西中筋天文同好会50年の思い出

田中邦明


 中学生3人が、天文同好会誌(会誌というより会紙に近いものでした)「銀河鉄道」を印刷してから早いもので50年が経過しました。その3人の福知山市立南陵中学校3年生は、今や65歳・高齢者の仲間入りをしています。まさに「光陰矢の如し」です。いや、私においては「少年老い易く学成り難し」といった表現の方が合っているように思います。

 【発足から中学校卒業まで】

 始まりは、中学2年生の晩秋でした。3人のうちの1人(上原貞治:通称サーちゃん、後に理学博士)が所有する8cm屈折赤道儀(日野金属のミザール・カイザー:この名前だけで涙が出そうなほど懐かしさを感じる古い天文ファンの方もいらっしゃるかも…)を私が見に行ったことが同好会発足のきっかけとなっています。

 当時、8cm単レンズ自作キットの(月と太陽以外は色収差で虹色天体にしか見えなかった)天体望遠鏡で、月のクレータしか見た事がなかった私(14歳の少年)には、ミザール・カイザーが見せた世界は、驚くほど鮮明な世界でした。

 接眼レンズを覗けば、天体薄明を背景にして土星が輪の中にポッカリと浮かび、木星は淡い大赤斑をシンボルとしてガリレオ衛星を従え、太陽系をイメージさせるに十分な姿を見ることができました。

 色収差の小さな天体望遠鏡が欲しくてたまらなくなった14歳の私は、早速資料を集め始めました。

 まず天文ガイドを購入目的で書店へ。1971年11月、既に最新号は完売しており、翌月5日の発売日を待って1972年1月号を手に入れました。オリオン座の三つ星からM42を中望遠レンズで撮影したカラー写真が1972年の最初の表紙を飾っていました。

 当時、カラーで天体写真を撮影するには、努力と忍耐と幸運が必要で、それらが条件が揃った、表紙を飾るに相応しい、美しいオリオン座中心部でした。

 穴が開くほど記事を読み返し、天体望遠鏡の広告も何度も見ましが、その価格を見て…ため息、の繰り返しでもありました。

 何度も天文ガイドを読み返す私を横で見ていた父が、職場の特約店である眼鏡屋さんを通して、月賦(今なら分割払いとかローンといった方がわかりやすいか…)で、日野金属の10cm反射赤道儀H-100を買ってくれました。今思えば、収入が多くない中、数万円もする子供の遊び道具を、よく買ってくれたものです。

 H-100に付属してきたK-18(ケルナー式、焦点距離18mm)接眼レンズを通して、月、木星、土星、金星、火星、M42、M35、ペルセウス座の二重星団、M8、M31…季節が変わるにつれ、見られそうなものはすべて見ました。接眼レンズ以外の色収差は感じられず、それぞれの天体が美しかったことを憶えています。時が過ぎるのも忘れて見続けましたた。

 もう1人の東氏は高橋製作所のTS-100を買ってもらったと聞き、さっそく見せてもらいに10km程度の道のりを上原氏と2人で往復したように思います。当時の高橋製作所には珍しい反射望遠鏡でした。価格はミザールH-100よりかなり高く、ガッシリした赤道儀にシンプルな10cm反射望遠鏡が搭載された人気の高級機でした。

 早速、覗きに行って驚きました。「えっ!これ同じ10cm反射?」というのが正直な感想でした。天体像は光量も多く、切れ味抜群。

 「う〜ん、やはり価格が高い分、よく見える。さすがに人気のタカハシ!」そんな印象を持った3人でした。

 3人は、次の春に中学3年生となりましたが、高校受験など遠い先の話でした。その頃から、ジャコビニ流星群についての情報が、専門誌はもちろん、マスコミからもちらほら流れ始めます。

 1972年に母彗星であるジャコビニ・ツィナー(Giacobini-Zinner:当時はジャコビニ・ジンナーと呼んでいました。)彗星の軌道と地球の軌道がほぼ完全に交差し、彗星が通過した約58日後に地球が通過するため、1933年の欧州や1946年の北米で現れた流星雨が、1972年の日本でも見られるのではないかという予想と大きな期待がアマチュア天文関係者の中に広がりました。

 しかし、一方、プロの研究者は、大して期待でないが、通常の観測だけは行いましょう、という声が多かったように思います。

 しばらくすると「流星雨を観測しよう!」のような雑誌も発売されました。

 「流星雨という名前からすると雨のように流星が流れる…これってホンマ?」

 中学3年生の私たちには、その過去の出来事を調べ、その当時描かれた絵を見るだけでも高まる気持ちを押さえることは難しいものでした。

 3人は「流星観測を一度もしたことがないのに、いきなり流星雨に遭遇して大丈夫か…」と多少意味不明な理由から、流星観測の練習に8月のペルセウス座γ流星群の観測にトライしようということになりました。

 観測場所は当時の京都府立石原高等学校グラウンド(標高約70m)。

 現在はグラウンド周辺に民家が多く建ち並び、星の観測どころではないが、当時のグラウンド周辺は、耕作放棄で放置された荒れ地に丹波栗の木が数本あるだけで、背の高い草 が生い茂り、雑木林に囲まれていました。

 またグラウンドから少し下ったところに墓地があり、グラウンドへの行き来は、その墓地横の一本道で、自動車やバイクのライト、歩行者の懐中電灯などの人光に邪魔される 心配もほとんどなく、星の観測や写真撮影には適した状況にありました。当時は、天の川もよく見えました。

 観測は、ピクニック用のシートをグラウンドのほぼ中央に敷き、その上に寝転がる、そんなシンプルな方法です。

 固定撮影のカメラを設置し、星が流れたら時刻、発光開始位置と発光終了位置を記録するという予定でした。

 カメラはキャノネットやニコマート。用いたレンズの焦点距離は、45mm〜55mmの標準レンズ。F2〜2.8に絞り、富士フイルムのネオパンSSS (ASA200…若い人にはISO200と表記した方がイメージしやすい?)かコダックのTRI−X (ASA400)などで、レリーズも使い、10分間のバルブ撮影を繰り返しました。

