スプートニクに始まる(第6回=最終回)
 
上原 貞治
 
余録B:映像フリーク
 大正寺代から現代まで100年以上に渡って変わらない趣味がある。「動画マニア」である。動画マニアというと、今ではアニメファンを指すかもしれないので、「映像フリーク」と呼ぶのがよいかもしれない。ようするに、映画やテレビの映像のファンのことである。もちろん、今ならDVDもYouTubeもその範囲である。
 稲垣足穂は、大正期に少年であったが、映像フリークであった。彼が特に執着したのは、飛行機の動きの「質感」を再現する映像であった。彼は、飛行機の実演のニュース映像などで、今日の我々が宮崎アニメで感じるような浮遊感を感じることに執着した。彼がその感覚を記憶に留め忘れないようにするためには映像が必要であった。しかし、彼は玩具の映写機は持っていたものの、飛行機の動きを記録したフィルムを持たなかった。彼は、身体から離れて行く感覚の記憶を留めるあせりを常に訴えていたが、その時代にはそれはどうしようもないことだった。
 20世紀の後半、宇宙開発の時代にテレビというものが登場した。子どもたちは、それを一日に何時間も見ていた。しかし、ロケットの打ち上げが好きな子どもたちが好きなだけその映像を見られたかというとそんなことはなかった。生中継が組まれなければ、打ち上げのあった日でも、ニュースで2、3度、それぞれ数秒間見ることができるだけであった。中継は再放送はなかったし、ビデオレコーダーもレンタルビデオもなかった。記録をしたければ、映像はテレビのブラウン管のスチール写真を撮るしか無く、ただ音声のみをテープレコーダーで録音したのである。だから、ロケット打ち上げの「質感」は、足穂の時代同様、記憶に頼るしかなかった。
 少年期の憧れは、誰においても掴みどころなく消えていく。足穂も我々も、映像の記録が人の感覚を留める最良の手段であることは知っていたが、個人の力ではどうしようもなかった。現在、ネット上で動画を検索すれば、当時の映像はいくらでも繰り返し見ることができるが、それは今の我々にとって恨みでしかない。
 
