物理学から見た時間(第2回)
                        上原 貞治
 
はじめに
 連載第2回目に「はじめに」などというのはおかしいのであるが、どうせ少しおかしいことをしようとしているのだからお許しいただきたい。
 先日からしばらくかかってようやく「銀河鉄道」のCD-ROMを作ったのであるが、その作業中持った感想に「なんと中断された連載が多いことか」というのがある。これは私だけではなく他の著者の連載にも見られることである。でもこれはやむをえないことである。我々は、出版社から要請されて原稿を書いているわけではないし、読者から購読料をいただいているわけでもない。著者に続ける気がなくなれば連載は何の障害もなく中断されるわけである。また、会誌が休刊になったり不定期発行となるとこの状況に拍車がかかることになる。
 過去に引きずられて生きる必要はもとよりないが、精算していない過去を清算できるものならしておく方が良かろう。だから、11年前に書いた、印刷版「銀河鉄道」第49号掲載の連載(ホームページにOCR復刻版掲載中)を今回完結したことにさせていただく。
 
 
3.相対性理論における時間
 それまで時間が持っていると思われていたひとつの重要な概念は、相対性理論の登場で崩れることとなった。それは、「万人は同じ時間を共有している」という概念である。我々は、普段、ある時間の瞬間(たとえば2001年7月1日日本時間正午)を全世界の人と「同時に」共有していると考えている。しかし、相対性理論はそうでないことを主張するのである。
 相対性理論によると時間は「相対的」である。相対的というのはどういうことであろうか。「空間」は間違いなく相対的である。新幹線に乗って東京から名古屋に向かっている人がいるとする。この人にとっては、東京はどんどん後ろに遠ざかるし、名古屋は前からどんどん近づいてくる。窓から国道を見ると、名古屋に向かっている車でさえ後ろに遠ざかっていく。これは見慣れた光景であり何の違和感もない。名古屋から東京に向かう新幹線に乗っている人にとっては、状況は正反対になる。これに矛盾があるわけではない。どちらの人が正しくてどちらの人が幻想にとらわれているというわけでもない。「空間」というのは見る人によって違う。そういうものなのだ。
 時間も同様に相対的である。新幹線に乗っている人の時間と地上にじっとしている人の時間の進み方は違うのである。ただ、違いが非常に小さいため、それに気がつかないだけである。時速250kmの新幹線に2時間乗ると1億分の0.02秒(0.2ナノ秒)くらい時間の進み方が違うはずである。
 これはわずかの違いなので実験で証明するのは無理であるというのは間違っている。光速に近い速さで飛ぶと時間はいくらでも伸びていくのである。たとえば、宇宙線の主成分であるミュー粒子には寿命があり、単純計算では光の速さで飛んでも600m程度で壊れてしまう(電子とニュートリノ2個に変化する)はずなのに、大気の上層部で作られた後、その10倍以上の距離を飛んで地上に達する。これは、時間が相対的であるためである。宇宙線のミュー粒子にしてみると自分は600m÷光速度=2マイクロ秒しか飛んだつもりはなくても、地上の我々から見るとその10倍以上の時間を飛んでいるのである。
 とすると、1つのミュー粒子は個人的な時間(固有時間)を持っていることになる。同様に、我々人間も各人がそれぞれの個人的な時間を持っていることになるのである。地球上に住んでいる人の固有時間は誰も皆似たようなものであるが、宇宙に目を向けてみよう。宇宙のところどころで時間の進み方が違うというのはそれほど突拍子もない考えだとは思えない。相対性理論は、「唯一の時間の中に宇宙がある」という考え方が間違いであることを教えてくれた。「宇宙の中のあちこちのそれぞれに時間がある」というのが正しい見方のようである。
 相対性理論における「時間の相対性」を如実に示す例として「同時性の相対性」というのがある。これは常識に大いに反することであるが、2つの事件が同時に起こったか、あるいは、一方が他方より早く起こったかどうかは観測者によって異なるというのが起こるのである。たとえば、名古屋の7月1日正午と東京の7月1日正午はもちろん同時であるが、新幹線に乗っている人にとっては同時ではないのである。江川投手以来の久しぶりの野球の例を出そう。バッターがセーフティバントをして一塁まで疾走したとしよう。ボールを拾ったピッチャーも一塁手に好送球をしてきわどいタイミングになったとする。一塁手は左足で一塁ベースを踏みながら左手で捕球したとする。この捕球の瞬間とバッターが一塁ベースを踏む瞬間のどちらが早かったかというのが判定になる。しかし、ファーストミットと一塁ベースは違う場所にある。違う場所で起こった事件の時間順序は観測者によって違うことがあり得る。たとえば、止まっている一塁手と走り抜けるバッターでセーフ・アウトの判断が違うことが原理的にはあり得るのである。(でも野球の判定には問題はおこらない。判定をするのは審判だからである。)
 相対性理論のもう一つの特徴は、時間と空間の対称性である。相対性理論では時間は空間とほとんど同じ性質で混じり合いながら座標変換される。このことは物理法則を考える上で非常に重要である。もしある物理法則が相対性理論と矛盾しないのであれば、それは相対性理論による座標変換で不変になっていないといけない。ということは、相対性理論では時間と空間とが対称的に混じり合いながら変換されるのであるから、もとの法則においても、時間と空間はある対称性を持った表現になっていないといけないのである。つまり、相対性理論が正しいならいかなる物理法則も究極的には空間と時間の間にある種の対称性が要求されるのである。これは、多くの場合、大変厳しい制限となる。我々は、もう空間と時間を別々のものとして考えることができなくなっているのである。
 