 今のデジタルカメラから想像するのは難しいような方法で撮影を行っていました。

 結果として固定撮影では大流星は撮影できなかったものの、複数の流星の小さな映像を得ることができました。

 一方、目視観測は多く流れ始めると記録が追いつかない状態となり、途中から正しいデータなのか間違っているのかも怪しいものとなりました。

 3人は、天頂付近の白鳥座からこと座を流れる明るい流星を見るたびに「オーッ!」と何度も歓声をあげました。

 近年であれば近隣の住人からパトカーを呼ばれるのがオチとなりそうですが、その際の近隣住人は狸や狐、ウサギや野ねずみといったところです。

 明け方近くになり、水田の多い盆地特有の霧が出始めました。(水田が減り、夏は明け方も気温下がりにくい昨今は、夏には、あまり霧が出現しなくなってしまいました。それにつられるように虫が減り、ツバメも減りました。)

 一夜明け、何時に解散し、どのように自宅へ戻ったのか、ほとんど記憶はありませんが、今まで見たことがない数の流星を短時間に観測し、充実感に包まれていたことは間違いなく、ジャコビニ流星群への期待も大きくなるばかりでした。

 1972年10月9日はジャコビニ流星群出現の極大予想日であるとともに、私たち中学3年生には、2回目の高校入試模擬試験の日でもあり、季節外れの台風が日本に接近する という記憶に残りやすい一日でした。

 しかし気分は模擬試験や台風どころではなく、世紀の大流星雨出現の期待で、日常は、すべて上の空でした。

 10月9日、当日は模擬試験を済ませ、撮影機材の準備も完了し、夕方近く、暗くなる前に、先のペルセウス座γ流星群の観測場所とした高校のグラウンドへ急ぎました。

 台風接近のためか雲は多いものの、晴れ間も見られます。本当に出現するのかという不安や、大出現の最中に曇るのではないかという不安も脳裏から離れませんでした。

 撮影用カメラの設置も完了。記録用紙も準備完了。寝転がるためのシートも準備完了。さっそく寝転がってみると「あっ!冷たい!」

 10月9日は真冬ではないので、大して寒くはないと勝手に思い込んでいました。その浅はかさを実感しながらも、流星雨への期待が、しばし背中の冷たさを忘れさせました。

 そこへ様子を見に来られた東氏の父上が、何の防寒具もない状況を見て、自家用車のシートカバーを置いていってくださいました。

 さすが陸上自衛隊での野営訓練での経験上、これでは 寒さがしのげないと察した親心でした。

 しかし私たちは後期反抗期の中学3年生で、特に東氏は「大丈夫やから早う帰れ」といわんばかりの対応で、申し訳ない気持ちになりました。

 後に なって3人は、この自動車カバーのありがたさ、親心のありがたさを痛感することになります。この後も私の母が温かい拉麺を持参、上原の父上が様子を見に…という状況が続きました。

 保護者は「受験前の大切な時機に何をやっているのか」「寒さと睡眠不足から健康を害しないだろうか」という心配がありながら、「やめろ」とも言わず、目立たぬように援助して帰って行きました。

 親になって初めて察することができる「親心」でした。

 そうこうしている間に晩秋の夕は駆け足で暮れ、互いの顔も認識できないくらいの暗闇に包まれました。

 「想像以上に寒い。」そう感じながらも空を眺め続けます。ときどき晴れ間から星空を見ることはできますが、一向に流星らしきものを見ることはできません。

 午後10時頃だったでしょうか、あまりの寒さに「何とかしなければ、朝まではとても我慢できない」と3人とも考え、カメラ用三脚や荷物を支えに、さきほどの自動車カバーをテントのような状態にすることができました。

 3人は、その中に身体を入れ、なんとか寒さに対応しようとしました。しかし、シートの下では空を見ることができません。が、外へ出ると、あまりにも寒い。

 上原氏が妙案を考え出しました。体温が地へ奪われるのを防ぐため断熱効果のありそうなものを身体とシートの間に敷き、首から上だけをテントから顔を出すというものでした。

 「これで寒さをしのぎながら空を見続けることができる。」3人が3方向から顔だけを空に向けて出しました。しかし、一向に星は流れません。

 府立石原高校のグラウンドのほぼ中央に、中学生3人が自動車シートカバーから顔だけを出し「寒い!寒い!」と言いながら空を見続ける様は、第三者が見ると実に異様で滑稽です。

 結局、夜明けまで、第三者も現れませんでしたが、ジャコビニ流星群も現れず、世紀のジャコビニ大流星雨は「一滴」たりとも降ることはありませんでした。

 数ヶ月に亘って日本全土で大騒ぎとなったジャコビニ流星雨の予報は、世紀の「大がっかり」予報となりました。

 西中筋天文同好をスタートさせた3人は、1973年3月に福知山市立南陵中学校を卒業しました。

 当初3人だったメンバーは、福田、佐古田、谷崎が加わり、6人になっていました。

 高校入学前の初春、再度、京都府立石原高校グラウンドで、天体望遠鏡も持ち込んで天体写真撮影会を行いました。その際の記念フォト(撮影は東氏)が、Photo No.1 です。

   春の観測会 Photo No.1  


 【高校入学から卒業まで】

 彼ら6人は、1973年4月、京都府立福知山高等学校へ入学しました。

 東氏は写真部、上原氏は物理部、佐古田氏と私はバレーボール部に入部しました。福田と谷崎は何部だったか記憶に無いところを考えると帰宅部だったのかも知れません。

 各人が各部活の中で活動し、高校生活の中では西中筋天文同好会の活動は低調にならざるを得ませんでしたが、なぜか部員は増えていきました。10人以上になった気がしますが、正式な名簿も作っておらず、アメーバー的組織となっていました。

