編集後記
           上原 貞治
 
 3回連続で、明智光秀を描いた大河ドラマ「麒麟がくる」に関する話になるが、番組が当初の予定を延長して今年2月まで放送された事情があるのでお許しいただきたい。光秀ゆかりの地である福知山が2回に渡って紀行で紹介され、その最後の最後は福知山の御霊神社で締めくくられたことを記録しておきたい。
 
 と、大河ドラマに直接関わる話は以上で終わりにして、このあとは本能寺の変など信長に関わる歴史と暦のことについて書く。これでも天文同好会の記事ですからね。
 
 本能寺の変が起こったのは、 天正十年六月二日の早朝である。これは和暦(宣明暦)での記述である。以後、和暦は漢数字、西暦はアラビア数字で表す。この六月二日が織田信長の死んだ日で命日ということになる。当時の西暦であるユリウス暦に換算すると、これは1582年6月21日である。
 それでは織田信長の誕生日はいつか? 上で西暦を持ち出すのは、信長の誕生日の通説、五月十二日が、ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの記述にもとづいているからである。フロイスの書いた『日本史』に、「信長の神をも恐れぬ態度は、神が彼の誕生日の後、19日以上生かしておく事を許さなかった」とある。フロイスによると、この年、織田信長は新しい寺(ハ見寺)で自らをご神体となし、誕生日の祝いの参詣をさせたという。当時の日本人で誕生日祝いをする者は誰もいなかったらしい。信長は、西洋人、ひょっとするとキリストの真似をしたのかもしれない。その後、19日以上は生きられなかったわけだから、六月二日の19日前の 五月十二日が信長の誕生日と推定される。天正十年の五月は小の月で二十九日までしかなかった。『日本史』によると、信長が自身の神格化をハ見寺で始めたのは前年の夏以降ということであるから、彼の公的な誕生日祝いは本能寺の変の年の1回だけだったことになる。
 
 さて、ユリウス暦では、本能寺の変の19日前は6月2日であるが、西暦で6月2日が信長の誕生日だと思ってはいけない。西暦と和暦の対応は年によって変わるので、これは信長の生まれた年の天文三年(1534年)の五月十二日を考えないといけない。従って、西暦での誕生日は6月23日ということになる。つまり、織田信長は、和暦では48回目の誕生日を公式に盛大に祝ったのであるが、西暦では満48歳の誕生日を待たず、その2日前に討たれてしまったことになるのである。ちなみに、日本では、生まれた年を1歳と数える「数え年」が常用されたので、信長の没年齢は日本風に言えば49歳であった。
 
 ところが、信長の誕生日が五月十二日であるという裏付けは国内の記録にはないらしい。フロイスの『日本史』は同時代の一級の歴史書であり、外国人が書いたものだからといって疑うということはないが、この信長の誕生日は一つの説にとどまるということで留意されたい。
 
 では、信長の葬式が行われたのはいつか? 記録によると秀吉によってその豪華な葬儀が行われたのは、天正十年十月十五日ということである。火葬の形式でなされたそうだが、信長の遺体は本能寺で見つからなかったので、遺体はなかった。さて、葬式は、本能寺の変の4カ月半後であるが、この日の西暦はいつになるであろうか? それは、1582年11月10日である。なにかちょっと計算が合わないように思われるかも知れないが、この西暦はグレゴリオ暦である。実は、ローマ教皇庁が、1582年10月4日(ユリウス暦)の翌日を10月15日(グレゴリオ暦)とする改暦を行ったのである。カトリック諸国の改暦が、ちょうど、本能寺の変と葬儀のあいだに挟まっているのである。その後、フロイスは1592年まで日本にずっと留まっていたが、ある時期からのちはグレゴリオ暦を使っていたという。
 
 フロイスの『日本史』は、信長が日本での教会活動を支援したことから、全般に信長には好意的であるが、誕生日を拝ませるという態度には上に見るごとく批判的である。信長はもちろんキリスト教の神ではなかったし、家臣団はともかくそれ以外の日本全般についてそれほどの絶対的な権力を持っていたわけではないのだろう。いっぽう、フロイスは明智光秀については、惨憺たる評価をしていて、築城技術と政治力は認めているものの、人間としては悪人扱いである。私としては、これは、フロイスが、キリシタン大名高山右近を贔屓するあまり、彼の反対側についた荒木村重を一時期支援し、最終的に本能寺と山崎の合戦で信長と右近の敵にまわった明智光秀をけなしたものと解釈したい。暦とは関係ない余分なことまで書いてしまった。


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