4.量子力学における時間(その1 不確定性原理)
 相対性理論は時間に対する観念を革命的に変更したが、量子力学のなした役割もそれに引けを取るものではなかった。
 量子力学はミクロなサイズ、つまり、原子や原子核、素粒子といったごく小さな世界での現象を記述する理論である。しかしこれはマクロの世界(人間の目に見えるくらいのスケールの現象)とのつながりがないということではまったくない。ミクロの世界が積み重なってマクロの世界を作っているのであるから、量子力学は基本的にはマクロの世界を説明できるはずである。また、我々は科学の進歩によりミクロの世界を直接測定したり操作できるようになってきた。これは、ミクロの世界が測定結果を通じてマクロの世界に直接影響を与えているということにほかならない。ミクロの世界は我々の日常世界と直接つながっているということを念頭に置いておく必要がある。
 量子力学の重要な帰結のひとつに「不確定性原理」というのがある。「不確定」というのは「はっきり決まらない」という意味である。これを説明しよう。
 量子力学は、1900年のプランクによる光量子仮説からスタートしたものとされている。光量子とは、光が粒の状態でエネルギーを運ぶ状態を指す。光の粒の一粒(光子)が運ぶエネルギーの量は光の振動数によって決まっている。光が振動していることは以前から知られていた。光は「波」であるから、振動数=光速度÷波長 である。 プランクの法則 E=hνで、νが光の振動数、hはプランク定数、Eが光子1個の運ぶエネルギーである。
 プランクの発見は大発見であったが、そののちハイゼンベルクの理論的研究により、さらなる驚天動地の発見がなされた。それは、プランクの式によく似ている。
 
 ΔE・Δt>h/(2π)
 