 本当に部員と呼んで良かったのか、かなり曖昧な部分もありますが、一応そういうことになっています。

 高校生活にもやっと慣れ始めた頃、チェコの天文学者コホーテク氏が発見した彗星(1973年3月7日発見)が、翌年、地球に非常に接近し、肉眼でも観測できる大彗星になるという予報が流れるようになりました。

 コホーテク彗星(1973f)です。

 近日点通過前の1973年12月までは明け方の空に見られ、近日点通過後の1974年1月には夕方の空に見られるようになることは明らかになっていました。

 マスメディアの報道は「金星より明るくなる」や「1月には1等星」というものなど、必ず肉眼彗星になると思える報道でした。

 「が、しかし待てよ、マスメディアの報道は前回のジャコビニ流星群で懲りたはずではなかったか。いや、今度は間違いないのでは…というのも前回はプロが否定的な見解を述べていたけれど、今回はプロもある程度は認めているじゃないか。」

 「え?一部否定的なプロもいるって?そうか、では大きな期待をしないように、派手な観測態勢もとらないように、ソッとして大彗星を待つことにしよう」ということになりました。

 「ソッと待つ」こと数ヶ月。1974年正月明けから、バレーボールの部活が終われば直ぐに、12×50mmの双眼鏡を片手に持ち、毎日コホーテク彗星探しを行ったものの、肉眼彗星はおろか、見つけることすらできませんでした。

 1月10日過ぎだったように思いますが、かすかに尾を引く彗星のような天体を見つけることができました。

 しかし、あれは本当にコホーテク彗星だったのか、今でも確信が持てず、ジャコビニ流星雨に並ぶ「2大ガッカリ」天文イベントとなりました。

 余談ですが、この頃、私と佐古田氏が所属する福知山高校男子バレーボール部は、春の高校バレーの京都府代表となり、滋賀県代表と東京体育館・春高バレー全国決勝大会への切符を掛けた京滋決勝のため連日練習に明け暮れていました。

 しかし学業は高校入学時に学年トップクラスであった成績も、ズルズルと下がる一方で、回復することもできず、結局京滋決勝でも滋賀県代表の近江高校に敗れたため東京体育館へも行けず、ここで一区切りつけようと、もう1人の1年生部員足立耕三氏(後に赴任先の博多で急性心不全を発症し25歳の若さで他界)とも相談して全1年生3人が退部しました。

 ここで天文高校生として活動するるつもりであったのに、そうはなりませんでした。7人しか部員がいないのに、全1年生3人が退部すれば2年生4人しか残らず、6人制バレーボールには出場できません。

 新年度になって新入生が加入するまで待たざるを得ず、また加入したところで少し前まで中学生であった新入生に過大な期待はできず、我々に復帰を促す強力な誘いがあったのは当然のことでした。

 結局、佐古田氏と私は復帰し、足立氏は勉学の道を選びました。幸いなことに1974年の全国高等学校総合体育大会(通称インターハイ)と国民体育大会の京都府予選も勝つことができ、福岡県直方市と茨城県古河市で全国の強豪と戦うという貴重な体験もできました。

 全国高校総体バレーボール会場となった直方市では炭鉱から掘り出されたボタ山を見て驚き、宿泊先の裏山が福智山という名で不思議な気持ちにもなりました。

 国体では開会式の大きさと派手さに驚きました。インターハイ(全国高等学校総合体育大会)の開会式とは規模が全然違う開会式でした。また、開会式の中で、開催県の知事(だったと思います)の「天皇陛下万歳!」に合わせ、観客席も選手団も「万歳!」と声を上げ一斉に万歳三唱となりました。その際、京都府選手団と隣の大阪府選手団の、私を含む「少年」たちは「え!何が起こった?」と、衆議院の解散以外見た記憶がない慣れない状況に戸惑い、遅ればせながら万歳したり、呆然と眺めたりしていました。「他の都道県では、そういった教育がなされているのかも知れない。」「京都府や大阪府は、ひょっとすると、世間一般とは大きくかけ離れていることが多くあるのかも知れないな。」と感じた開会式でもありました。

 また、私たちのチームに帯同してくださった方は、古河市の市役所から派遣された方でした。誠実そうな方で、古河市の観光名所等を説明してくださったのですが、関西と茨城のイントネーションの違いから、何をおっしゃっているのか理解できないことも多くありましたが、失礼な応対はできないという思いから、理解できたふりをしてしまったことは、今も多少の後悔があります。

 その国体から帰って、私は、4人の3年生の退部とともに、やっと退部することになりました。

 ここまで読まれた方は私と佐古田氏が国体へ出場と理解されたと思いますが、佐古田氏は国体には行きませんでした。

 当時、福知山高校の2年生は、秋に九州旅行をすることになっており、1974年(昭和49年)は、偶々、国体京都府選手団の出発と福知山高校2年生の修学旅行への出発が同じ日で、就学旅行団は朝、国体京都府選手団は夜の出発でした。佐古田氏は、朝の就学旅行を選択し、私は国体を選択したという次第です。そんな経緯でした。

 脱線したので本線に戻しますが、高校生になってから会員数は徐々に増え、観測会も何度か開催しましたが、まともな観測会は一度も行わなかったような気がしています。

 観測地は、高校のグラウンドから福知山市北方の三岳山中腹、青少年山の家近くの鳥居前広場キャンプ地で開催することが多くなりました。

 この鳥居がどの神社の鳥居だったのか、全く知りませんでしたが、喜多六社神社の鳥居だったようです。この三岳山は多くの神社が建立されており、やたら長い参道もあります。古くは、修験道の山であり、平家の落人伝説の山でもあります。

