スプートニクに始まる(第5回)
 
                  上原 貞治
 
9.ソ連の挫折と逆襲 I
 ここで、時計の針を、私がリアルタイムのニュースとして宇宙開発に初めて触れた頃に巻き戻す。それは、第2節に述べたように、アメリカのジェミニ計画によるランデブーとドッキング(1965、1966年)であり、ソ連のガガーリンの飛行機訓練中の事故死(1968年3月)であった。これらはいずれも私が「時事ニュース」として触れたものである。ソ連の宇宙開発に「科学技術ニュース」として触れたのは、アメリカのアポロ8号の月往復飛行の直後の、ソユーズ4号と5号の共同飛行で、それは1969年1月のことになる。
 当時は宇宙飛行の技術については何も知らなかったので、ソユーズ4号、5号の新聞記事を読んでも何が行われたのかぜんぜん理解できなかった。当時の私は、ただの「天文ファン」だったのである。アポロ8号の月面中継の意義は良く理解できたが、ソユーズの地球軌道上での共同飛行は意味も意義も理解できず、地味で不気味なものとしか思えなかった。当時のソ連は何ごとも秘密主義で進めていたので、新しい計画はすべて不気味である。ただ、ソ連が世界初の人工衛星と人類初の宇宙飛行(ガガーリン)に成功していたことは知識として知っていたので、ネガティブな感情は持っていなかった。
 後の知識で、この時、ソユーズ4号、5号は、世界初の有人宇宙船同士のドッキングに成功し、宇宙遊泳で船外から飛行士の移乗が行われていたことを知った。しかし、その時は、それが理解できなかったし、ドッキング自体はすでにアメリカがジェミニ8号で成功していた(ジェミニのドッキングは、有人宇宙船と無人の衛星)ので、それほど大々的に報道されなかったように思う。世間の関心はすでに1969年中に実現するであろうアポロの月着陸に移っていた。そこでは、アポロ宇宙船(司令船)と月着陸船のドッキングが行われ飛行士が(船内のドッキング口を通じて)移乗するのは既定路線だし、船外活動として当然、月面を歩くのである。この時期は、ソ連の宇宙開発にほとんど関心が払われない期間であった。
 次にソ連の宇宙開発で注目されたのは、アポロ11号の打ち上げの3日前に打ち上げられ、1969年7月17日、すなわち、アポロが月が向かっている最中に月周回軌道に到達した無人の月探査機ルナ15号であった。この頃は、私はすでに宇宙開発技術に通じていたので、ことの重大性を理解した。このルナ15号は何をしようとしているのか、何らかの方法でアポロ11号の計画に干渉しようとしていることは間違いないのである。なんせ、3日前の打ち上げだ。まさか、アポロの月着陸を物理的に妨害するのではあるまいな、などといろいろ考えたものであった。しかしルナは無人でアポロよりずっと小さい物だろうから、邪魔はできないだろうと思ったりもした。(実はこれは見当違いで、ルナ15号は5.7トンの質量があり、アポロ月着陸船の上昇段よりも重かった) 実際には何ごとも起こらず、アポロ11号の月着陸は成功し、ルナ15号はその数時間前に月面に「到達」したことを知らされたものの、その成果は何も伝えられなかったので、着陸に失敗したのであろうことは容易に理解できた。それによって、ルナ15号の目的はわからずじまいとなった。
 ソ連は、アポロの月着陸成功を徹底的に無視した。ソ連国内のニュースも国外向けのニュースもアポロ月着陸に触れなていないという。よほど悔しかったのだろう、その気持ちは小学生の私にも同情的に理解できた。その3か月後の10月、ソユーズ6号、7号、8号の「共同飛行」が行われた。3機とも有人である。しかし、ドッキングも何もせず、互いに接近して、地球をぐるぐる回っただけである。何という無意味な飛行だろうか。アポロに負けたソ連は、ついに気がふれてしまったのか。不気味に思うのと気の毒に思うのが半々であった。もちろん、これはドッキングの予定があったのを中止したもので、その見方もリアルタイムで推定できたが、そもそもアポロ11号があれだけ複雑なドッキング手順をこなして月面から無事に帰還しているのに、ドッキングにしてもいまさら3機も有人船を飛ばして何をしようとしているのか、無駄なことをしていると思った。
 
