編集後記

                        発刊部・上原 貞治
 
 今号は、西中筋天文同好会会誌「銀河鉄道」創刊50周年記念号として刊行されました。当会と当会誌を長年支援して下さったすべての方々に深く感謝いたします。50年続くというのは、惰性や生半可な努力でできることではなく、運だけでできるものでもなく、50年間関わってくださったすべての人々の努力と英知によるものと思います。
 その上で、今号に投稿してくださった皆様、そして、特に、先日発行した「フォトアルバム」「スナップショット集」の作成にご尽力くださいました、田中さん、福井さんに深く感謝いたします。
 
 今年はお盆の時期に帰省しましたので、ペルセウス座流星群を8月13日の早朝に観音寺の自宅で見ました。まずまずの好天でしたが、満月で20分間でたった1個しか見られませんでした。しかし、これは、あの石原高グラウンドで見たペルセウス座流星群から50年経った51回目の夏の流星群でした。流れ星を50年隔てて同じ気持ちで眺めることによって、私はこの50周年を体感することができました。流星については、関連してほかにも書きたいことがありますが、それは、次号に向けてもう少し考えたいと思います。
 
 ということで、次号(WWW版第70号)も「創刊50周年記念号」(II)とさせていただきますので、今号に書けなかった記事などあれば、よろしくお願い申し上げます。
 
 さて、後半は、話変わって、久しぶりに、私が今楽しんで観ているNHKの大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に関係する話を書きます。前回、書いたのは、福知山に関わる武将、明智光秀を描いた『麒麟がくる』に関する暦の話だったと思います。『鎌倉殿の13人』の歴史物語の最大のソースは、北条氏から見た鎌倉幕府を描いた『吾妻鏡』という文献だそうです。私は、それを歴史文献として読んだことがないので、詳しいことはわかりませんが、その関連で丹波地方に関することは、以仁王の挙兵くらいではないかと思います。以仁王は正史では挙兵後まもなく木津方面で討ち死したことになっていますが、何鹿郡の地方文献では、生存して綾部市高倉まで来たとされています。源氏の平家討伐自体、以仁王の令旨を根拠にしていて、当時から以仁王生存説が利用されたでしょうから、史実でなくても歴史を動かした価値があることになるでしょう。
 さて、私が注目しているのは、『吾妻鏡』の天文記録です。同文献は、東国の北条氏主体の歴史記録であるにも関わらず、天文記録が秀逸で、特に、彗星や新星の記録では、京都の貴族の記録をしのぐものがあるようです。例えば、新星では、藤原定家の『明月記』が有名ですが、(定家も、平安時代ではなく、おもに源頼家・実朝の時代に活躍した人です)それを凌ぐ記述もあります。普通に考えれば、京都の公家の日記の支援を得たのでしょうが、北条氏はやがて朝廷を圧迫・対立することになるので、どこまでの協力が得られたかは不透明です。逆に、京都が嫌になって鎌倉に協力する公家の助けも考えられます。天文記録の詳細も、歴史の勢力のバランスの研究に役立つのかもしれません。残念ながら、現時点では、これ以上のコメントはできませんが、日本史の主要な文献の天文記録の質の研究が政治史文献の上でも有用ではないかということを指摘(しておいたということに)したいと思います。
 


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