 当時からキャンプは有料であったようですが、地元の高校生二人が参加していたためか、参加料を請求されたことはありませんでした。ヒョッとすると、地元の高校生の保護者の方が支払ってくださっていたのかも知れません。

 この観測地は、国鉄福知山駅(現JR福知山駅)から山陰本線に乗り、一駅ではあるが10分程度乗車して上川口駅で下車、そこで京都交通の上佐々木行きバスに乗り、国道426号線の曲がりくねった山間の約5kmの道を20分ほど揺られ「農協前(三岳小学校前)」で下車。そこから更に約3kmの登り坂を約1時間半歩くと観測場所に到着します。

 この道は自動車が走行できる幅はありましたが、当時未舗装部分がほとんどで、自動車もオートバイも自転車も歩く人も滅多に見かけませんでした。

 またこの道は森下喜成氏の祖父の設計であるとのことでした。いつの間にか同好会員となった2人の福知山市立三岳小学校(現在は廃校)の卒業生、森下喜成君と森下京子さんによると、通学時に熊よけの鈴をランドセルに付けていたとのことですが、熊や猪や鹿に遭遇しても何の不思議もない登山道3kmでした。

 流星観測に、その3kmの道のりを歩いて、初めて三岳山中腹へ行きまし。それがいつだったか記憶は定かでありませんが、高校2年生の夏であったような気もします。上原氏と2人で三岳小学校前のバス停から延々歩いたことは確かです。

 こんな交通の便の悪いところから「よく福知山高校へ通学しているなあ」と感心もし、平家の落人伝説が多いことも納得できました。

 この観測地近辺から福知山高校へ通学していたのは、少なくとも3人でした。先ほどの2人の森下さんと、天文同好会とは無関係ですが、観測地の更に上に立地していた金光寺の御住職の娘さんだったと思われる石坪さんです。

 他のメンバーの多くは、自宅から福知山高校へ、自転車で10分程度の道のりを通学していたため、その差はあまりにも大きいと思います。

 三岳山頂は標高約839m、中腹の観測地は約350mで、雲海撮影ができる場所です。

 観測地は南側に開け、北極星付近から南のかんむり座あたりまで良く見えました。また大都市からも離れ、夜間の人光が少ないため夜空は暗く、天頂から南天にかけての銀河が雲のように見える驚愕の星空でした。

 驚愕は星空だけではありません。驚くべき蚊もいました。なんとジーパンの厚めの生地を通して血を吸われたのです。参加者の、ほぼ全員がジーパンや他の衣服の上から蚊に刺され血を吸われました。

 さらに驚愕は続きました。FM大阪が受診できました。ソニー・スカイセンサー5500(これも懐かしいでしょ?)で受信した音声は実にクリアでした。ソニー・スカイセンサー5500は、私が海外の短波放送を受信してベリカード(Verification Card)をもらうために買って使っていたラジオです。

 このスカイセンサー5500の購入には、修学旅行のために積み立てていた旅費を充てました。結局、修学旅行には行かず国体へ行ってしまったので、数万円が払い戻されたわけです。

 今のようなインターネットを活用した通販や宅配便も無かった時代です。偶然、父が東京へ出張することとなり、秋葉原で購入し自宅まで持ち帰ってくれました。

 後になって気付いたことですが、私がラジオを買ってもらったのは2台目でし。1台目は小学校1年生、7歳の時です。その頃も父は東京へ数ヶ月出張しており、秋葉原で東京オリンピック記念ラジオで日の丸をデザインしたラジオ(東芝製であったと思われます)を買ってくれていました。

 電波の特異点は多く知られていると思いますが、私が京都北部でFM大阪を受信できたのは、舞鶴市の日本赤十字病院と伊佐津川に挟まれた土手と、大江山連峰にある大江山スキー場上部、この観測地の3カ所です。

 この土手は、私が以前住んでいたところの近くであり、父が大きなVHF用アンテナを立て、1960年頃から大阪で放送されていたテレビの民放を受信していたことで、幼い頃から大阪の電波が届く場所として知っていたものです。いずれも大阪からの電波を遮るものが無いことが特徴です。おそらく、大江山連峰の各ピークや大江山スキー場の上部でも大阪のFM局は容易に受信できると思い、試した結果、難なく受信を確認することが出来ました。

 雲海が眼下に広がる場所だけに、水蒸気による影響も少ないため透明度も高く、流れる流星も大きく明るい気がしました。ここで惑星を見たら素晴らしい像が見られるのではないかと自然に思ってしまいます。

 今も夏になると、この場所に星を見に行きたくなりますが、冬に足を運ぶ気力と体力は、もうありません。

 天体から、少し、いや、かなり、ずれてしまったので、天体現象に話を戻します。

 1974年の11月29日から30日の明け方にかけて皆既月食が見られるはずでした。高校2年生であった私たちも観測することになりました。

 当然ながら観測地は三岳山中腹のいつもの観測地だったわけですが、月食観測のために、わざわざ三岳山中腹まで遠征する理由は、探しても、全くといっていいほど、見つかりません。

 なぜ、そんな遠方まで遠征したのか、今となっては、ますますわかりません。

 大雨で月食観測は全くできず、テントの中で約10名ほどが明け方まで晴れ間を待って、ウダウダとろくでもない話しや麻雀やトランプをしていたのであろうと思われます。

 翌日の授業1時間目に間に合ったのかどうか憶えていませんが、私は国語の授業中に爆睡して麝島先生の御機嫌を損ねたことだけは憶えています。

 1975年8月31日(日)、明日から2学期が始まるのを前に「嫌やなあ〜」と思っていたところへテレビのニュース番組で「はくちょう座に新星発見」が流れました。なんでも国内の第一発見者は岡山県の高校生らしい。夏休み終了の嫌な気分が少し薄れた夜でした。

