スプートニクに始まる(第4回)
 
上原 貞治
 
6.日本の魂 I
  私が日本にも人工衛星打ち上げ計画があるということを初めて知ったのは、アポロ11号月着陸の興奮まださめやらぬ1969年9月のことであった。この月に、鹿児島県の内之浦から、近々ラムダ4S型ロケット4号機により人工衛星が打ち上げられるというニュースが報じられたと記憶している。その打ち上げは9月22日に行われ、結局、失敗であった。私はそのかなり詳しい情報を新聞などで読んだ。また、失敗の技術的内容も理解した。この時は、もうアポロ10号、11号の複雑な飛行手順を理解する宇宙開発のファンになっていたから当然である。 しかし、1966年以来、日本が今回の失敗を含めて4回の人工衛星の打ち上げを試みて、そのいずれにも失敗していたことはその時まで知らなかった。これには自分ながら驚いたが、前回の失敗(3回目)は1967年4月のことであったから、私の時事問題に関する成長過程からみて、これは知らなくて当然であった。
 とはいっても、日本がロケット実験を行っていて失敗していることはそれ以前から漠然と知っていた。新聞や雑誌でそういう話題を見かけることは時折あったのであろう。しかし、日本が人工衛星の打ち上げを試みていたことはかなり意外であった。無人の人工衛星といっても、当時は、ソビエトとアメリカの専売品である。そこに、日本のような敗戦国、劣等国が割り込む余地はないはずである。しかも、ロケットは、戦争の戦略物資ではないか。何でアメリカの子分になっている日本が独自に開発できることがありえようか、というわけである。これは、私が子どもで思い違いをしていたわけではない。今日から見ても、この見方はもっともであると思う。敗戦国の日本で、当時ロケット開発ができた理由については、あとで関連のこと書くとして、ここは話を進める。なんにせよ当時の逆境下の日本で、宇宙開発を頑張っている人がいるのだから、これは日本人としても宇宙開発ファンとしても熱狂的な応援を送らざるを得ない。
  1970年2月に、ラムダ4S型ロケット5号機による5回目の人工衛星の挑戦が行われた。この打ち上げについては、事前から盛んに報道がされた。その報道は、今度こそ成功に自信たっぷりという内容で、(当時はそういう見出し文句はなかったと思うが)今風にいうと、「日本初の人工衛星成功へ」という感じの報道だったのである。それは、4号機の失敗原因が詳しく分析され、それに対する対処が完全に取られた結果だった。今度はうまくいくはずである、という宣伝である。前回の失敗は、3段目が燃焼終了後に勢い余って4段目に衝突するという原因であったが、これを回避する逆噴射ロケット「レトロモータ」について、素人にも分かるように解説が繰り返された。
 打ち上げは、NHKテレビでの生中継が予定された。ところが、当時の日本のロケットは誘導装置というものを一切持たなかったので、風の影響をカバーできず、少しの風でよく延期になった。延期になっても、また「延期の場合は別番組」などと番組欄に注釈を出しながらも生中継の放送予定が組まれた。この時も、確か延期になったが、それが幸いして、打ち上げが2月11日の祝日にずれ込み、学校が休みで中継が見られるようになった。そして、結果は、成功であった。4回の失敗ののちの初めての成功だったにも関わらず、成功して当然というような淡々とした中継だったと記憶している。
 これで、日本は世界で4番目の人工衛星「自力打ち上げ国」となった。4番目というのは、フランスがかなり前に(1965年)人工衛星を打ち上げていたからである。これは、あとで知ったことであるが、フランスの人工衛星は軍事ミサイルの応用であった。当時の私から見るとこれは「自力」といってもインチキである。フランスはロケット兵器をもとから持っているのだ。日本の「自力」は、純粋に科学者がロケットを開発したのだからもっと価値があるのだぞ、軍隊の兵器庫から借りてきたのとは違う、という心意気である。なお、その2カ月後の1970年4月に中国も人工衛星を打ち上げた。3番でも4番でも5番でも大差はないのだが、オリンピックと同様、国際競争では順位は1つでも上のほうがずっといい、大違いであると感じたものである。
  日本初の人工衛星「おおすみ」はたいへん小さい物で、言い方は悪いが弱小日本にふさわしかった。負け惜しみでなく、日本のものは小さくてもよいのである。でも、大きいのに越したことはない。次の日本の人工衛星は、ラムダという小型のロケットではなく、ミューというそこそこの大きさのある新型のロケットで打ち上げられると聞いた。なお、ラムダロケットの1段目の直径は73.5cmである。まあ人間が抱きつける程度の大きさで巨大なものではない。ミューロケットの直径は、1.41mでその約2倍である。こちらは巨大というほどでなくても、中型くらいと言えるだろう。
 ところが、1970年9月のミュー4S型1号機による人工衛星、これは日本初の科学衛星になるはずのものだったのであるが、の打ち上げは失敗に終わった。日本のロケットは本当によく失敗するのである。これが事実だから仕方がない。すでに1回成功しているからいいようなものの、今後は日本の信用のために、できるだけ成功率を上げてほしいということを私は願うようになった。
 
