編集後記
上原 貞治
 
 年の瀬は毎年何かと慌ただしいものであるが、今年は「平成最後の年末」ということで、マスコミでもますます慌ただしさが強調されているように感じる。それで、ここでは、これに対抗して、少し暇げに元号の使用の将来について考えてみたい。元号は暦の一部であり、暦は天文や天体観測に密接に結びついているので、まあ場違いということはあるまい。
 
 明治、大正、昭和、平成という元号の使用については、その伝統文化的な観点や政治的見解において、歴史を振り返る指標として国民に長い間親しまれているというのは、その通りと思うし、そのいっぽうでこの国民主権の時代において天皇の代替わりによって時代が変わるというのはおかしい、という意見ももっともである。外国人には理解しにくい非国際的な制度であるという意見が出れば、日本の古い伝統を残して何が悪いという反論もあるだろう。どちらが間違いとも言えない。いずれにしても、個人の感覚、感情的な点が多く、こんな論争をしても結論は出ないだろう。
 
 暦の問題だから、まずは、日時の指定、識別の便宜の点でまず判断するのが筋であろう。感覚、感情の点で、折り合いが付かなければなおさらである。そうすると、元号はやはり使用しにくい、大いに問題があるものと言わざるを得ない。客観的に見ても、元号に頼って今後も表記を続けて行くのはそろそろ限界であろう。
 
 例えば、来年5月以降、どういう元号になるのかいまだにわからないこと自体、元号表記が出来ないのだから、表記の適否以前の論外の状況である。今回のような天皇の生前譲位の時ですらこうなのだから、崩御による代替わりの際はなおさらである。来年の(あるいは年が明けて本年になっても)カレンダーに記載できないものを、政府がぜひ国民に使えと言うのなら、もはや政治家の頭の構造を疑わざるを得ない。今朝(12月29日)の新聞報道によると、政府は役所や国民の業務に支障がないよう1カ月前に新元号を発表するようである。1カ月前というのは四月馬鹿なのか知らないが、1カ月以内の未来の予定だけで国や国民の用が足りると考えているとは、まさに馬鹿かアホウである。常識的には用を足そうと思えばせめて2年前には公表すべきである。むしろ、今後は、新元号に変わる際にもう一つ先の元号まで決めて公表するのがよい。たぶん、日本政府は、元号の使用を国民に推奨していないのだろう。国で制定しておきながらおかしな話であるが、とにかくカレンダー会社では大いに困ったらしい。私も困るので、以下、来年からの新元号を便宜上「新元号」と記載する。
 
 また、5月といった年の途中で改元すると、その年は、「平成31年」と「『新元号』元年」の二通りの呼び方が生じてしまう。同じ年について同じ方式で二通りの呼び方があるのはいかにも不合理である。こういうと、いやいや2通りは存在しない、4月30日以前は平成31年で、5月1日以降が「新元号」だと反論をする人がいるかもしれない。しかし、単に1つのまとまった「年」の呼び方を聞いているのに、4月30日という特定の「日付」を持ち出すのはさらに珍妙で不合理である。これだと「西暦2019年」を元号表記するばあい、「平成31年」または「『新元号』元年」で済むことが、「4月30日以前は平成31年で5月1日以降は『新元号』元年」というさらに長たらしい表現になる。また、平成31年4月からはじまる会計年度はどう呼ばれるのか。おそらく、その年いっぱいくらいは「平成31年度」と呼ばれるであろうが、将来「新元号」が耳慣れた頃になれば、「『新元号』元年度」と変わるのではないか。年度の呼び名が変わるとしたら相当不合理である。
 
 新元号が定着したあとも問題は続く、仮に「新元号」15年(西暦2033年)くらいになって、単に「10年4月7日」と記載した書類とか掲示を見たら、これはいつのことを指すのか? これを見たただけでは、2010年なのか、平成10年なのか、「新元号」10年なのか区別できない。しかし、それでも、この記載が誤っているとか無効であるとは言えない。書いた時点で違法性はなく、手落ちはあっても、無効ではない。しかし、結果的に、その日付がいつを指すのか、23年前なのか、35年前なのか、5年前なのか、いくら考えても判断できない。有効で信頼できない(あるいは役に立たない)書類というのは相当タチが悪い。そんな書類はないほうがマシなくらいである。例えば、現在、尺貫法を使って、米の値段を1貫目あたりいくらであると言って米を売ると違法である。1貫目が何kgか法律で定められていないし、そのため学校で教えないので、わからない人が多いからである。それでも、ネットで調べれば、1貫目が3.75kgであることがすぐわかり、内容が決まらないということはない。いっぽう、手落ちのある年の表記は、違法でなくても、間違ったり騙されたりで、被害を訴え出る人が出るかもしれない(現に、「12年製」とか「20年まで有効」とかいう記載の商品があるらしい)。違法性が無いのに騙される人が出るなら、法律の根本的な問題ではないか。尺貫法を使う方がまだましである。
 
 従って、元号は、このままでは、今後はますます使われなくなるであろう。公的にも、できるだけ使用しないようにするよう、推奨するほかないのではないかと考える。
 
 元号が使われなくなると、明治文化とか・文化・文政文化(化政文化)などと文化の時代の指標がなくなり、イメージがしにくい、と言ったような意見にもどろう。ここで、そういう人に私は質問したい。それでは、明治元年と文政元年の間には何年の違いがあるか知っていますか? 西暦ではそれぞれ1868年と1818年で、ちょうど50年である。これは西暦に変換するとすぐにわかることだが、西暦に変換できない人は明治と文政がちょうど50年の違いであることを知らなかったであろう。こんな単純なことを知らずして、明治文化とか文政の文化とか論評する人を一知半解というのではないか。歴史文化の評価にも、西暦との換算が不可欠である。
 
 じゃあ、江戸時代の人はどうしていたのか、例えば、「文政」は13年12月10日に「天保」に改元されたが、その頃の江戸時代の人は、契約書などに未来の年を示すのに、干支を用いた。つまり、今年が亥年として、3年間の借金をするなら、寅年に返済します、という借用書を書いたのである。年の途中に文政13年が天保元年に変わり、かつ、当時は改元を大々的に報じるマスコミもなかったから、いつ改元があったかよく知らない人も多く、文書には、改元後も文政13年(ヘタをすると文政14年)などと誤った記載をした人もあったであろうが、書面上は問題なかった。それは干支(※十干十二支)を年に併記したからである。多くの場合、人々は干支を覚えていて、文政庚寅十三年、天保庚寅元年、天保辛卯二年などと書いた。当時は、多くの場合、天保二年よりも「辛卯」が識別に役に立った。江戸時代でも、干支との併記によって識別をするというシステムができあがっていたのである。(※干支は、十干と十二支の組み合わせのことで、「甲子」に始まり「癸亥」に終わる連続した60年が識別できる)
 
 それでは、今後はどうすればよいのか。外国からの移民も増えるであろうし、西暦との併用をするしかないであろう。お役所はともかく、一般人や民間会社は併用がめんどうだから西暦だけになるだろう。これを新しい時代の流れとか日本(国粋)文化の敗北とか嘆くのは当たっていない。上に述べたように、江戸時代の日本でも干支という中国から移入した方式に重きを置いた併用をしない限り元号は使えなかったのである。つまり、外国の表記方式と併用するというのが、すでに日本の元号の古来からの伝統なのである。 
 
  それでは、良いお年(2019年、平成31年、「新元号」元年)をお迎え下さい!


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