 翌9月1日、NHK朝の報道番組(番組名は「スタジオ102」やったような気がします。)に、その高校生(長田健太郎さん)が岡山だったか広島だったかのスタジオへ出向き、中継で東京のスタジオからインタビューを受けていたのを今も憶えています。また、学校へ登校する前の出演であることを、NHKが強調していたことも記憶しています。

 詰め襟制服姿の真面目そうな高校生が、控えめに受け答えするインタビューでした。インタビューの内容を聞いていると、私たちと同じ高校3年生らしく、何処にでも似たようなことをしている高校生がいるなあと思いながら番組を見ていました。

 発見は8月29日午後8時頃。その頃、福知山近辺は雲が多く、とても天体観測をする気分ではなかったなあ、と言い訳めいた思いもあった高校3年生2学期の初日でした。

 この後、特に目立つ天文現象もなく、高校卒業後の進路が決定するまで活動を休止することになりした。これを機に、活動休止のために銀河鉄道記念号を出すことにしようという企画が持ち上がりました。

 会員だけではなく、いろいろな人に記事を書いてもらおうと、彼方此方に無理をお願いしました。先に御機嫌を損ねてしまったことを報告した国語の麝島先生、大して御縁もなかったのに無理矢理お願いして快く一文を寄せてくださったフォーク歌手の高石ともやさんなど、なんでこの人が?と思われる人からも原稿を戴きました。

 その数ヶ月後、私たちは高校を卒業しました。上原氏は広島大学理学部へ、東氏は陸上自衛隊の幹部候養成学校へ、佐古田氏は福井大学工学部へ、私は大阪府立大学工学部へ、ある者は浪人の道を選び予備校へ…と皆がバラバラになってしまいました。



 【高校卒業から40周年まで】

 上原氏の「銀河鉄道創刊40周年に思うこと」によると、高校卒業後も3年間で15回「銀河鉄道」は発刊されています。ひとえに上原氏の努力に依るところです。

 しかし、その後1979年〜1993年の15年間1回も「銀河鉄道」が出されることはありませんでした。

 この間、学位を取得、就職、結婚、子育てなど、日常に追いまくられる多忙な時機であったため、そうなったように思います。おっと、また脱線していました。話しを天体に戻しましょう。

 1976年秋、大学の前期試験後、後期講義が始まる前に、上原氏の下宿に一泊させてもらい、ともに、岡山の竹林寺山国立天文台を訪ねました。国鉄山陽線鴨方駅で下車し、バスに揺られて天文台へ向かいました。

 Photo2、3は竹林寺山天文台付近での若かりし頃の2人で、Photo4は鴨方駅から竹林寺山天文台行きのバスの時刻表です。

 竹林寺山天文台 Photo No.0

 竹林寺山天文台にて上原氏 Photo No.2

 竹林寺山天文台にて田中 Photo No.3

 鴨方バス時刻表 Photo No.4

 1976年のウエスト彗星は、メディアの大騒ぎもなかったのですが、近日点通過後の1976年3月には肉眼でも見られる大彗星となりました。今も20世紀を代表する美しい彗星とされています。

 この彗星は1975年8月10日にヨーロッパ南天天文台のリチャード・マーティン・ウェストによって発見された彗星といわれています。

 この年、大学生になった私は、憧れであった高橋製作所のTS式65mm屈折赤道儀P型を購入してもらいました。

 鏡筒は有効径65mm、焦点距離500mmのセミアポクロマート、高価でしたが、とても口径比7.7 とは思えない良い星像でした。また赤道儀も極軸望遠鏡を備えており、極軸合わせも短時間で可能となっていました。

 なんとか、この望遠鏡でコンテスト入賞をとの意気込みだけはありました。固定撮影で白鳥座を横切るペルセウス座流星を捉えたカラー写真が、フジカラーネイチャーフォトコンテストの天体写真分野で入選し、梅田の丸ビルで展示されたこともありましたが、単なる偶然の産物であり、結局、大学時代に、この望遠鏡で天体写真コンテスト等に入選したことはありませんでした。

 TS式65mm屈折赤道儀P型のポータブル機能を活かし、北アルプス徳本峠(とくごうとうげ)から蝶ヶ岳まで遠征もしました。

 その降るような星空たるや…と書きたかったのですが、山にいる間、一度も晴れず「自分はヒョッとすると雨男か?」と思うほど天候には恵まれませんでした。

 総重量が約30kg(今では信じられない)になった背負子で山を歩いたのは徒労となりました。

 若い頃には何の苦労もなかったことが、今では信じられないほど苦労することも少なくありません。

 まず視力が格段に低下したこと。高校時代は白いバレーボールが回転する方向までハッキリ見えましたが、今では3色のカラーボールでさえ回転の向きがわかりません。筋力も低下しました。高さ2m40cmのネットでアタックを苦もなく打っていたことや、相手のアタックしたボールをブロックする際に、喉や胸に当たったことなど、今思えば、夢のようなできごとでした。

 同様に星も見えなくなり、天体観測に遠出する体力も気力も徐々に低下してきています。オッと、また脱線。

 1983年4月30日の明け方、木星食が観測されるはずでした。就職して4年目の私は向日市に住んでいましたが、ゴールデンウィークで気が緩んでいたのもあり、目覚ましを無意識のまま止め、目覚めた時には日は高く昇っていました。

 1983年4月25日、国際協同計画で打ち上げられた赤外線天文観測衛星IRAS(アイラス)が発見した彗星が、5月4日に新潟の荒貴源一氏とイギリスのオールコック氏が発見した彗星と同じものであることがわり、IRAS・荒貴・オルコック彗星と呼ばれることになりました。

