマートフォンで簡単に合成ができる現代と違って、約45年前のフィルム時代のカラー写真の合成は職人技の集積だったのではないかなあと思うと、感慨深いものがあります。




 1980年12月号にはケンコー・スカイメモQの広告が掲載されました。ただ、少し違和感があった広告でした。それは、スカイメモの上に反射望遠鏡が載っていたことです。なんで?という違和感でした。




 1980年代当初を象徴する広告を御紹介します。まず、ミードとセレストロンのシュミットカセグレン望遠鏡の広告です。1975年~76年にかけて1ドル=300円前後であった為替レートが、1978年10月には1ドル=152円まで高騰し、海外製品が半額で買える感覚になっていました。日本の望遠鏡メーカーとは発想が異なる米国の望遠鏡メーカーの発想に懐疑てきな見方をする方も少なくなかったのは事実ですが、その口径の大きな光学系に新しい世界を見せられた思いになりました。

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 また、1980年代当初には、ドブソニアンが流行し、大口径望遠鏡の魅力に引き込まれた天文ファンも少なくはなかったと思われます。また、パソコンが急激に普及し、天文ファンにもデジタル技術が広がり始めてきました。




 1984年7月号、タカハシ製作所から、ε系の反射鏡筒が発売されました。ゆる~い天文ファンから試写された星像を見ると、そのシャープかつ小さな星像から、ますますプロフェッショナルなマニアのための望遠鏡が発売されたなあ、という印象的な望遠鏡広告でした。




 1984年11月号に、ビクセン・マイコンスカイセンサー2の広告が載りました。この頃、急激なデジタル制御の波は、すでに町工場にも機械加工分野に押し寄せ、NC旋盤やNCフライスなどが急激に普及していましたが、アマチュアの赤道儀制御も、ついにデジタルの入り口に立ったのかという印象的な広告でした。やがて、スカイセンサー2000、パソコンやタブレット、スマートフォンによるコントロールなど、人とデジタル制御のインターフェース技術の進展には驚くものがあります。




 1985年6月号に小西六・サクラカラーSR1600の広告が載り、1987年9月号には、Konica・コニカカラーGX3200の広告が載りました。フィルムカメラが衰退し始めた頃に発売されたASA1600、3200のフィルムでした。富士フイルムからも同様に発売された。フィルムメーカーの気合いのようなものを感じる広告でした。

 


 1985年8月号と9月号に対照的な望遠鏡の広告があります。ひとつは、ペンタックスで有名な旭光学工業のPENTAX-125EDHF、12.5cmF6.4EDフラットフィールド屈折赤道儀で、もう一つは、トミカで有名なトミーから発売されたFAMISCO60です。価格も販売対象も全く異なると思われ、ペンタックスはフォトビジュアルのの極致で、見えて当然、撮れて当然の製品ですが、このトミーのプラスチック鏡筒の望遠鏡も意外に良く見えると評判で、調べてみるとアポクロマート対物レンズだったという噂が広がりました。

 


 1989年はバブル景気の真っ最中で、天体望遠鏡も凄い製品が登場します。まず、3月号に、セレストロンのC11を搭載したビクセン・アトラクスの発売予告が掲載されます。




 ビクセンに対抗するように、タカハシ製作所からは連続して3機種が発表されます。まず、NJPに15cm屈折望遠鏡を搭載しパソコンで制御するFCT-150NJPテレトレが2月号に、4月号には突如225mmシュミットカセグレンが、さらに1年後の1990年4月にはミューロンが発表されました。バブル経済に乗り遅れた公務員であった私には遠い世界の製品に見えました。

   


 さて、今回の「天文ガイド・購読半世紀の思い出①」の締めくくりに、表紙と広告を一つずつ御紹介します。一つ目は、驚異の1990年6月号の表紙です。上高地で偶然撮影された大プロミネンスです。フィルターなしでプロミネンスが撮影できるなど思いもしないことですが、現実に撮影された大プロミネンスでした。50年間で、この表紙以上のインパクトがあった表紙はなかったと思います。




 最後は、天文ガイド1990年10月号の国際光器・ST-4の広告です。デジタル撮像の先駆けとなったST-4はバブル景気が弾けた1990年秋、控えめに登場しました。







   2024年 春


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