12. 墜ちゆく日々
ソ連の宇宙ステーション計画が1971年6月ソユーズ11号死亡事故で頓挫し、1972年末にアメリカのアポロ計画が終了した状況で1973年が明けた。この年の4月、ソ連は宇宙ステーション・サリュート2号を打ち上げたが、何らかの不具合が機体に生じたらしく、有人での運用はされなかった。次は、アメリカのスカイラブ計画であった。スカイラブでは、まず、無人の宇宙ステーション・スカイラブ1号をサターンV型ロケットで打ち上げる。これは、アポロ月着陸用に用意されたロケットを利用するものであるが、その3段目が月に向かうロケットエンジンではなく、有人宇宙実験室に置き換えられたものである。これが地球軌道を周回するところまでは、アポロ月計画と同じ手順である。その後、3回に渡って別途打ち上げる有人アポロ宇宙船をスカイラブ1号とドッキングさせる。ドッキング口は1つしかないので、独立した飛行が3回である。これらのアポロ宇宙船は、多少小ぶりのサターンIB型によって打ち上げられる。
 1973年5月14日、スカイラブ1号の打ち上げが行われた。私は、これがこのサターンV型ロケットの最後の打ち上げであることを知っていた。アメリカの宇宙開発は店終いの時期に入っていた。もう私はアメリカに多くを期待してはいなかった。永遠に月着陸を続けてくれると考えていた期待はすでに裏切られていた。
 そのスカイラブも幸先の良いスタートではなかった。太陽電池パネルの2枚のうちの1枚が開かず、保護シールドの一部が失われたのである。その後の修理により、スカイラブ1号は息を吹き返したが、太陽パネルは片肺のみでブルーシートよろしく遮光シートで応急処置された姿で運用されることになった。
 基本的には、サリュートの二番煎じである。いろいろと船内の様子は報道されたが、技術的に画期的なことは特になく、強いて言えば、宇宙で運動することによって筋力や心肺機能がある程度維持できること、最終的に、84日間まで人間が宇宙に居住できることが証明できたことが成果である。これらは、人間の将来の宇宙移住に青信号を灯すものであった。そのほか、科学観測としても特筆すべきことは無かったが、宇宙から、コホーテク彗星が観測されたことだけを挙げておこう。船内で行われた科学実験も人目を引くようなものは特になかった。地上でやった実験を宇宙でやっただけのことである。スカイラブは、1974年2月に有人ミッションを終了した。
 さらに将来のアメリカの有人宇宙計画はすでに公表されていたが、それは、1978年からのスペースシャトル計画のみであった。これは、再利用可能な有翼型の宇宙船で、地球の周りをぐるぐると回るというものである。これは、まったくつまらない計画であった。「ロケット」ですらない。打ち上げエンジンはロケットかもしれないが、その美的特性を備えていないものである。再利用というのも野暮ったい話である。まったく論外の代物であった。目的もはっきりしなかった。当初は、宇宙ステーションの建設ではなく、人工衛星の輸送と簡単な宇宙実験が主目的に挙げられていた。人工衛星は従来型のロケットで打ち上げれば済む話だし、スカイラブでぱっとしなかった宇宙実験に期待するだけの魅力は感じられなかった。
 ただ、そのスペースシャトルに至る前の1975年に、ただ1度だけ、米ソ共同飛行計画というのがセットされた。それは、当時の冷戦の終結の象徴として、アポロとソユーズをドッキングさせるものである。これは、政治的にはもちろん、技術的にも興味を持てるものであった。また、これはアポロ宇宙船の最後の飛行になるだろう。
 いずれにしても、血湧き肉躍るアメリカの有人宇宙飛行計画は、この時点で終わりを告げていた。私は、ソ連の秘密主義に期待を転換することになった。ソ連は、幸か不幸か事前に計画を教えてくれない。それで、なにかがつーんと大きいこと、思いも寄らないことをやってくれる可能性がある。そのいくつかの兆候はあった。
 まず、1971年、まだアポロが月に飛んでいた頃に、ソ連の大型ロケット実験のニュースがあった。これは、極秘裏に行われたソ連の大型ロケット(今日、N1と呼ばれているもの)の打ち上げ実験の失敗のニュースであった。そのロケットはサターンV型と同等の大きさがあり、月に人間を送り込むためのロケットであるというのだ。これは、ソ連に有人月飛行計画がないというソ連の発表と矛盾するものではあったが、ソ連とて未来永劫にわたって月飛行をしないと断言したわけではないので、将来ある時点で月飛行をする期待は持てた。また、ソ連が1970年代に火星有人飛行を目指すというウワサもあった。それには、当然ながら、サターンV型を上回る大型ロケットが必要であることが予想された。さらなる状況証拠として、ソ連は、無人の月探査計画ルナ計画において、月周回軌道、サンプルリターン、月面車のバリエーションで探査を繰り返していた。アポロ計画が終わった後もこれが繰り返されているということは、ソ連の月への執着を感じさせた。しかし、特筆すべきことはなにも起こらなかった。私は、ソ連が何か新しいアイデアを見せてくれることを日々心待ちにしていた。しかし、何ごとも起こらなかった。
 実をいうと、この間、惑星探査は大いに進歩した。アメリカの木星探査機パイオニア10号、11号が打ち上げられ、1973年に初めて木星が探査された。1970年にソ連の金星(ベネラ)7号が、1972年には金星8号が灼熱の金星の大地に軟着陸した。これらの探査機は貴重な科学観測データを送ってきた。これは、天文ファン、惑星ファンの私をおおいに満足させてくれるものであった。しかし、それらは、私の熱情が宇宙開発に求めているものとはかなり違った。惑星探査は、冥王星まで惑星がある以上(当時の定義で)、当面は終わることはないであろう。しかし、従来の意味でのアメリカの宇宙開発は、スカイラブで終わりだったのである。
 1974年になって、ソ連の新しいサリュート、3号と4号が打ち上げられ、宇宙飛行士が移乗した。しかし、スカイラブと比べて新しいことは何も伝えられなかった。残るのは、1975年7月にセットされた米ソ共同飛行だけであった。
 