7.日本の魂 II
 ここまでで日本の人工衛星の打ち上げにはいくつかの問題があった。ひとつは、ロケットが無誘導であることである。ラムダ4Sとミュー4Sはいずれもロケットの向きを遠隔で変えることは出来ない。むろん自力でも変えられない。風まかせである。ロケットに対しして制御できるのは、スピンの開始、停止のための小さなエンジンと最終段(4段目)ロケットの点火タイミングだけである。これらは、最適のタイミングを選ぶのみで、軌道の修正や変更はできない。いわば、この「無誘導性」が日本が人工衛星を打ち上げられる国際的信用を担保してくれていたのである。遠隔で修正できないのだから、地上を攻撃する兵器としては絶対に使えないわけである。ICBMとして使うと落下場所が国1つぶんくらいずれるのである。もう一つの問題は、周辺海域の漁業に関する制限により、打ち上げが2月と9月にしか行えないことである。人工衛星の打ち上げも、そうでないテストの打ち上げも半年に2回しか実施できない。1回の打ち上げ期間に複数のロケットを打ち上げることは出来るが、失敗のやり直しは早くても半年後になるのである。これは、今ならさほど問題にならないだろうが、風に弱く、かつ、いろいろな試行錯誤をしたかった当時のロケット開発には大きな支障になるものであった。私のようなロケットファンにも年に2度だけというのは厳しい仕打ちであった。
 
 その後、日本のロケットの打ち上げは、立ち直りを見せた。ミュー4S型ロケットによる人工衛星打ち上げは、1972年夏までに3回連続成功した。そして、ついに、日本のロケットが「無誘導」に別れを告げる日が来た。ミュー3C型という新型のロケットに、サイドジェットの誘導装置がつけられたのである。これは、補助的にメインエンジン噴射の向きを微調整して、風による影響を補正するだけであるが、誘導には違いない。これで、軌道投入の精度は格段に高まった。ミュー3C型は、1974年にテスト衛星打ち上げを、1975年に太陽観測衛星を打ち上げた。軌道への投入制度も格段に向上した。また、これで、日本の人工衛星は、5機連続の成功となり、成功率はラムダ4Sのはじめからで50%、ミューだけにすると83%となった。私の日本の人工衛星についての応援は、ここで一応満足し一段落となった。なお、この太陽観測衛星「たいよう」については、当時、高校の同年だった当同好会のF氏がアマチュア無線の技術をもって電波を受信すると言っていた。それもあってこの衛星をぐっと身近に感じることができ、自分が応援してきたことの1つの達成の象徴として満足度も大きかったように思う。実は、ミュー3C型は、その次の天文衛星の打ち上げには失敗した。 まあ、でも私にはそれはもう大勢に影響はなかった。成功率はすぐに取り返すことは出来るだろうからである。
 なお、脱線するが、上記の会員F氏は、本誌に現在常連として投稿されているF氏である。氏は当時、オスカーと呼ばれるアマチュア無線用の人工衛星を使って交信をしておられたが、通信衛星でない観測衛星の軌道や電波の情報がどうして入手できたのか当時から疑問であった。オスカーを含め当時の通信方法について、機会があればレビューをいただきたいと思っている。
 