10. ソ連の挫折と逆襲 II
 いずれにしても、ソ連の挫折が大きいことは疑いのないことである。しかし、1970年に入り、アポロ13号の失敗で風向きが変わってきた。大事なことなので繰り返しておくが、アポロ13号の史実は月着陸の失敗である。「奇跡の帰還」は後世の美化ストーリーである(このストーリーはノンフィクションではあるが、美談として捕らえるのはフィクションである)。ここで、ソ連は息を吹き返した。
 アメリカの月着陸が中断していた頃、日本では、大阪万博が開かれていて、アメリカ館では月の石が博覧会一番の人気を博していた。そして、その万博が閉幕した1970年9月、ソ連の無人月探査船ルナ16号が月の石(砂?)を持って地球に帰還した。これによって、1年前のルナ15号の目的が明らかになるとともに、人がいなくても機械が月から石を持ち帰ってくるソ連の超絶技術に感嘆した。その2か月後の11月には、ルナ17号が、初めての無人月面車「ルノホート」を月面に走らせた。ここまでいくと、私の想像を超えていて、(当時は、無人操縦というのは地上でも子どものおもちゃとしての実用性しかないと思っていたので)その意義の理解には及ばなかった。とにかく、アポロ13号の宇宙飛行士が危険を冒して月まで行き、着陸もできずに命からがら帰還したことを思い合わせると、科学技術としてどちらに価値があるか怪しくなってきた。ソ連は、「ソ連には有人の月探査計画は初めから存在しない。それは無人で達成可能である」と(虚偽の)主張をしていた。この主張は外見上は正しかったし、私はそれを信じた。アメリカの有人探査に意義があることは間違いないが、科学探査としてはソ連の主張も正しいものであった。
 ソユーズの有人宇宙船計画のほうも風向きが変わってきた。それは、1970年6月のソユーズ9号の飛行で明らかになった。ソユーズ9号は単独の飛行でドッキングも何もしなかったが、宇宙に18日間滞在し、その間の宇宙での飛行士の生活や健康状況について報道が続けられた。この18日間は、10日間前後だったアポロの月旅行よりもずっと長いもので、ここで、ソ連の中心テーマが、宇宙での何らかの長期滞在、つまり宇宙居住を目指すものであることが明らかに推測された。私にとって、これが面白いことかどうかは別にして、これは将来の人類の宇宙時代のためには必要な手順の第一歩であることを理解した。
 1971年4月、人類初の宇宙ステーション「サリュート」が無人で打ち上げられた。そもそも「宇宙ステーション」とは何か。その頃の子どもたちには、リング状の居住空間のある大型宇宙船で、人形劇のサンダーバード5号のようなものが宇宙ステーションであると理解していた。ところが世界初の宇宙ステーションは円筒形でしかも無人で打ち上げられた。その頃は、まだアメリカの「スカイラブ計画」の詳細は発表されていなかったと思う。私は、一瞬混乱したが、無人で打ち上げられた大型の宇宙船に、後から人が乗り移るのが「宇宙ステーション」であると理解した。恒久的設備として、入れ替わり立ち替わり訪問する飛行士を受け入れるためには、その機能が必要であるからこれは正しかろう。
 その後、少し遅れて、有人のソユーズ10号が打ち上げられ、サリュートに接近したが、ドッキングに成功したというはっきりとした報道はなく、サリュートへの移乗は行われなかった。詳細はわからなかったが、何らかの失敗があったらしく、最悪は、サリュートのドッキング装置あるいは居住機能に問題が生じたことも心配された。結局、ソユーズ10号はドッキングできたのかどうかもわからないまま地上に帰還した。我々はサリュートの状態を危ぶむことになった。
 今から歴史的に考えると、ソ連は、この時点までドッキング装置を人が通り抜ける移乗は未体験であった。ソユーズ4号、5号の時は宇宙遊泳で移乗している。実は、ソユーズは9号から改造がなされ、ドッキング口からの移乗が可能になったのである(これは後の知識)。また、このことは、ソユーズ4号5号(および6〜8号)で、ドッキングの「予備」実験が行われたことの説明になるように理解できる。
 そして、2か月後の1971年6月、3人の宇宙飛行士を乗せたソユーズ11号が打ち上げられた。ソユーズ11号はサリュートにドッキングした。これによって、サリュートの機能が失われていないことが全世界に明らかになった。
 