13. 永遠の別れ
1975年7月の米ソ共同飛行は、最後の幕引きの儀式であった。これは、宇宙開発に熱狂した私にとって主観的にそうであっただけでなく、客観的にも、冷戦時代の象徴としての宇宙開発競争という歴史の一幕にとって必然的な終幕であった。対立する2大超大国のドッキングというそれまでには想像もできなかったような終幕が用意されたのである。それは控えめに言っても、儀式として最高の意義のあることであったが、私にとっては、アメリカもソ連も本質的な宇宙開発で私の期待100%裏切ったその幕引きの意味合いにもなった。
 アポロとソユーズは別々に開発された宇宙船であり、当時ソユーズの構造はソ連の機密であった。だから、直接ドッキングさせることは出来ない。それで、ソ連側がソユーズの鼻先につける「ドッキング室」を提供することにした。そして、そのドッキング室とアポロをドッキングさせる部分のアダプター構造の情報がアメリカからソ連に伝えられた。この技術は、将来、米ソが共同で宇宙ステーションを作ったり、救助船を用意する時に役に立つだろうと言われたが、そのような計画は当時はまったくなかった。また、当時、特にそのような計画を望んでいる者がいたわけでもなかったであろう。あまり意味のある技術とは思えなかった。
 しかしながら、冷戦時代の恐ろしさというのは、当時を体験している人でないとわかるまい。いつソ連から核ミサイルが飛んで来ないとも限らない状態なのである。それは、今日言われる北朝鮮や中国の脅威というのとは比較にならなかった。その点で、目に見える形での冷戦の緩和は世界の人々にとって大歓迎であった。
 米ソ共同飛行は、粛々と実施された。ソ連はまずカザフスタンの秘密基地からドッキング室付きのソユーズを先に打ち上げた。この共同計画は、アメリカ側とソ連側がつかず離れずの協力なのである。おそらく、手の内としては最低限の情報交換しかなされなかったであろう。ただ、ドッキングする、飛行士がお互いの宇宙船を訪問しあい握手をする、それだけのスケジュールに加え、科学観測と言えるかどうかはわからないが、人工日食実験というのが組まれた。次に、アポロ宇宙船が打ち上げられ、滞りなく、ドッキングが行われた。宇宙飛行士の移乗と握手も予定通りの儀式であった。国は違っても宇宙飛行士同士は同業者の仲間である。悪い印象はなかった。儀式は淡々と終わり、最後に、ドッキングを解いた後の共同科学観測として、アポロ宇宙船を使った人工日食の観測がソユーズから行われた。 これらは、筋書き通り、何ごともなく終わった。1975年7月25日、最後のアポロ宇宙船の帰還が、私にとっての宇宙開発との永遠の別れであった。最後にこのような舞台が用意されたことは、私にとってこれ以上ない幸運であった。
 