 ここで、宇宙開発事業団(NASDA)の人工衛星についても少し書いておこう。当時(1975年)までの日本の人工衛星ロケットはすべて東大宇宙研が打ち上げたもので、すべて全段固体燃料ロケットによるものである。当時、固体燃料で人工衛星を打ち上げている国は、ほとんどなかったので(皆無だったかもしれない)これはたいへんユニークなことである。ところが NASDAはかなり以前から液体燃料ロケットを独自に開発していた。それで、東大とNASDAは別々の技術で別々に人工衛星打ち上げを目指していたのである。アメリカが制御のしやすい液体ロケットでの人工衛星の打ち上げを許してくれるならば、日本政府としてはNASDAに統一したかったのであろうが、実績として東大のほうがはるかに進んでしまったからどうしようもない。それで、Q・Nロケット構想というものを持ち上げた。ここで、Qロケットは、東大とNASDA混成の人工衛星打ち上げ用ロケットで、NロケットはNASDA独自の人工衛星打ち上げロケットである。しかし、この日本の合作開発計画は構想だけで倒れてしまった。そして、NASDAの実際のNロケットは、アメリカのロケットの完全な技術導入、はっきりいえばアメリカからの輸入とライセンス生産で打ち上げられることになった。これは、日本の国土からの打ち上げでも自力打ち上げとは言えないので、私は大きく興味を失った。もうどっちでもいいという感じであった。ところが、面白いことに、東大との混成である国産Qロケットのほうは、形を変えて実施された。どういう力学が働いたのかは知らないが、ETVロケットあるいはQ'ロケット(キューダッシュ)の名前で1974年と1975年に1機ずつが打ち上げられたが、人工衛星は搭載されていなかった。このような状況下で、日本の初期の人工衛星打ち上げは、1975年に一段落となったというのが私の印象である。この1975年は、次回に述べるように、米ソの宇宙開発も一段落というか、ある意味の終結を向かえた年であった。
 
8.私のモデルロケット
 稲垣足穂著の『ライト兄弟に始まる』には、「私のモデルプレーン」という章がある。これは「私こと稲垣足穂の少年時代の模型飛行機」の意味であるが、この章がマニアックでけっこう長い。昔の飛行機の構造に興味のない人にはとても読んでいられないであろう。問題は、足穂がなぜこのような章を書いたかである。
 足穂は、思考の人であるだけでなく、実践する人であった。彼は、現実に飛行機のメカニズムに触れ研究したのである。彼の哲学が器械(彼はこれをキカイと書く)としての飛行機を「考え」、「感じる」ところから出発していることを当然に示すために、彼は少年時代の模型飛行機にページを割いたのである。ここは、たいへん大事なところである。
 足穂の出発点は、ゴム動力のプロペラで飛ぶ玩具の模型飛行機(フライトモデル)であったらしい。木や竹ひごで組み立てアルミ管で接続するようなものであったという。翼には薄紙を張った。といっても、まだ複葉機が飛んでいた大正の初めの頃は、それは玩具というより、立派で高価な科学技術教材であったようである。しかし、足穂は本物の飛行機を感じるために、飛ぶ玩具からスケールモデル(縮尺に忠実な縮小模型)に鞍替えした。その後の彼の文章では、「実物模型」という言葉が出てくる。これは、実物に近い質感や物理的性質を持った模型―できれば、実物と同じ素材を使いたい?ということであろう。足穂は実物志向であった。その後、彼は、青年時代に、パイロットの学校に通おうとしたり、本物の飛行機の整備を手伝ったり、自作で人が乗れるエンジン付きの飛行機の組み立てに参加しているが、実際に飛行することはなかった。
 本編は、足穂著の『ライト兄弟に始まる』の組立をベースにしているので、 ここでも、私(上原)のモデルロケットについて簡単に紹介することにする。私の場合は、ロケットの質感を追求するわけにはいかなかったので、ここで紹介するのはすべてフライトモデルである。なお、足穂は、スケールモデルについては、プラモデルが最適だと言っている。私もそう思うが、ここではプラモデルの話は書かない。
 
