スプートニクに始まる (第3回)
上原 貞治
4.最盛期 I
 私の宇宙開発熱に本格的に火が付いたのは、1969年5月のアポロ10号であった。そのきっかけは、子ども向け雑誌の図解で見つけたアポロのロケットと宇宙船の複雑な組み合わせと飛行手順に惹かれたことであった。これが人類が月に到達し帰ってくるために選んだ宇宙空間のテクノロジーである。アポロ10号の飛行にはそのすべてが含まれていて、唯一、含まれていないのが月面への着陸であった。アポロ10号は、月着陸のリハーサルとして、着陸船が月面まであと15kmのところまで接近し、そこで下降段(着陸のための脚の部分)を切り離し、再上昇をした。アポロ8号がいきなり一発勝負の月周回飛行であったのに対し、10号では慎重なステップが取られたのである。
 続く同年7月のアポロ11号は、宇宙開発のあらゆるステージの中で頂点に達するものであった。それは空前絶後のものであった。私は、今後、人類の歴史が何百年、何千年続こうとも、アポロ11号の興奮が「絶後」であることを断言できる。これを超えるものは思いつかない。かろうじてこれに匹敵するのが、のちの映画「未知との遭遇」で観たような宇宙人との遭遇であろうか?
 私は、アポロ11号で、初めて宇宙飛行の全飛行の手順、打ち上げから回収まで、をテレビの中継や新聞報道で追うことができた。その打ち上げの直前、1969年7月16日の夜の8時頃、ケープ・ケネディ宇宙基地のサターンV型ロケットの前から行われた中継を目にした感動を、私は決して忘れない。NASAが、いや、全アメリカ合衆国が、一つの巨大なロケットの打ち上げを支えている。大勢の優秀なアメリカ人学者、技術者が与える信頼はゆるぎなく圧倒的であり、サターンV型の大きさがそれを体現している。そそりたつ巨大なロケットの信頼性は、決して他にはないアメリカのここにしかないものと感じられた。
 アポロ11号の月着陸は、日本時間で7月21日月曜日の早朝に行われた。この日は夏休みの初日で学校は休みであった。前日の夕方、私は18時から夜中の0時まで睡眠を取り、起きてからは徹夜でテレビ中継にしがみついた。ところが、この時から月着陸までの5時間以上、何の映像の生中継もなかったように思う。中継で送られてきたのは、音声とその同時通訳だけだった。 日本のスタジオで、解説の図版に合わせて、簡単なコンピュータディスプレイ(NHKが研究者に頼んで用意してもらったものであろう)が使われたのが新しい試みであった。そして、夜が明けて外がかなり明るくなった頃、着陸船「イーグル」は月面に着陸した。それを私にわかるように伝えてくれたのは、同時通訳の音声だけであった。
 機体が着陸してからアームストロング船長が月面に第1歩を踏み下ろすまでには6時間ほどの時間があった。私は、朝ご飯は食べただろうがこの間もほぼテレビにしがみついたままであった。その間テレビでは、日本の著名な文化人たちが月の様々な側面、−科学だけでなく文学や宗教についてまで−を解説をしていた。 飛行士の月面活動の開始を待つときの薬師寺の高田好胤師が目をつむって手を合わせる場面は、科学技術と人間の心を考えさせる上で圧巻であった。子どもの頃の私は、仏教の話は非科学的であまり好きではなかったが、この高田の坊さんの話だけは別であった。
 そして、日本時間11時56分、アームストロング船長は月面に第1歩を下ろした。その足が伸びる場面は、不鮮明な白黒映像ながらも生中継で確認することができた。その後、15分間ほどは月面活動を見ていたはずであるが、映像が不鮮明であっためか明瞭な記憶は無い。その日の午後は、私の地区の小学生の市民プールの日であった。親といっしょにバスに乗って、当時、福知山城の近くにあった市民プールに行かねばならなかった。私たちが家を出て他の子どもたちといっしょに道路脇でバスを待っているとき、バスがやって来る東の方向の低空にちょうど月が昇っていた。私の記憶の中では、その月は、昼の月ながら金色に輝いている。あそこを今、確かに人が歩いている! あまりに感銘の深い景色であったためか月を見てもそのことを声高に語る人はいなかった。プール行きのために、私はオルドリン飛行士の月面活動の生中継を見ることはできなかった。その代わりに、私の家の辺では決して配達されない新聞の夕刊の月着陸のニュースの黒々としたインクの見出しを、プールのあとに寄った市街地の商店の店先で見ることができた。
 4日後の早朝、飛行士たちの太平洋への帰還の様子をテレビ中継で見た。ホーネットと呼ばれる空母がすでに洋上に回収のため待機している。やがてパラシュートをつけたアポロ司令船が着水し、浮き袋を付けられた司令船の中から飛行士たちが元気に出てきた。ところが彼らは、空母の甲板に移されるやいなや、消毒液をまかれながらすぐにバスのような隔離室に閉じ込められてしまった。いちやく全人類の英雄になってしまった彼らが当面隔離されてしまうことは私をがっかりさせた。
 私にとってアポロ11号の飛行の記憶はすべてポジティブであり、アメリカ合衆国という国の偉大さを物語るものであった。当時のアメリカでは、ベトナム戦争での無理がたたり、戦況の泥沼化と民意の分裂が起こっていた。そういうことは日本にも連日のように報道され、私も知っていた。アメリカがアジアで戦争をしていることは私の気に入らなかった。しかし、アポロの偉大さは、それを、いや世界のすべての矛盾を圧倒するものであるように思われた。が、それは長く続くものではなかった。
  次の月飛行は、4カ月後の11月にアポロ12号によって行われた。私は、アポロ11号の時のままの成功と興奮が再度もたらされることを期待した。しかし、そうはいかなかった。私は、このときも打ち上げ中継を見たが、今回は荒天の中の打ち上げで、上がっていくロケットは低い雲でほとんど見えなかった。しかも、打ち上げ直後の機体を雷が直撃した。今から考えると、なぜこのような危険な状況で打ち上げが強行されたのかと思うほどである。アポロ12号の旅立ちは爽快なものとは言えなかった。
 アポロ12号の飛行士は、月着陸の後、以前に打ち上げられて月面に留まっている無人探査機サーベイヤー3号の観察に行くことになっていた。私は人間とそれを待ち続ける孤独な器械の出会いの場面をもっとも楽しみにしていた。しかし、月面活動を初めてまもなく飛行士がテレビカメラを太陽に向けて壊してしまい、一切の月面テレビ中継は行われなくなってしまった。宇宙飛行士のミスのために、楽しみにしていた中継が見られず、アポロ12号から得た情報と印象は不本意ながらきわめて限定的なものとなった。
 
