「銀河鉄道」100号の歩み
 
上原 貞治
 
 西中筋天文同好会会誌「銀河鉄道」のこれまでの歩みについては、以前より折に触れて披露して来ましたが、今回は、100号記念号ということで、その全般についてまとめておきたいと思います。
 
 「銀河鉄道」の100号は、大きく分けて、4つの期に分けられるのではないかと思います。第1期となる最初の33号は、私たちが、中学生、高校生の時に発行されました。この頃、「銀河鉄道」は「月刊」ということになっていて、表紙も月刊と銘打っていました。これは、毎月発行するぞー というプレッシャーを自らに課していた趣旨と受け取れます。実際、別記事の「総目次」を見ていただければわかることですが、この33号の発行には、ちょうど3年、つまり36カ月がかかっただけで、ほぼ月刊が達成できていたことになります。ちなみに、発行されなかった月は、1973年2月(高校入試のため?)、同年7月(夏休みで8月と合併した)、1975年8月(この期間最後の33号の編集に念入りに2カ月をかけた)で、それぞれ立派な理由があり、銀河鉄道の発行は完全にルーチン化(おそらく週単位の編集スケジュールが常態的に機能していた)されていたことがうかがえます。この期間が「銀河鉄道」の最盛期であったといえます。
 
 第2期は、"Vol.2"と銘打たれた15号がこれに相当します。これは、高校を卒業した年の夏からその後の3年目まで(1976〜78年)で、高校卒業後すぐ大学生になった人にとっては大学1年から3年までの期間にあたりますが、会員には就職した人も浪人した人もいるので、各人については必ずしもそうではありません。「銀河鉄道」の復活は、いわば既定路線で、大学に入って落ち着いたらまた発行しようということは考えていましたが、第1期のあと休刊した時の高校3年生には復活できるかどうかについてはまったく分からない状態でした。とにかく復活できたことは大仕事が達成されたような感慨のあるものでした。第2期においても、最初は「月刊」を目指しました。しかし、これはなかなかたいへんなことでした。それは、会員がそれぞれ日本各地の遠隔地に住んでいて、当時は電子メールなどという便利なものはなく、原稿は郵便が頼りですから、とても週単位の編集スケジュールなど組めないのです。また、貧乏下宿学生ですから、手元に定まった印刷手段がない、発送が郵便で送料がかかる、というのも障害となりました。それでも、大学の休みに帰省して固め打ちで発行するなどして、最初の10カ月で9号を発行することができました。しかし、その後、発行がだんだん間遠になってきて、28カ月で15号を発行した通巻48号のあと、会員の会合である観測会も途切れてしまい、ここで自然停止してしまいました。この停止の最大の理由は、私がもはや遠隔地に住んでいる会員と連絡を取り続けて原稿を請求するだけの体勢も気力も失っていたことにある、と思います。こうして、「銀河鉄道」はその後、長い休止の期間に入りました。
 
 第3期は、1990年代に発行された2号、つまりこれまでのところ最後の印刷版(49号)と最初のWWW版ということになります。この2冊は発行形態は大きく違いますが、発行の状況には大きく共通しているものがありました。それは田中氏が当時最新の技術と工夫を持って発行したということです。1994年8月発行の印刷版49号は田中氏によってワープロで編集されています。でも、私がその原稿をPCで書いて電子メール添え付けで送ったかというとそうではないのです。掲載記事の一部は1980年代後半から手書きの原稿で書いていたもので、それをあとからワープロに入力し、また、当時は、電子メール添え付けファイルも、PCとワープロ互換のファイル形式もありませんでしたので、結局プリントアウトした紙を郵送したものと思います。そして、それを田中氏が一冊の会誌にまとめてくれました。これが当時の最新技術だったのです。そして、その2年後に、ほぼ同じコンセプトで出されたのが、最初のWWW版でした。この2年間の世の中の進歩はめざましく、ウェブのHTML形式は、もちろんテキスト平文の電子メールとして送れますから、ここに「銀河鉄道」の原稿がネットを走ることができるようになったのです。流星観測会などのリアルな会合を含めて、1990年代は西中筋天文同好会の2度目の復活の時期となりました。
 
 第4期は、第3期にそのタネがすでに撒かれていました。それは、教育機関のサイトを借りて、一時的に教育的・技術的試験として掲載されていたWWW版第1号(通巻50号)を自前のサイトで再公開することをきっかけとして始まったものです。世の中のWWWサイトは、当初は研究機関、教育機関が主体となっていましたが、その後、一般企業や個人の開設が普及するようになっていたので、遠からず西中筋天文同好会も自前のサイトを持つことが私の目標に入っていました。そして、2000年に、ダイヤルアップ回線によってその第1号の再掲載が達成され、同年、それほど間を置かずにWWW版2号の掲載をしました。その後、同じ年の5カ月後に3号を発行し、その後は、ほぼ4カ月に1号のペースで現在まで発行を続けています。
 
 思えば、この4つの期のそれぞれの最初の号というのはそれなりに大きな節目であったと思います。100号を構成する各号の意味と重要性は、積み重なったビルディングブロックとしてはどの号も同じでしょうが、形態の変わった時の号はその後の「銀河鉄道」を引っ張っていくだけの力を持っていました。これについては、田中氏の力が圧倒的に大きく、第1期、第2期、第3期の最初の一つはいずれも田中氏の大いなる決断によって発行されたものです。私には、歴史を継続すること(あるいは中断させること)はできるのですが、最初の一発についてはとても彼の力に及ぶものではありませんでした。それでも第4期についてWWW版の継続を図れたのは上出来だったと思います。ウェブは、印刷物の発行と比べれば、手間から言っても金銭的に言っても、相当楽です。紙などの材料を買い集める必要もなければ郵送料も必要ない、ファイルを作ってアップロードするだけですから、便利な世の中になったものです。ウェブの技術がなかったら、おそらく「銀河鉄道」は51号くらいで、また中断していたことでしょう。
 
 してみれば、重要なブリッジとなった1990年代に、WWWが誕生し、普及したことは、とてもラッキーでした。今回は100号記念号ですが、思えば、50号記念号というのはできませんでした。実は、私には、48号の発行をした時に、すでに50号記念号発行のプランがあって、その表紙のデザインをすでに考えていました。順調にいけば、50号記念号は、1979年の正月くらいに発行されるはずでした。しかし、私には、もはやその原稿を集めるプランがまったくありませんでした。そして、実際の50号は、1996年に田中氏によってWWWという過去には思いもよらなかった不思議な技術によって発行されました。そのために、それは、記念号と銘打つだけの余裕もなにもなかったのですが、会誌をhtml形式で発行するという時代を記念するものとなったのです。そして、それ以来、今号までのWWW版の51号は、すばらしい技術によって、世界の読者の方々に公開させていただけるものとなりました。44年間、「銀河鉄道」は本当に幸せな歩みを続けています。感謝の念に堪えません。
 
 

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