 明るく見えるとメディアは騒いだのですが、私が向日市から12×50mmの双眼鏡で観測した際は、あまりにも大きく拡散し、ボンヤリした本体から細めの尾が目立っていた程度でした。しかし、その移動の早さには驚かされました。数分で移動が視認できる超高速移動彗星だったのです。

 1986年のハレー彗星もメディアは大騒ぎでした。私は2年前、昭和59年の大雪の頃に結婚し、洛西に住んでいました。久しぶりにミザールHー100を持ち出し観測しました。長男がお腹にいた家内もアイピースをのぞき込んだのですが「これがハレー彗星?雲じゃないの?」と尋ねられる程度で、メディアが大騒ぎするほどのものではなかったのです。

 そこで、ハッキリとハレー彗星が見られるようにと、25cmの反射鏡と斜鏡を購入したのもこの頃です。しかしこの反射鏡と斜鏡は、半自作反射望遠鏡として日の目を見ることなく、未だに押し入れの段ボールの中に眠っています。

 ハレー彗星ほどの大彗星になると、専門家の「今回は大して明るくはならないですよ」の説明にも各メディアは大して耳を傾けず、ネームバリューだけが一人歩きし、便乗した新聞や雑誌もハレー彗星ブームを煽りました。

 この頃、京都市の空は明るすぎ、星の観測にはチョッと無理があるとの思いもあり、長男誕生も間近になった翌年3月、勤務していた電子部品メーカーを退職し、教員となって福知山へ戻りました。

 赴任した中学校の関係者で天文好きな複数の人と知り合いになりましたが、極めつきは、中学校の校長や児童科学館の館長を務められたK氏でした。星好きが高じて、京都府南部の光害から逃れ、舞鶴の郊外へ移り住んだだけではなく、自宅に26cm反射赤道儀を据え付けた天体観測所まで作ってしまった人です。

 勤務した中学校の校庭で星夜撮影や星を見る会を開催する有名な校長先生でもありましたが、御退職後、児童科学館館長として活躍しながら、福知山の地方紙「両丹日日新聞」に星空散歩を連載されるなど、尋常ならぬ星好きな方です。

 また舞鶴市の多祢寺には天文ガイドの天体機器製造販売広告もあるユーハンの舞鶴工場がありましたが、現在は営業休止中とのことです。

 その近くには舞鶴の天文好きの人たちが作った自作天体ドームもありましたが、今は、どうなっているのでしょうか。

 私がミードの10インチシュミットカセグレン望遠鏡を購入したのも、この頃です。集光力は別格でした。写真撮影には不向きな赤道儀で、いつかは堅牢な赤道儀に載せ替えたいとおもいつつ40年ちかくが経過し、補正硝子にはカビとは思えない結晶状の粒子がこびりついて、使い物にならなくなっています。

 1990年4月から1年間、私は某大学大型計算機センター(現在は情報メディアセンター)に居候(本当は国費で研究活動等を)させていただきました。中学校には3年間数学の教師として勤務しましたが、平成元年4月からは、高校の教師として勤務していました。そこでコンピュータ好きが高じた結果、このような機会を得ることができたのです。

 大型計算機センターで過ごした1年間は刺激的でした。スーパーコンピュータがあり、UNIXワークステーションがあり、メインフレームのネットワーク ビットネットがあり、インターネットの前身のJUNETがあり、TCP/IPの勉強会があり、古典的な電子計算機の書籍から最新のコンピュータサイエンスの情報誌までがありました。

 今では当然のようにハイパーテキストをWEB上で眺めていますが、UNIXマシン上で初めて見た実装ハイパーテキストは斬新で、フレンドリーでした。このフレンドリーさは、銀河鉄道のような分散型チームに向いていると直感的にイメージしたことを憶えています。

 1990年の何月であったか記憶は定かではありませんが、すでに理学博士となり、当時の国立高エネルギー物理学研究所に研究者として、あるいは大学院生の指導教員として勤務していた上原氏を訪ねました。

 上原氏は国立高エネルギー物理学研究所の「大穂」に籍があり、既に素粒子物理の専門家になっていました。地下何階であったか記憶にはありませんが、調整中であった加速器の一部と検出器の一部を見せてもらいました。

 年初の東証株価大暴落で、すでに景気後退は始まっていましたが、やはりバブル期に計画された研究所は別格の凄さでした。

 初日の夜に訪れた筑波学研都市の上原氏宅では、奥方がお産のために帰郷中でした。上原氏が準備してくれた鰹のたたきがビールに良く合い美味しかったことと「震度4程度の地震はしょっちゅうあるし、気にせんでも大丈夫」と言われたことを記憶しています。

 その、20年ほど後に東日本大震災が起こるなどとは夢にも思っていない筑波訪問でした。

 1990年と言えば思い出す歌があります。吉屋潤さんや菅原洋一さんが歌っていた「1990年」です。「1990年 娘は21 女の季節を 迎えているだろう 春が来て 恋を知り 夏が来て 血が騒ぎ  どんな男に どこで抱かれるやら どんな男に 命預けるやら 秋の夜 涙して 粉雪にうちふるえ 女の悲しみを はじめて知った時 私のすすめる お酒を飲むだろう  1990年 娘は21 女の季節を迎えているだろう しあわせになるんだよ しあわせな女に 母親を棄てても 父親を棄てても しあわせの旅を 続けていくんだよ」と、吉屋潤がパティ・キムとの愛娘を想って作った歌と言われています。その娘さんも今は53歳。私に娘はいませんが、子どもに「しあわせになるんだよ 母親を棄てても 父親を棄てても しあわせの旅を 続けていくんだよ」という思いは同じです。

