スプートニクに始まる(第2回)
上原 貞治
 
2.最初の記憶
 人間が生まれ成長した時に憶えている最初の記憶がいつ頃のものか、これは人によって大きく違うらしい。小学校に入ってある程度経つまでほとんど記憶のない人もあれば、1歳の時のことを憶えている人もあるという。また、それは、その人の精神の発達速度と必ずしも関係ないようなのでおもしろい。私は、結構昔のことを良く憶えていて、初めてうちにテレビが来た日のこと、それで、力道山やケネディ米国大統領を見たことを憶えている。しかし、精神が早熟であったかというとそうではなく、長い間、社会性の発達しない子どもであった。さて、ここで問題にすべきは宇宙開発のニュースについてである。
 アポロ以前の宇宙開発となると、テレビのニュースや番組で見た記憶はとんどない。新聞の見出しで見たことはあったと思うが、新聞は小学校高学年になるまでほとんど読まなかった。宇宙開発関係のテレビニュースの記憶で一番古いのが、1968年3月のガガーリンの死去のニュースである。私はその時点でガガーリンのことは知っていたが、1961年のガガーリンの人間宇宙初飛行のニュースはリアルタイムでは知らない。つまり、リアルタイムの宇宙開発ニュースというのを私は1968年になるまでフォローしていなかったらしい。
「ガガーリン」「ジェミニ」「ランデブー」「ドッキング」というのが、当時の時事用語だった。小学校3〜4年の私もそれらを聞いてはいた。しかし、これらの用語は、当時の一般の人にとって、科学技術のニュースではなく、時事・社会分野だったのである。私は、小学校入学以来の「理科好き」であった。カレンダーがことのほか好きだったが、天文も好きだった。小2の時には、学校の宿題の月の観察もしたし、1965年11月23日に部分日食があることも親に聞いて知っていた。イケヤ・セキ彗星の太陽接近のニュースならテレビで見た。1967年と1968年には、2年連続で皆既月食の観察をした。ところが、宇宙開発のニュースは守備範囲外であった。なぜか。科学ではなく時事ニュースだったからである。
 つまり、私の天文趣味と、宇宙開発趣味の入口は別々で互いに関係がないのである。宇宙開発の趣味が天文趣味と重なるためには、宇宙開発で行われた科学観測の意味を理解するとか、使われた技術の客観的評価ができることが必要である。それは小学校低学年の子どもにできることではない。子どもは月や星を眺めることはできる。しかし、当時はまだそこで目立つ宇宙「開発」は行われていなかった。逆に、宇宙船やロケットが好きで宇宙開発をフォローしていた子どももいただろう。しかし、当時は、子どもが宇宙船について学んでも月や星のことが直ちに詳しくわかるわけではなかった。この点で、我々の世代(わずかに±2年くらいの世代)は、その前後の世代と決定的に違っていたと思う。前の世代だったら、天文と宇宙開発を同時に同じ動機で興味を持つようになれたと思う。後の世代なら、宇宙開発の成果を天文の最先端の知識とできたであろう。
 かくして、私がリアルタイムで初めて宇宙開発に触れることになったのは、ガガーリンの事故死を除けば、1968年のアポロ8号の月周回飛行であった。実は、私は、この時初めて、人間がまだ月に到達していなかったことをはっきり知ったのである。それまでの私は、人間が月を現実に目指していることは知っていたが、もう到達していたのかまだなのかははっきり知らなかった。何と気楽なものだったのだろうか。
 このアポロ8号の時点では、まだ私の宇宙開発趣味に火がついていなかった。でも、天文趣味としてはの価値はあった。アポロ8号は、月を周回しながら月面のクローズアップ写真をテレビ中継してくれたからである。これは不思議な眺めであった。地球からは、月を大人も子どももずっと空に見てきた。今それをわざわざ近くまで見に行っている人がいるのである。そしてその映像を動画で電波で送ってくれている。宇宙船の動きとともに、月面の映像が後ろへ逃げてゆく。そこに何か不思議な意味を、大人も子どもも感じたことであろう。
 当時、宇宙開発→アポロ→天文趣味と多くの人がたどったのであろうが、私は、その逆の天文→アポロ→宇宙開発であった。 そして、私の純粋な宇宙開発趣味に火がつくことになったのは、翌年1969年5月のアポロ10号の時である。それは、月着陸船をドッキングで運ぶというアポロの飛行の手順の図を見たからである。ロケットが打ち上げられる時は、月着陸船はアポロ司令船の噴射口の下に格納されている。しかし、月に向かう途中で、司令船は向きを変えてその鼻先に月着陸船をドッキングする。まさに、宇宙空間のテクノロジーであった。宇宙開発趣味はテクノロジーの理解によって、遅ればせながら始まったのである。この段階を多くの宇宙開発ファンは、1966年のジェミニのドッキングの時代に通過していたことであろう。私は、宇宙開発は長い間時事問題であったので、その機会を逸したのである。
 