 この式の意味するところは何か。それは、ある現象に関わったエネルギーとその現象が起こった時刻を測定した場合、それらの測定精度、ΔEとΔtの積は h/(2π)より必ず大きい、ということである。言い換えれば、エネルギーと時刻の両方を限りなく精密に測定することはできない、という意味である。この法則は単に測定器の限界を示したものではない。物理現象は本質的にこういうものであり、測定器の能力に関わらず現象自体として元々これだけの「不確定性」を有している、ということである。
 次のような例でこのことは納得していただけるだろう。水銀灯や放電管の光をプリズムにかけて分光するといわゆる「輝線スペクトル」というものが見える。これは、原子が決まった波長の光を放出する性質を持っていることから起こるのである。なぜ原子が決まった波長の光を放出するかというと、それは、原子の中には多くの電子軌道があって、ある軌道にあった電子が別の軌道(より位置エネルギーの低い)に移ったとき、そのエネルギーの差だけのエネルギーを持った光子を放出するからである。簡単に言えば、電子の位置エネルギーが減少する分だけ光子にエネルギーが移る(エネルギー保存則)というわけである。
 さて、ここで「時間的順序」が問題になる。電子は別の軌道に移る前に光子を放出するのであろうか。それとも移ってから放出するのであろうか。移る前(あるいは移る途中)には、電子はどれだけ自分の位置エネルギーが減るのかまだ知らないであろうから、特定のエネルギーの光子を放出することはできない。何せ放出される光子はたった1個の粒であるから小出しに放出するということもできない。では、移ってから光子を放出するのか。そうすると電子が移動を始めてから光子放出するまで間はエネルギー保存則が成り立たなくなるではないか!
 「不確定性原理」はこの事態を救ってくれる。2つの電子軌道の位置エネルギーの差程度のわずかなエネルギー(ΔE)の保存・非保存については、時間Δt=h/(2πΔE)くらいの時間ではエネルギー保存則が問題にならないのである。つまり、エネルギーの移行量が小さいため、時間がごく短い時間はエネルギー量が確定せず、エネルギー保存則が満たされなかったとしても問題にならないのである。だから、電子が軌道を移る時刻と光子が放出された時刻の前後関係を問うこと自体意味がないのである。その順序が確定しているはずがないからである。でも、これは「エネルギー保存則」がおおよそにしか成り立っていることを意味するものではない。長い時間をかけてエネルギーを測定すればエネルギー保存則は厳密に成り立っている。この例では、放出された光子のエネルギーを測定器でじっくり測定することによっていくらでも精密に測定することができる。そして、その値は、電子軌道間の位置エネルギーに精密に対応しているはずである。(だからこそ、幅の狭い「輝線スペクトル」が見られるのである。)
 人間社会にも似たような例があろう。ある会社では、会社全体の収支を毎月十万円単位の概算で決算報告するものとしよう。そして、年に1回だけ、前年度の総収支を円の単位まで正確に報告するものとしよう。ここに不心得な社員がいて、会社の金を私用のために無断で借り出したとしよう。この借金が十万円以内であれば、年に一回の正確な決算をする前に返しておけば、月ごとの決算で発覚するおそれはない。しかし、十万円よりずっと多くの金を借り出すと1カ月後にばれてしまう。また、十万円以下であっても1年以上返さずに放っておくとやはりばれてしまうのである。
 短い時間というのは確定しない「もやもや」としたイメージである。しかし、それはエネルギーの大きさと対応している。大きなエネルギーをつぎ込むと、大きなΔEが生じる余地ができるので、時間はすっきりと確定できる。
 今述べたのは、エネルギーの大きさとのかねあいで決まる時間の不確定性である。では、エネルギーが高くなればどんどん時間の決定精度は良くなるのであろうか? 現代の技術で実験できないほどの高いエネルギーのことは仮説の域を出ないが、「プランク時間」という極小時間のことが論ぜられている。「プランク時間」は重力の量子的揺らぎと関係している。素粒子の質量は小さいので、個々の素粒子の及ぼす重力はごく小さいものである。しかし、素粒子が非常に小さいのでそれに限りなく近づいていけたら......重力は距離の2乗に反比例して大きくなる。重力のエネルギーの不確定性と重力の伝わる時間(重力の及ぶ距離を光速で割ったもの)の積がプランク定数程度になる(これは10のマイナス43乗秒くらいであるが)と、この時間スケールでは時空構造が重力の揺らぎの影響を受け、単純な理論が通用しなくなる。きっと、このくらいの時間スケールになるとただごとでない物理法則が必要になる。ひょっとすると、時間は「プランク時間」程度で連続体ではなくなっており、時間の最小単位があるのかもしれない。
 