 1991年4月に大型計算機センターから高校へ戻った私は、校内情報システム導入の担当をしていました。「集中から分散へ、分散から超分散へ」が、成長最盛期の独立系情報処理会社CSK(当時)のオーナー社長である大川氏の言葉ですが、時代を象徴する言葉として非常に印象深く記憶に残っています。メインフレームを中心とする集中処理から分散型処理へ、サーバとネットワークを使った超分散処理へと時代とともに推移するという意味です。

 当時の高校は、校外のネットに接続することに多くの規制があり、JUNETに接続するのはかなり困難な状況でしたが、多くの情報技術に関する新しい情報を入手するためには何としても接続したいという思いがあり、近い将来、TCP/IP上のメールサービス機能やサーバ機能、ハイパーテキスト、WWW等の技術が一気に広がる確信もあったため、当時の高校としては規格外の情報機器を導入しました。校内LANのバックボーンに100Mbps光ファイバ、支線には10BASE5のイエローケーブル、サーバとして11台のUNIXマシンも導入し、外部接続後の校内LANは整いました。校内でのUNIXマシン上で各種サーバの設定や、プロセス間通信、アクセス制限等の演習は、当時の高校生にも好評でした。これらは、当時の教育委員会の先進的な高校を作るという思いがあったからこそ実現できたことであると考えています。

 こんな校内LANを持ちながら、外部ネットワークとは接続することができず、まさに陸の孤島状態でしたが、何としてもJUNETに接続し、丹波の盆地で高校3年間を過ごす生徒に少しでも世界の香りだけでも届けたいという思いは強くありました。そんな思いを持ちながら、1993年10月全国の研究会で校内LAN導入の事例発表でTCP/IPやハイパーテキスト、各種サーバ設定等のネットワーク技術に携わる現場作業者が今後不足することは明白で、その教育が必要であり、学校にも何としても外部接続の導入を、と訴えました。発表後の参加者の反応は冷やかでした。特に他の電子回路技術の発表者や制御技術の発表者に比べると異端として見られているのがよくわかりました。「電子立国日本はハードが王道である。」という雰囲気の中での発表は、多少辛いものでもありました。

 しかし、発表後、一人の参加者が、一見すると柔道無差別級のチャンピオンのような、警察なら暴対所属のような…先生が近寄ってこられました。名刺交換をさせてもらうと、神奈川県立高校のM先生でした。現行犯逮捕されるのではないかと思わせるような迫力で、矢継ぎ早に質問を投げかけられました。どうやら、この先生もコンピュータネットワークが今後広く普及し、その技術が社会を変えて行くために、その準備が必要であると考えられているようでした。その場で、じっくりと話したかったのですが、生憎、直ぐに函館発の列車で帰らなければならず、名刺の交換だけで足早に函館を後にしました。

 暫くすると、M先生からデジタル通信回線を提供できるかも知れないという連絡が来ました。あるプロジェクトのスタート前年のことでした。このプロジェクトに参加し、当時としては高速の64kbpsデジタル回線を提供を受け、この回線を通じてインターネットに接続することができました。(このプロジェクト:「100校プロジェクト」では多くの人にも出会うことができました。慶應義塾大学の村井先生、シスコシステムズの桜井さん、当時の通産省の小林さん、雑誌や専門誌で見た人たちと出会うことができました。この人たちに共通していたのは一日を30時間くらいに濃密にして使っていることでした。私は逆に、昔も今も一日を半分程度にして無駄に使っています。)

 ちなみに、この前段階で、私が所属する高校はネットワークアドレスBクラスを取得していました(現在は返納しています)。その当時、Bクラスを持っていたのは府内では京都大学くらいでした。知る人が聞けば、何と無謀な、ということかも知れません。

 またまた大脱線したため、本線に戻ることにします。

 インターネット接続が可能となって間もなく、ビッグニュースが飛び込んできました。1994年 SL9彗星、つまりシューメーカー・レヴィ第9彗星が木星に衝突したのです。この衝突は中野主一郎氏が予測されていたことで有名です。また、この衝突時の画像を多くの人がインターネット経由で見ようとしたため、画像を提供していた京都大学のサーバがダウンしたことでも有名になりました。

 衝突痕は小望遠鏡でも見られました。黒っぽい衝突痕と見慣れた木星のコントラストは、多くの人に強い印象を与えたと思われます。こういう現象を見る度に、私たちが生きているのは奇跡に近いと感じざるを得ません。地球の海の平均深さを4000m、富士山より少し高い4000mを山の平均的なイメージとして、海面を挟んで上下8000mを私たちの生活を主に支えている空間と考えます。直径1mの地球を考えた場合、この上下8000mは、0.6mm程度の厚みしかないことがわかります。また、地球上の大都市が海抜0m付近に集中していることを考えても「よく滅びずに存続しているなあ」と考えざるを得ません。

 地球規模で考えると、ヒョッとして西暦2000年も、中国4000年の歴史も、ほんの一瞬の出来事であるがゆえに存続しているだけで、春の宵の夢の如し、なのかも知れません。

 この後、肉眼彗星が続きます。1996年の百武彗星、1997年のヘール・ボップ彗星です。この2彗星は家族で見ました。私には過去にない見やすい彗星でしたが、家族にはぼんやりとした印象しか与えませんでした。

 私の家族は、上原氏の家族とともに綾部市上杉の体育館前でペルセウス座流星群を何度が眺めていました。それで、彗星もコントラスト良く見えるのではという期待が、私の家族には、あったのかも知れません。この流星観望には、森京さんと息子さん、魚屋さんの中井さん夫婦などの参加もありました。中久保真理さんも子どもさんと参加しようとしてもらったようですが、場所を連絡しておらず、参加はかないませんでした。

 そんなことをしているうちに、「1999年7の月」に恐怖の大王の登場もなく、いよいよ世紀末を迎えました。西暦2000年は、400年に1回しかない。特別な閏年でした。

 地球の公転周期について、1太陽年(太陽が春分点から春分点まで一巡りする時間)が365.2422日で、1恒星年が365.25636日なので…なんて説明すると、読む人が嫌になるのではと思うので、早い話が、太陽の周りを1周する時間は、365日0時間0分0秒ジャストではなく、閏年として4年に1回2月を29日に増やし、100年に1回末尾に00となる閏年の2月を28日に、さらに400年に1回つまり1600年、2000年、2400年の2月は29日とする、なんてことをしながら微調整しているわけです。

 つまり西暦2000年は、400年に1回しかない珍しい閏年でした。その前は「天下分け目の関ヶ原」の西暦1600年ですので、大変珍しい年であったのですが、世間では何のブームも騒ぎも起きませんでした。残念!