11. 終局への始まり
 稲垣足穂は、『ライト兄弟に始まる』を含めとする数多くの作品に、「武石浩玻死亡事故」について繰り返し書いている。 武石浩玻(たけいしこうは)は、民間人飛行家で、1910〜12年にアメリカで飛行機操縦を習得し、1913年4月に帰国。同年5月4日に、大阪−京都間の飛行で、京都の深草練兵場に衆人の見つめる中、着陸に失敗し、打撲によって絶命した。これは、日本における日本人民間人の初の飛行であり、また初の飛行機事故死となった。稲垣足穂の生涯においてこれは間違いなく最大の事件であり、以後の彼の人生を決定づけた事件であった。この時、足穂は12歳で、高等小学校1年生であった。彼が感じたこと、その事件が彼に残したことは、『ヰタ・マキニカリス』収録の「白鳩の記」を読むと痛いほど心に伝わってくる。足穂は、武石の最期となった京都までの飛行は見に行っていないが、翌日に行われるはずだった神戸への飛行を見に行く予定であった。
 1971年6月、当時13歳だった私にも衝撃的な事件が起こった。この事件は、私のその後の一生を決定づけたという程ではなかったが、当時の私の宇宙開発への熱狂に大きく影を差すことになった。人類の進歩の歴史が、個々人の人生を一顧だにしないことは昔からわかっていたことだったかもしれないが、今回の人の死は、足穂に対する武石の死と同様、私にとって、そして我々の時代にとって、まったく新しい形態の事象であるように思われた。
 1971年6月7日、ソユーズ11号はすんなりとサリュートとドッキングし、3人の宇宙飛行士は、ただちにサリュート内部に移乗した。これによって、「人類初の宇宙ステーション」が達成された。その後の報道によると、計画は順調に進んでいるようで、宇宙での生活について、時々ニュースで報道がなされた。このサリュートでの宇宙滞在は、これまでの宇宙飛行とはまったく性格が違うものであった。アポロやそれ以前の宇宙飛行は、どこどこへ行くとか何々をするとかの目的があった。今回は、宇宙に滞在すること自体が目的である。ソユーズ9号もそうだったかもしれないが、その時は、飛行中はそれがわからなかった。今回は、サリュート内部に滞在して、詳細は不明ながら、理工学や医学の実験をし、身体を無重力に慣らすという目的がはっきりしている。それには、たっぷりと時間を費やすことができるだろう。そして、おそらくは、ソユーズ9号の滞在記録18日を更新して、20〜30日程度の滞在で帰ってくることも予想された。私に印象的だったのは、3人の宇宙飛行士が、「ドブロボルスキー船長」、「ボルコフ技師(あるいは機関士)」、「パツァーエフ医師」と呼ばれていたことである。アメリカの宇宙飛行士の場合はこれとは違っていて、船長以外は「飛行士」であった。船長と技師(機関士)は、いわば飛行機でいう機長と副操縦士に当たるものであるが、医師は断固として医師で、決して飛行士とは呼ばれなかった。実際は、医学の心得のある宇宙飛行士であり技師だったのだろうが、医者を乗せているというソ連の宇宙開発に向けた意志を世界にアピールするものであったのだろう。
 ソユーズ11号のクルーのサリュート滞在は、順調に日程をこなしているかに見えたが、見ている我々からしてもただ退屈に日を潰しているというわけではなかった。当時は、まだ、人間の身体が長期間、宇宙空間に耐えられるか自明ではなかったのである。18日以上は保障外であった。無重力状態が続くと心身に異常を来す可能性は否定できなかった。運動不足で筋力が衰えるのは当然だが、それは努力で回復できるとして、それ以外に、骨や血液や脳を病むようなことがあってはたいへんである。もし、そうだとすると、宇宙に長期滞在して、実験をしたり火星に行くことは永久に無理だということになる。宇宙への長期滞在は、人類の未来の可能性に向けた壮大な実験の第一歩であった。サリュートはソユーズなど従来の宇宙船よりはるかに居住空間が広いので、生活の不便ということはまったく心配しなかったが、宇宙飛行士たちが地球に帰還した時まで健康でいられるかどうかが心配であった。
 やがて、ソユーズ9号の滞在記録を更新し、その後何日かたった日、突然、ラジオニュースでソユーズ11号の帰還が報道された。しかし、それは驚愕の内容であった。宇宙船は無事帰還したもののハッチを開けると中で3人の宇宙飛行士が全員死亡していたというのである。帰還は、陸地にパラシュートで着地するもので、そこに異常はなかったという。ただ、開けてみると内部で人が死んでいたというのである。これは、たいへんショッキングなことであった。宇宙船は遺体を乗せて「無事」着陸したのである。
 ここで、問題になるのは死因である。死因は窒息死であることがすぐに報ぜられた。私は、人間は長時間宇宙にいると、やはり何らかの理由で無事に地球に帰ってこられなくなるのではないかと思った。たとえば、帰還中に、神経や脳に障害が起こり、呼吸ができなくなるとか異常な行動(たとえば宇宙船の操縦を誤る)に走ってしまうとかの理由である。しかし、ほどなく原因が究明され、事実は、大気圏突入の頃に何らの機械構造のトラブルで宇宙船の密封が破れ、船内の空気が外に出て行ったということで、少なくとも、宇宙飛行士の身体上のトラブルが主因でないことはわかった。しかし、3人がの命が地上に達するまで失われてしまったことから、私は、彼らの宇宙滞在最長記録を保留付きのものと見なさざるを得なくなった。生きて帰ってきていない以上、人間が18日間以上、宇宙に滞在できるかは、証明できなかったわけである。
 それにも増して、中で全員が死んでいるのに宇宙船が静かに帰還したことが私を戦慄させた。当時はまだコンピュータによる全自動運転というのが無かった時代である。これは、後知恵だが、当時のソ連は、ルナ16号、17号を見てもわかるように、すべてが自動で進むようにメカ的なプログラムを利用していた。これを有人宇宙船にも適用していたので、ソユーズが宇宙飛行士の操縦なしに着地できたのは当然のことであった。ソ連は、無人宇宙船と同じ自動操縦機能をすべての有人宇宙船にも持たせていたのである。しかし、それを良く理解していなかった当時の私には、まったく新しい形態での事故死というものが起こったように思われた。そして、これが、宇宙空間で起こった初めての宇宙飛行士の死亡事故であったことを思うと、それはあながち間違ったものではなかった。ほどなく、ドブロボルスキー、ボルコフ、パツァーエフの国葬がモスクワの赤の広場で行われた。これにはアメリカの宇宙飛行士も参列したことがニュースで報道された。
 このソユーズ11号の事故によって、巻き返したかに見えたソ連の宇宙開発はまたも停滞した。心配すべきは、サリュートの今後の運用だったが、事故当時はそこまでは考えが及ばなかった。私はただ新しい時代の死に戦慄するのみであった。ソ連もソユーズ宇宙船の改良を優先したようで、サリュートは結局そのまま放棄され、大気圏に突入した。その後、ソユーズ宇宙船の飛行は、1973年9月まで行われなかった。当時、それを意識することはなかったが、この1971年6月30日のソユーズ事故は、終わりへのプロセスへの始まりであった。米ソの宇宙開発は、私の期待に応えてくれるのを止めようとしていた。
 