5.最盛期 II
 続いて月着陸を目指したアポロ13号は、月に向かう途中で機械船が爆発事故を起こし、月着陸を断念せざるを得なくなった。 現在、アポロ13号の生還は、たいへんな美談として語り継がれている。しかし、当時は決してそうではなかった。これは、世界中の人々に心配をかけた失敗にほかならなかった。もちろん、当時にあっても生還を実現したラベル船長は英雄には違いなかった。それは後世のトム・ハンクス主演の映画に劣るものではない。しかし、月着陸の断念は、失敗するはずのない巨大システムの紛れもなき失敗であった。奇跡の帰還で宇宙飛行士の生命が失われなかったのは、不幸中の幸いである。しかし、悲劇でなかっただけに、それは純粋な技術的な失敗として当時の人には捕らえられた。私は多くの科学者、技術者が支えるシステムといえども失敗するものであるという貴重なことを学んだのである。
 アポロ13号の失敗により、1年以上も月着陸のない期間が空いてしまった。立ち直りを見せるはずであったアポロ14号もトラブルの続出であった。打ち上げが遅れたのに加え、月面降下中にもコンピューターの不具合に見舞われた。私は、アポロ計画の信頼性が決して高いものでないことを学んだ。これは当たり前のことであった。宇宙開発の歴史が失敗の連続であることを、私はすでに知っていた。アポロ火災とソユーズ1号の死亡事故は、宇宙開発の歴史に触れるたびに何度も振り返られた。あの死亡事故からまだ3〜4年しか経っていないのである。どうして宇宙開発に万全があることがあろうか。この頃、元来20号まで10回の月着陸が計画されていたアポロ計画が17号までに短縮され、13号の失敗があったので実施される月着陸は最大でも6回ということになった。当時のアメリカの人々の本音は、巨費を使って何度も月に行っても仕方がないというところにあったのだろう。しかし、これは、宇宙開発は未来に向けてどんどん盛んになるものである、という私の信念を揺るがすものであり、人類の科学の発展を単純に右肩上がりとモデル化していた私にはかなりショッキングな事実であった。
 それにも関わらず、その次のアポロ15号は素晴らしい成功であった。月の山々の麓や谷の周辺を月面車が走り回った。今思えば、これが、アポロ計画に、いや宇宙開発に熱中した私に贈られた最後の華であった。私は、その後もこれ以上のものを期待した。しかし、アポロ15号よを上回ることはそののち起こらなかった。それは原理的にもありようはずがなかった。次のアポロ16号、アポロ17号も成功裏に月着陸を行った。しかし、15号の興奮はなかった。やっていることが同じなのである。もちろん、科学観測という意味では、16号、17号と格段に精密化されているはずである。当時中学生の私は理科クラブと発足当初の西中筋天文同好会に属していたから、科学観測の重要性はよく理解していた。科学の面白さということは、自分で天体望遠鏡を覗いたり、実験装置を使う理科授業で学んでいた。しかし、私が宇宙開発に期待したのは科学ではなかった。冷徹な科学とは違う血の騒ぎであった。このような状況で、私のアポロ計画は、1972年年末、アポロ17号の帰還とともに終わったのである。
 アポロ計画の後の計画として発表されていたのは、アポロ用のサターンロケットと宇宙船を応用した宇宙ステーション計画であるスカイラブ計画と、まったく新しい飛行機型の往還機を用いるスペーシャトル計画であった。私にとって、スペースシャトルは宇宙ロケットには見えなかったのでほとんど論外のものであったが、スカイラブはアポロの変形版ということである程度の期待をした。しかし、アポロほどの興奮をもたらすものでないことは最初から明らかであった。
 
