スプートニクに始まる (第1回)
上原 貞治
 
0.序
  「これだけは書いておかないといけない」と、私はこの文章を書く決意をした。
 私は、自伝のようなものを書きたいとはさらさら思わない。私なりにいろいろ貴重な体験はしたし、ちょっと変わったことも考えたりしたが、それらはいずれも断片のようなものである。断片をまとめて時系列にして並べて他人様に見せる必要は感じない。
 
 ここに書くのは自伝ではない。では、どういうものを書くのかというと、それには、読んで下さる方々が稲垣足穂の『ライト兄弟に始まる』を読んでいてくれると話がとても早い。でも、まあそういうことは期待できまい。だから足穂を読んでいて下さらなくてもじゅうぶんに意図が伝わるように書くつもりである。 せっかくここまで書いたから趣旨を粗っぽく披露させていただくと、我々の世代において宇宙開発がどういう文化的・精神的影響を我々に与えたか、ということを書くのである。
 
 稲垣足穂は、大正時代から昭和時代まで長きにわたって活躍した作家であった。足穂は1900年、すなわち、ライト兄弟が最初のエンジン付き飛行機を飛ばす3年前に生まれ、飛行機に熱中する少年時代と青年時代を送った。しかし、彼の飛行機への思いは、1920年代以後、つまり彼が成年になって以降は「凍結」された。それは、飛行機が変容したからである。端的に言えば、飛行機は「墜ちる器械」から「安全な乗り物」に変容したからである。『ライト兄弟に始まる』は足穂の代表作の1つであるが、内容が少しマニアックでサブカルチャー的に見え、初心の方には読みにくかろうと思う。足穂は、同時代の人類に普遍的な文化的・精神的影響を書こうとしたので、サブカルチャーとして受け取るのはまったく不適当である。その点を考慮すると、初めての方には、短編集『ヰタ・マキニカリス』に収録されている「白鳩の記」を読んでいただきたい。きっと、読者の琴線に触れるものがあり、私がこの文章を書こうとした動機が完全にわかっていただけると思う。
 
 足穂にとって、飛行機は、彼が生まれてから発展し続ける、夢であり、彼の精神を昂揚し推進するオブジェであった。しかし、それは彼の多感な少年時代に変容を始め、彼の期待に添わずに逃げ去ろうとした。彼はそれを追いかけるが、成年になったころにはそれは完全に手の届かないところに行ってしまった。いや消滅してしまったのかもしれない。彼は、少年のままで取り残されてしまった。彼は以後、77年の生涯の残りの50年以上を費やしてその消えてしまったものが何だったのかを追求したのである。おそらく、足穂は生まれてくるのが少し遅かったのであろう。あと10年早く生まれていれば、彼は飛行機に満たされた青春を送り、平和裏に飛行機に別れを告げられたかもしれないのである。彼の生涯は、わずか10年にも満たない彼の少年・青年時代に凍結されたものを、懸命に解凍することに費やされた。そのことは、彼の書いたものを読むとよくわかる。
 
 そして、稲垣足穂の飛行機が、我々の世代の宇宙開発であった。私は、スプートニクと呼ばれるソビエト連邦のかつ人類の最初の人工衛星が打ち上げられた年に生まれた。私が生まれたのはその事件にわずか1カ月以内先んじただけであった。だから、私の人生は表題通り「スプートニクに始まる」のである。しかし宇宙開発は、私の熱中したごく短い期間のあいだにたちまち変容を遂げてしまった。私が宇宙開発に精神を昂揚されたのは、わずか5、6年のことであった。私も消え去ろうするのものを感じ、逃げゆくものを追いかけようとした。しかし、手を伸ばすすべもなかった。私は、足穂同様、この件については、少年時代に置き去りにされたのである。
 
 稲垣足穂は長生きをし、晩年まで変わらぬ精神を維持したので、宇宙開発もはじめからその変容まで見届けている。また、アポロが月に行ったことについて短い論評もしている、しかし、それにはまったく力が無い。彼にとって宇宙開発はどうでもよいものなのである。彼にとっては、20世紀の最初の20年の飛行機が、機械文明のそして精神文明のすべてであった。彼にとって、宇宙開発はその二番煎じですらなかったのである。これは仕方の無いことであろう。しかし、我々の世代は、それで済ませてよいとは思わない。足穂にとってはそうかもしれないが、我々にとっては、宇宙は我々の精神を昂揚させたものであり、我々の少年時代、青春時代とともにあったものであり、そして、人間が宇宙を目指し、人間自身が宇宙空間に出て行くということは、それに値する精神文明に関わるものであるはずである。しかし、足穂はもとより、我々の世代の者は誰もこのようなこと、すなわち「スプートニクに始まる」を書いてくれていないようである。これが、私が「これだけは書いておかないといけない」と考えた理由である。そして、それを私はこれから書くのである。
 
 私は、足穂の「ライト兄弟」をほぼたどることになろう。趣旨が同じなのだから、組み立てを変える必要はない。ましてや、足穂は大正・昭和期の名作家の一人である。私が書くものが彼の書いたものに勝る点は一点もないであろう。しかし、「足穂の飛行機」が「我々の宇宙開発」であったことを後世の人々に証明するためには、当事者の私が書く必要がある。もし、貴方が私と同世代であり、足穂の「ライト兄弟」を読み、それをご自分のこととして理解されるのであれば、この私の駄文を読んでいただく必要はまったくないであろう。足穂だけ読んで下されば十分である。
 