 私が手で触れたモデルロケットには3種類があった。一つ目は、@紙製パラシュート付き落下体、これは小学6年生の時の短い期間しかやらなかった。二つ目は、Aロケット花火、これもあまり熱中することはなかった。三つ目は、Bセルロイド燃料ロケット、これは小学時代から高校時代まで、かなりの工夫をして技術改良した。必ずしも、時代順ではないが、この順に整理しておこう。
 @は、簡単な構造のもので、普通の紙を10層くらい重ねて円筒形に丸めた筒の片側の端面にパラシュートをつけ1段目とし、もう片側の端面に、2段目と称して直径が小さい同様の構造の筒を1段目の筒の内径にちょうど差し嵌めこむものである。2段目にはパラシュートはつけない。これを1、2段連結した状態で上空に放り上げると、落下しながらパラシュートが開いて全体が減速したところで、2段目が切り離されて落ちるというものである。たわいのない玩具であるが、1段目が減速した時、2段目が落ちるのが、あたかも2段目が自力で加速したように見え(実際、重力で加速する)、なかなか見栄えがする。これは、もともとは、同級生のT.O君が考案したものである。T.O君は、私の宇宙開発とロケットの知識の師匠であった。彼は最初は、パラシュートのないものを小学校の2階の窓から落下させていたが、のちに、確実に分離が起こるように、1段目にパラシュートをつけ、2段目の頭に石の重りをつけるように改良した。大きさは小さいもので、せいぜい、全長10cm、パラシュートの直径も20cmくらいのものであった。パラシュートと重りをつければ、地上から真上に投げ上げても機能する。2段目の石の重りを弾頭と考えれば、これはむしろICBMであろう。この構造は、2度に1回くらいはきれいに切り離しが行われた。弾頭の石ころは直径数ミリのものだから自由落下しても危ないことはない。できれば、3段式も考えればよかったかもしれないが、小学生の実力ではそこまで追求できず、2カ月ほどで完全にやめてしまった。ちょうど、アポロ11号の月着陸の頃だったと思う。
 T.O君は、程なくAのロケット花火に移った。これは、市販のロケット花火である。もちろん、我々は、買った物をそのまま飛ばして満足するという馬鹿なことはしない。T.O君が目指したのは、サターンロケットやソユーズロケットのように、1段目をクラスター構造にし(複数のロケット花火を平行に束ねる)、その上に点火を遅らせた2段目を1本載せるというものであった。2段目の点火を遅らせるためには、長めの導火線を使い、1段目と2段目の導火線には、地上で同時に点火するが、火が2段目に届くのは導火線の長さの違いだけ遅れるという仕組みであった。彼は、私がそのロケットの存在を知るまでに、自分で実験をしたらしい。たぶん、一人でやったのであろう。それが、うまくいったのかいかなかったのかはちゃんとした説明は聞かなかったが(たぶん何らかの部分的成功だったのだろう)、彼はその新たな実験に私を招待してくれた。実験は、石原の口池で行われた。中1の時だったと思うが、正確なことは忘れた。
 どういう経緯だったか、導火線への点火は私がすることになった。その時、導火線が途中で分かれて1段目と2段目に火が及んで行くように作られていたが、私の手元がくるい、2段目にいく導火線だけに点火してしまった。ちゃんと構造を確認していない私のまったくの不注意のミスであった。結局、2段目だけ飛んでしまい、1段目は地上に残された。T.O君は私のミスを批判したが、怒りはしなかった。彼は、残った1段目のクラスターを2本に分離し、今度は2本を直列につなげた。2段目の導火線は1段目の胴体のなかに差し入れられた。これは、2段連なって打ち上げられたが、2段目に点火したのは1段目の燃焼が終わってしばらく間をおいた後の落下中であった。2段目は、斜め下向きに打ち出された。でも、空中で2段目の点火が起こったので、2段式ロケットとしては成功であった。このロケット花火はこれでやめてしまった。それ以降、私は、多段式のロケット花火を見ていない。