 次回は、ソ連とアメリカのその後の宇宙開発について書きます。本連載は次回で最終回となる予定です。    
 
余録A:ソユーズ11号死亡事故の真相
 1971年6月30日のソユーズ11号の死亡事故については、当時はじゅうぶん報道がされていなかったことも多いので、後年に明らかにされたことも含めて、ここに余録(付録の章)として、多少、歴史考証的なことを書いておく。今年の6月でちょうど50年になるので、よい機会であろう。
 3宇宙飛行士の死亡の直接原因は、やはり、船内の空気が外部に急速に漏れてしまったことにあった。これは、閉まっているべき自動弁が、まだ宇宙空間と言える大気圏上層部にいる時に、不具合で開いてしまったことによる。空気漏れに気づいたドブロボルスキー船長は漏れ箇所を見つけて、自分の座席の下にあったこの弁を手動で閉めようとしたが、途中までしか閉められなかった形跡が残っていた。弁の設計上、時間的に到底無理だったという。設計上といえば、3人が帰還時に宇宙服を着られるだけのスペースが無かったことも直接的な設計上の欠陥であった。
 この自動弁は、大気圏に入った後で外部との空気の交換をするためのものであった。それが早く開きすぎたわけであるが、これだったら初めから手動で閉めきりにしておいたほうがよかった。この弁の信頼性については、ベテランの宇宙飛行士であるレオーノフがすでに不調を関知していて、事前にドブロボルスキー船長に人為的に操作することを提案していたが、結局、船長はこれを実施しなかったということである。レオーノフは、もともとソユーズ11号の船長として乗り込むはずであったが、予定されていた別のクルーに発病の疑いが出て、3人全員がチームとして入れ替えになった。予定通りにレオーノフが飛行していたらこの事故は避けられたと、本人は言っている。替わったドブロボルスキーは初飛行にして船長という異例の抜擢になり、経験不足から来る軋轢があったというが、それは事故の発生と直接の関係はないだろう。
 自動弁の信頼性、宇宙服を着るスペース、というのは、宇宙飛行の安全のもっとも基本的な要素であり、ぜひとも改善しないといけないところではあるが、こういうところに限って一朝一夕の改善は難しいものである。その後、ソ連がソユーズ宇宙船の改良を優先したのはもっともな措置であった。これには時間がかかり、新しい宇宙ステーションへの飛行士の輸送計画は、1974年7月まで3年間停止された。
(つづく)


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