 私の構成の腹案はだいたいできている。しかし、文章は、連載として最初から書いていくので、どのようなものが書けるかはわからない。だいたい数回の連載になるであろう。連載といっても、連続して掲載できるかはわからないので、その点はご寛恕をお願いしたい。
 
1.スプートニクの時代
 さて、表題に話を合わせるためには、まずスプートニクの時代のことを書かなくてはならない。しかし、私はそれを体験していないのである。この世に生まれてはいたが、もちろんまったく記憶していないし、親や身近な者からそれについて聞いたこともない。結局、書くとなれば、当時の資料を元にした文献に依らざるを得ない。
 
 これは、足穂の「ライト兄弟」においても同様で、彼は歴史的記録をたどって、ライト兄弟の最初の飛行を叙述している。しかし、ライト兄弟のことについてはすでによく知られているのであるから、本当は彼が書くには及ばなかったはずである。強いて言えば、足穂は飛行機文明の評論家として、彼なりの考えで「飛行機開発史」を記述したのであろう。それと同じことを私は行いたいとは思わない。もちろん、スプートニクの頃の歴史を要約することは、このインターネットの時代には易しい仕事である。しかし、それをやってもあまり益はないと思われるので、ここでは代わりに、「私が少年・青年時代に体験した『スプートニクの歴史』」について書いてみたい。断片的なものしかないので、重要度はそれほど高くない。とにかく、スプートニクから始めよう。前置き長すぎてもはやスプートニクから始まっていないことを私は心配する。
 
 スプートニク1号が人類初の人工衛星であったこと、それが打ち上げられたのが私が誕生した時とごくごく接近していることを知ったのは、小学校高学年の頃であった。その時、どのように感じたか、その時のことを憶えていないのでなんとも言えない。また、ほどなく「スプートニクショック」というものがアメリカ合衆国であったことも知った。小学生の頃は、ソ連のスプートニクがアメリカ人にとってどれほどのショックであったか、もちろん理解はできなかった。当時、アメリカとソ連は冷戦状態で、これ以上無いほど仲が悪く、いつ戦争してもおかしくないくらいであることは理解していた。でも、人工衛星ごときでショックを受けたというのは、また別の事情が必要である。
 
 中学生になった頃、私は、家で古い新聞を棚の上から見つけた。それは、1957年の春頃の新聞だったと思う。アメリカが近く籠球大(「バスケットボールの大きさ」の意)の 人工衛星を打ち上げるという予告があった。これは、スプートニクの後で失敗したヴァンガード号のことであるのだが、とにかく、アメリカが先に世界最初のはずであった計画を発表していたことを知ったのである。それを先を越されたのだからショックであろう。もちろん、これにはスプートニク打ち上げ技術が、ICBM(大陸間弾道弾ミサイル)技術に関連し、軍事上の優越を取られたことに関係する。しかし、ICBMと人工衛星はやはり目的も方式も違うので、これについてはただちに直結するものではなかった。やはり、純粋に技術の点で先を越されたことが大きかったと考えたし、これについては今でも間違えていないと思っている。
 
 それから、当時の日本人やアメリカ人がスプートニク1号を夜空に探そうとする努力をしたことも知っている。肉眼で見ようとしたのか双眼鏡で見ようとしたのかしらないが、当時はそれほど一般人に双眼鏡や望遠鏡が普及していたとは思えないし、どちらに向けるのかも正確にはわからなかっただろうから、まあ肉眼で探したのであろう。ここで、私は、果たして肉眼で見えるものかということが疑問になった。たとえば、日本で初の人工衛星「おおすみ」とか当時の一般の人工衛星は、特別大きいものを除いて肉眼で簡単に見えるものではないのである。その頃、私は田舎に住んでいて、しょっちゅう夜空をみていたので、そうそう明るく見える人工衛星がないことを知っていた。スプートニク1号はそんなに大きいものではなくせいぜい1メートルくらいのものだろうから(実際には直径58cm)、実際、肉眼で見えたかどうかははっきりしない。電波を捕らえたという人はいるという話は聞いた。
 
 その約1カ月後、スプートニク2号が打ち上げられた。これには犬が乗せられていたので世界中が驚いた。2発目にけっこう大型の動物を乗せるとはものすごく積極的なことである。後で歴史を知った子どもの私でもびっくりしたのだから、当時の世界の人がどれほど驚いたかは想像にあまりある。この犬は常に「ライカ犬」ということで紹介された。ここで、ライカというのは犬種のことであると誰もが想像したが、ライカという犬種がどういうものであるかは明瞭な説明はどこでも聞かなかった。それもそのはずで、これは比較的最近知ったことだが、スプートニク2号の「ライカ」は犬の名前で、「ライカ犬種」であったわけではない(従って「ライカ犬」は誤訳) ということである。
 
少年時代・青年時代に知ったスプートニクの当時のニュースというのは以上の程度である。その中でもっとも私にインパクトがあったのは、もちろん、その打ち上げ日が私の誕生とごく接近していたことである。これは自慢すべきことである、と今も考えている。だから、このタイトルでこの文章を書き始めたのである。
(つづく)


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