 最後のBは、セルロイド燃料ロケットである。セルロイドというのは、プラスチックのようなものであるが、今日のプラスチックではなく、当時、卓球のピンポン球や玩具に使われていた独特の素材であった。これが実によく燃える。実によく燃えるのでいまは玩具には使用禁止である。それもそのはず、セルロイドの主成分はニトロセルロースで、ニトロセルロースはれっきとした固体ロケット燃料の1つであった。そのようなことを私は中学生の時から知っていた。
 セルロイド燃料ロケットの作り方は、小学校のとき、1~2年先輩に教えてもらったような気がする。T.O君と実験した記憶はない。胴体はアルミ管で作る。これにはテレビアンテナの古くなったのをペンチで切って利用した。セルロイドは、もちろん、ピンポン球を使う。これは、卓球に使えるピンポン球を犠牲にしなくても、むちゃくちゃなスマッシュでよく割る人から割れたピンポン球を分けてもらえば、無償で入手できた。点火には、導火線は使わず(これは試したことがない。たぶん構造上無理)胴体を金属板に載せ、下からローソクの火であぶる方法が取られた。点火するには1分程度を要し、この間はスリルたっぷりである。
 しかし、割れたピンポン球の供給が十分仰げなかったので、1個のロケットにふんだんに燃料を使用することはできなかった。また、アルミ管の両端の閉じ方の要領がつかめていなかった。そのため、このわずか全長3cm程度のモデルロケットは、うまくいっても水平方向にわずか4~5メートルしか飛ばなかった。それでも、3cmのものが4~5メートル飛んだので成功として満足したものである。できれば上に向けて飛ばしたかったが、これは飛ぶ方向がまったく制御できず、人体に当たると確実にヤケドをするので、危険すぎて出来なかった。
  高校で物理部に入った時に、このロケットに進歩があった。使われなくなった昔の授業用のセルロイド器財が理科準備室から大量発見されたのを一部だけ拝借して、燃料をふんだんに使ったロケットを開発した。もちろん、この実験は部員3〜4人だけの秘密であった。人に知られて大勢集まってくると、人に当たる危険が必至で実験ができなくなる。同年の部員の提案により、ロケットは水平発射ではなく50度くらい上方に向けられた。点火はアルコールランプで下からあぶった。経験上どこに飛んでいくのかわからないので、カタパルトと称する反円筒形のレールのようなものを実験スタンドに取り付けた。実は、これは、筒状のものを取り付けると、銃身のあるロケット砲という兵器になってしまい犯罪行為になりかねないので注意を要する。ロケット本体のケースには、マジックインキの筒を使った、これはアルミ製と思われ、軽くて大きいので威力があった。上方に向けて打ち出すと、アルコールランプの火を消しながら飛ぶほどの勢いである。そして、2階建て校舎の屋根を越えるくらい飛ぶので危ないことがわかり、実験場は山の手にあるグラウンドに変更された。このグラウンドの一方の長辺の側面は丘の斜面になっていて、そこから水平発射でグラウンドに向けた。そうすると、ロケットは、数秒かけて尻を振りながらグラウンドの中央を越えて50メートルほど飛翔した。ここで、だいたい満足してこの実験はその日でやめた。
 大学時代に、同じ下宿にいた同じ理学部の同学年の友人が、セルロイドロケットを知らないと言う。実験分野の学生がそれではいけないということで、一度だけ近所の公園に同宿の理学部仲間3人で出かけ、早朝に人のいない時間に隣接する川に向けて発射したことがある。川を越えない程度の小型のものにした。点火には伝統的なローソクを使ったはずだ。この時は5メートルほどしか飛ばなかったと思うが、それでも友人は飛ぶまでハラハラしたと喜んでくれた。それ以後、ロケット実験はやっていない。
 セルロイドロケットの経験者はけっこう多く、鉛筆のキャップを使った人が多いようだ。それにはスリットが入っているし、あれはたぶんステンレスで比重が重いのではないか。アルミ製のマジックインキのケースがよい。できれば先端は細工して尖らせた方がよいだろう。狙った方向に10メートル以上飛ばすコツは噴射口の締め方にある。ここに、詳細を書くのは本旨をはずれるので止めておこう。
 
 次回は、また、1969年頃のソ連の宇宙開発から書き進める。       (つづく)


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