 20世紀から21世紀に世紀をまたいでも特に大きな変化はなかったのですが、この年、天体観望を初めてから、過去最大の現象に遭遇します。2001年しし座流星群です。

 この流星群は、母彗星であるテンペル・タットル彗星から放出された塵が公転中もあまり拡散せず、彗星の軌道を中心に一定の範囲に集中していると考えられており、その位置を計算したイギリスのデイヴィッド・アッシャー氏は、流星群が出現する時刻と規模を正確に予測することに世界で初めて成功したと言われています。アッシャー氏は惑星の重力の影響や塵が太陽光から受ける圧力も考慮して、1998年以降のしし座流星群の出現を予測、高い精度で極大時刻を的中させました。特に、この2001年の大出現では、最大出現時刻の誤差はわずか5分程度であったと言われています。

 私はつくばにいる上原氏と携帯電話で連絡を取りながら、舞鶴自動車道の福知山−丹南篠山口を南下、北上しながら観望しました。それは、 銀河鉄道WWW版第9号「2001年レオニズ・ドタバタ記」で御覧いただければ幸いです。

 過去の獅子座流星群大出現は、33年に1度ということになっており、現在は2001年から21年を経過した2022年です。33年の2/3が経過し、私も観測時の44歳から65歳となりました。後11年、なんとか誤魔化しながら77歳まで頑張って、2034年、獅子座流星群大出現を、もう一度観望したいと考えている。(ヒョッとすると大出現は数年ズレるかも。アッシャーさん、その系譜を継いで大出現を予測できる人たち、たのんまっせ!)


 【40周年から50周年へ】

 2012年5月21日の日食は金環日食で、食の始まりは、5月21日東京出張へ出かける朝でした。金環日食は予定通りの時刻に起こりました。自宅を出発する際に天文ガイド付録のサングラスを持ち、列車内からも移動しながら観望しました。最大食分時には、快晴であるにもかかわらず薄暗くなりました。金環食は大きな部分日食です。これが皆既日食なら、鳥や動物の鳴き声、明確な気温低下が体験できたろうにと思うと、やはり一生に一度は皆既日食の皆既帯に入って、地上の状況も含めて観望したいと思っています。

 その後、2週間ほどして6月6日は金星の日面通過を観望しました。これも天文ガイドの付録が活躍しましたが、太陽面を小黒点が淡々と進むという感じで、巨大黒点やSL9のジュピターインパクトのような一大現象ではありませんでした。

 この10年間は、世紀の天文現象のような大注目を浴びる現象は記憶にありません。どちらかというと、地球上の地震や豪雨、干魃、竜巻などの被害が目立つ10年であったようにも思います。

 この10年間は、天文関係でいえば、物理分野で多くの発見や発表がありましたが、観測機材や撮影機材の大変革期でもあったように思います。

 まず、カメラのデジタル化が一気に進みました。今までの天体撮影のカメラと言えば特別な仕様で、マニア以外には使われなかったのですが、一般のデジタル一眼カメラが、天体写真撮影に用いられるようになってきたことです。

 さらにミラーレスカメラの登場により、他社のレンズを使用して撮影するバリエーションが増えたことも、今後、特別な組み合わせから特長を見つける人が出てきて、活用バリエーションが増えてくると想像します。NikonのボディーにCanonのレンズを使う、なんてことが至極普通にできてしまっています。

 また、専用カメラも、ZWO社ASIシリーズなどの登場で、電視観望などの新たな分野が誕生してきています。

 ソフトウェアも大きな影響を与えるようになっています。Auto Stacker、Registax、Sequator などは、天体写真には欠かせないツールとなっています。

 欠かせないツールといえば、一時期の Vixen STARBOOK TEN でしが、いよいよ、これらのコントローラもスマートフォンやタブレットに取って代わられようとしています。

 この10年間は、デジタル化が一気に進んだ10年でした。

 この10年間で、私たちの私生活にも大きな変化が起きています。現職からのリタイアと高齢者の年齢域に突入したことです。子育ても終えて、悠々自適の生活を送れるのかと思いきや、実情は全然違っています。

 最近の同世代の者どうしの話題は、自分の病気、年金、親の介護や葬儀、田舎に残った土地家屋です。

 私が死ぬまでに見たいと考えている自然現象が3つあることは前にも述べましたが、ひとつは先に書いた流星雨です。これは2001年に実体験しました。残りのふたつは皆既日食帯での日食観望とオーロラ観望です。

 オーロラは、今のところマネーと時間が準備でき、タイミング良く北欧などへ行けば観望が可能であると考えています。

 しかしマネーも時間も(高額の宝くじにでも当たれば別ですが)、今の私にはありません。また皆既日食観望も、そう簡単にできそうにはありません。

 この先、何年天体観望を続けることができるのか、神に尋ねたいところではありますが、神は誰にも教えないようです。

 自然が定めたことには、神も答えられないのかも知れないのですが、いくら権力を握ろうが、お金を使おうが、意のままにならない天体現象を、可能な限り1回でも多く観望し続けたいと願っています。


                              2022年師走


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