3.墜ちるロケットと消却の予感
 この連載は、自伝ではないので、必ずしも私の体験の時系列通りに話が進むわけではないことをまずお断りしておきたい。さて、私の宇宙開発趣味の初期の頃から「ロケットの打ち上げ失敗」に強烈な魅力を感じるということがあった。 初期の失敗するロケットといえば、まずはアメリカの最初の人工衛星ヴァンガードの打ち上げの失敗映像である。現在では、この映像は YouTubeなどで簡単に見ることができるが、当時も、宇宙開発の歴史を描くテレビ番組で繰り返し放送された。これは、私にはゾクゾクする映像であった。完全な失敗なのである。完璧な失敗と言ってもよい。ソ連のスプートニクの後を追って焦り満面のアメリカ、しかも何とも頼りない細長いロケット、それが1メートルか2メートル上がっただけでそのまま落下を始め、発射台ともに大爆発をする。惨めさもここまで募ると美しいものであることを知った。
 日本の人工衛星についても、似たようなものだった。こちらは、ある程度上昇してから失敗したので、派手な映像は残っていないが、日本初の人工衛星打ち上げは、1969年までのあいだに4回連続失敗している。これは、当時の日本社会でもけっこう知られていた。自嘲的な受け止めが多かったと思う。ただ、当時、人工衛星の独自打ち上げに成功していたのは、米ソ「超大国」を除けばフランスだけだったので、日本社会が焦っていたということはまったくなかった。私にとっては、むしろ、4回連続失敗することに美学が感じられた。初期の日本の人工衛星打ち上げについては、またのちほど改めて記述したい。
 その頃のロケットの失敗としては、1967年のソユーズ1号の事故と、アポロ1号火災事故がある。どちらも宇宙船の機体の不具合による宇宙飛行士の死亡事故なので、悲惨極まりない事件だったのだが、私はどちらもリアルタイムでは知らなかった。アポロ11号の頃に宇宙開発の歴史に触れる中で知ったものである。宇宙開発の段階で人が死ぬということは、もちろん、子どもにはそれなりのインパクトのあることであった。そこにも何らかの美学が感じられた。
 ある意味、宇宙開発の魅力というのは、成功の歴史ももちろんそうであるが、より強烈なのは失敗の歴史である。稲垣足穂は、初期の飛行機(この場合、正しくは「飛行器」だという)の何物にも代えがたい魅力は、「墜ちること」だと言っている。飛行機は我々の夢を乗せて飛ぶ器械である。その夢の価値は大きいが、しかし、夢というのは遠くに飛んで行ってしまうと、結局夢にとどまったままになってしまう。空の飛行が我々の現実となり、そして血や肉になるためには、それはまた地面に帰ってきてもらわねばならない。その地へのもっとも衝撃的な帰還のかたちが墜落なのである。ここで、誤解を避けるためにわざわざ断っておくが、足穂も私も、なにも飛行士の命を犠牲にしてまで派手な失敗の映像を見たいとかそういう酷いことを求めているわけではない。飛行機なりロケットなりが我々の身体・精神と一体化するためには、墜落の体験が是非とも必要だ、と言ったらおわかりいただけるだろうか。
 しかし、この失敗にあこがれる気持ちは、それ自身が矛盾を秘めていることにやがて自ら気づく。飛行機もロケットもやがては進歩し、失敗しなくなる。あるいは、失敗の確率が無視できるほど小さくなってくる。これは技術の進歩の必然である。墜落しないようになった飛行機、ロケットは、また我々から遠く去って行くであろう。我々は、いったん自分たちと一体化したかに見えた感覚を、遠くない将来また失うことになる。それはいつのことかはわからないが、おそらく、10年から20年後にそうなることは必然であることを、意識しないまでも感じることになる。つまり、私が小中学生時代に感じた宇宙開発への魅力は、それが今後長く続くものであると同時に、その真実はきわめて短い時間限定的なものであることを予感することになる。当時の私は、その失敗の歴史に触れながら、そういうことを感じ取っていたに違いない。
 将来、自分は、飛行機に乗って海外旅行するようになるかもしれない。宇宙旅行も夢ではないかもしれない。それによって、自分は空や宇宙と一体化できるであろうか? そうではないのである。そこまで飛行が普及すると事故というものは滅多に起こらなくなっているはずである。飛行機なり、ロケットなりが完全に安全な乗り物になった時、乗客は外の空中と完全に隔離されてしまい、もはや一体化することはできない。この隔離は物理的なものではなく精神的な隔離である。技術でどうなるものでもない。その時代には、我々はすでに飛行の魅力に永遠の別れを告げているのである。
 事実、このような飛行への永遠の別れを稲垣足穂は1920年代に体験した。幸いにも、我々の世代には、それは宇宙ロケットの形をとって1960年代に再登場した。しかし、近く再び永遠の別れが訪れることは確実だったのである。そして、それは1970年代から80年代にかけて予想の通りとなる。その過程を書くことが、私のこの連載の最大の主旨である。
(つづく)


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