 この連載は、1900年生まれの作家・稲垣足穂が少年時代に熱中した初期の飛行機との関係(稲垣足穂著『ライト兄弟に始まる』)をモデルにしているので、ここで足穂の少年時代についても触れておこう。足穂は、成人する頃まで飛行機に熱中したが、彼個人の熱情が社会の情勢と合致した最盛期はやはり短かった。日本人による初飛行が行われた1910年以後、彼が須磨で目撃したアトウォーター氏の水上飛行があった1912年あたりがピークであっただろう。そして、翌1913年5月4日、あの「武石浩玻墜落事件」が起こる。それをきっかけに、彼は12歳にして早くも絶頂の陰りを識別し、過去をつなぎ止めるというその後の一生の仕事に着手する。さらに、彼が成人する前に飛行機そのものが変容を始めた。飛行家ともろともに墜落で破壊されるべき飛行機が、第一次世界大戦では地上を爆弾で破壊しながらも自分は基地に安全に帰還するというけしからぬ道具になった。こうして、飛行機はライト兄弟からわずか十数年にして精神文明から離れていくことになった。スプートニクからスカイラブ終了までの期間、16年と少々、はこれと対応している。
 
 以上、今回の掲載部分については、できればアポロ月着陸の50周年だった昨年のうちに書いて載せたかったのであるが、間に合わせることができなかった。その結果、アポロ13号の「失敗」から50周年となったのであるが、その意味合いの違いも思い出されて有意義だったように思う。それから、アポロとアメリカの宇宙開発史については、1973年初から本誌「銀河鉄道」印刷版4〜6号で「終了したアポロ計画」という記事を連載したことがある。それを今見ると、当時としてはタイムリーな扱いながら、まったく熱意のない文章である。
 
 さて、話を戻す。アポロ計画が終了しようとしている頃の私がスカイラブ以上に期待したのは、ソ連の宇宙開発であった。アポロの月着陸が始まった時代、ソ連は、意図不明の月面無人探査機を打ち上げたり、地球周回軌道で複数のソユーズがやはり意図不明のグループ飛行をしていた。それらは、ある種の不気味さをもたらすものであり、私にとって決して親近感を抱かせるものではなかったが、ポストアポロのアメリカの宇宙開発に期待出来ない何かを、多少なりとも期待させるものであった。私は、当時のソ連が直ちに月や火星への有人飛行を行うという具体的な期待はもっていなかったが、アメリカのなしえない予想できない何らかの飛行形態を実現してくれることを期待した。
 ソ連の宇宙開発については、この連載の最後のほうに送り、次回は、アポロ月着陸と同時期に行われた日本初の人工衛星打ち上げあたりのことを書く。
                           (つづく)
 


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