 本連載の最後に来て、ここでまた稲垣足穂を引用したい。『ライト兄弟に始まる』の本文は、武石浩玻の事故の考証で終わっているので、別の作品に依ることにする。「飛行機の黄昏1・2」によると、足穂にとって、第1次世界大戦以降、飛行機は「面白くも何ともない」ものになったという。それは、戦争というろくでもない実用に使われたということもあるが、その直接の理由はその形状のポリシーにあった。彼にとって飛行機は「空気を耕すスキ(鋤)」でなくてはならず、空気に穴を開けて突き抜けていく「矢」ではならないのである。飛行機はスピードを求めるあまりそのデザインがすべて矢に収斂してしまった。これが足穂にとって後戻りできない飛行機の終わりであった。足穂は、「飛行者の倫理」で、第1次世界大戦後のエアロノート(航空学)は、「夢と精神性を見失い、ひたすらに破局への漸近線上を驀進する一介の機械に成り下がってしまったようだ」と書いた。
 私にとって、スペースシャトルが「面白くも何ともない」ことはいみじくも足穂と同じ事情の裏返しであった。ロケットは、空気を突き抜けていく矢でないといけない。日本のラムダロケットのように、突き抜ける力が弱いために空気に翻弄されるのはかまわない。しかし、スペースシャトルのように翼で空気をあしらうようになってはもうロケットとは言えない。そして、その後は、新型の使い捨てロケットさえ、アメリカのタイタンIII 日本の NII、HI、ヨーロッパのアリアン4、中国の長征3号、どれも似たような形に収斂していったではないか! こうして、宇宙開発を率いてきたロケットの精神的な時代は1975年をもって完全に終わり、あとは一介の機械の時代となったのである。
 足穂の時代(1900〜1920年代)、そして我々の時代(1950〜1970年代)に、飛翔体は、従来の人間の殻を打ち破る時代の精神文化となった。それは、人間社会、政治、環境などの背景を凌駕して、人間の精神にダイレクトに働きかける現象であった。そういうことが20世紀に2回起こった。そして、いずれも、技術の進歩と社会の要請によって、人々の心を満たし尽くさぬまま、足早に去って行ってしまった。我々は、このような現象の3回目が人類の歴史において起こるのか起こらないのか、現時点ではまったく知らない。
 
余録C:エピローグ
 以上で、6回に渡って連載した私の本編は終わりである。これで宇宙開発が本当に終わりだったのか、その後も宇宙開発は続いたのだろう、という疑問を呈する方がおられるかもしれないので、もう少しだけ続きを書いておく。私が熱狂した宇宙開発は、確かに1975年7月で終わった。そのあとも、 惑星探査や彗星探査では瞠目すべきものはあったが、それについては、何度も書いたように、別種の科学的な感動であったので、ここには書かない。
 その後、有人飛行で特筆すべきは、1977年に打ち上げられたサリュート6号であった。これは2つのドッキング口を持っていたので、ソユーズ1機をドッキングさせたまま無人の物資補給船プログレスをつかって長期滞在の支援をしたり、長期滞在クルーの滞在期間に短期クルーの派遣をすることもできるようになった。これによって、半年間にわたる宇宙滞在が可能になった。ドッキング口が複数あれば、人間が安定的に宇宙で生活できるようになるというのは画期的な知識であった。また、ソユーズを2機ドッキングさせることによって長期滞在クルーの交替や引き継ぎも可能になった。宇宙飛行を日常茶飯事にしたのは、スペースシャトルではなく、サリュート6号とプログレス補給船である。3年遅れて1981年に初飛行をしたスペースシャトルは、連続して2週間しか滞在できず、そのつど帰還を余儀なくされるために、初めから輸送機以外の意義を失っていた。
 この複数ドッキング口は、その後、ミールと国際宇宙ステーションISSに引き継がれた。ドッキング口が複数あれば、レゴブロックのように宇宙空間で構造物の連結に無限のバリエーションと拡張が保証される。これが、1976年以降に私を感激させてくれた唯一のアイデアであった。幸いにも、輸送機スペースシャトルには、ISSの部品を宇宙に運ぶという利用価値を見いだすことが出来た。
 この後日談も1980年代前半で打ち切るのが適切であろう。それから後の宇宙開発は、それ以前のものとまったく別物である。現在も遺産は引き継がれているように見えるかもも知れないが、宇宙開発の精神性が失われている以上、技術としての遺産を食い潰しているだけである。
                               (完)
                            



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