5.量子力学における時間(その2 観測問題)
 量子力学は、時間の概念にさらに大きなインパクトを与えた。それは、観測問題である。観測問題はかなり広い概念を含んでいるが、ここでは波束の収縮に伴うEPRのパラドックスを取り上げる。
 光は波であると同時に粒子である、といわれている。これはどういうことであろうか。ヤングの2重スリット実験というのがある。黒い紙に細いスリットを接近させて2本開け、そこに光を当てると、背後のスクリーンに干渉縞が現れるというものである。この場合、スクリーンの位置に光電管をおくと光を1個1個の光子として観測することができる。観測されたのは、非常に小さい粒である光子(もちろん、2つのスリットの間の距離よりはるかに小さい)であるにもかかわらず、この光子がスリットのどちらを通ってきたかは指定できない。指定できれば縞模様はできないはずである。強いて言えば、両方を通ってきたとしか言いようがない。これが光の波としての性質である。空間にある程度広がりをもつ塊のような状態で2つのスリットを通過し(これが波束のイメージ)、光電管にあたったときに1個の光子になったと考えるのである(波束の収縮)。なぜ、波が急に光子になるのかは簡単には答えられないので取りあえずは問題にしない、というのが伝統的な量子力学の適用方法である。ここで、波→粒子 の変化が起こっているのは時間反転対称を破っているではないか、という問題も指摘されているが、ここでは取り上げない。
 さて、EPRのパラドックスの説明をしよう。EPRは、3人の物理学者、アインシュタイン、ポドルスキー、ローゼンの頭文字で、これらはこのパラドックスを指摘した人々の名前である。ここで、2個の光子を考えてみよう。この2個の光子が同時に生成された場合、この2個の光子は特殊な関係にあると言える。そして、この2個の光子は、最初は1つの波束(より正確には波動関数)になっていると見なすことができる。2個の光子が正反対の方向(東と西)に飛行して行く場合、この波束はどんどん広がっていくことになる。そして、東の方に測定器を置くと1個の光子が検出され、その瞬間に西の方も1個の確定した光子となるのである。「東のもの『がこれこれこういう状態にあること』を測定した」という情報が瞬時に西の方まで伝わるはずはない(光速より速いものはない!)ので、波束の収縮が波束全体で一挙に起こったと考えるしかない。この場合、東の光子と西の光子の関係で満たされるべき保存則(たとえば運動量保存則や角運動量保存則)は、正確に満たされている。精密な測定により、測定値が測定以前にあらかじめ決まっていたという説(隠れた変数説)も否定されている。測定値は、確率的に決まるものらしいのである。
 波束は一挙に収縮し、保存則を満たした2個の光子となるのである。この光子の性質はどこから与えられるのであろうか。それが、東から西へ時空内を伝わったものではなく、また、元々、存在していたものでもないととすると、時空の外から与えられた考えるほかはないのではないか。
 ここにごく弱い放射能を持った放射性物質があるとする。この物質は1時間に平均1個のアルファ線を放出するとする。午前11時にアルファ線検出器を持ってきて側に置き、この放射性物質が12時までに1個以上のアルファ線を放出した場合は、昼ご飯にカツ丼を食べることにし、アルファ線が1個も放出されなかった場合は、昼ご飯にうどんを食べることにあらかじめ決めたとする。アルファ線が1時間以内に出るか出ないかは確率事象である、というのが伝統的な量子力学の見方である。
 アルファ線は、原子核の表面から漏れたアルファ線の波束が原子核から離れたところで収縮することによって、外に飛び出してくる。この人が昼ご飯にカツ丼を食べたかうどんを食べたかは、時空の外から決定されたことになるのであろうか。
 
6.終章−−時間とは結局何なのか
 時間とは何なのか。それはどこにあるのか。最後にこの問題を考えてみたい。
 相対性理論によると、時間は空間と同じようなものである。空間は宇宙の中にある。では、時間は宇宙に中にあるのであろうか。
 宇宙は、百数十億年の昔、ビッグバンという爆発で始まったという説が有力である。時間が宇宙の中にあるとすれば、時間はこの時に始まったと考えて良いだろう。そうすると、「二百億年前」という時間(時刻)は存在しなかったことになる。これもしっくりこない。でも、宇宙がまだなかった時に時間があったというのもへんである。何もない時には、時間もなかったのでないか。もしそうならば、「時間がなかった『時』」というのもおかしな表現である。「時間がなかった『時』」というのはそもそも無かったのではないか。そうすると時間はずっとあったのか。
 この混乱を解く一つの説明は、つぎのようなものである。−−時間は宇宙の中にある。宇宙はその内部に時間と空間を一挙に内包したひとつの巨大な塊として存在していると考えるのである。そして、宇宙の外には時間も空間もないのである。この宇宙の端の方にはビッグバンの熱い点があり、現在の我々はビッグバンより百数十億年未来の方向に隔たった場所にいるのである。
 素粒子物理学によると、宇宙が出来始めたころには、宇宙はもっと高次元であった(10次元以上らしい)という。そして、そのうちの3次元が空間となり、1次元が時間となり、のこりは、現在では小さく折り畳まれて、素粒子の性質を対応するような次元(たとえば、電子にはマイナスの電荷を、陽子にはプラスの電荷を与えるような)となったという。時間は多くの次元の1つに過ぎないというのである。そうすると、時間は、宇宙の内部でのみ存在するものであり、かつ、素粒子からできている物質との関わり合いのもとで始めて存在できるものなのであろうか。
 連載第1回で時間反転対称性について述べたが、素粒子物理学の実験で時間対称性が破れている現象が見つかっている。中性K中間子と呼ばれている素粒子は、反中性K中間子に変化する「振動」という現象を起こしているが、ここで時間反転対称性が破れているらしい。しかし、時間反転における非対称性は、空間と粒子反粒子反転の非対称性によってキャンセルされているらしく、グローバルには維持されているらしい(粒子と反粒子の対称性については、銀河鉄道WWW版第3号を参照のこと)ので、この非対称性は、それほど根元的な非対称ではないだろう。それよりこの事実は、時間の基本的な性質が、素粒子の性質によって規定されていることを示しているように思われる。
 
 どうやら時間は、宇宙の中で唯一無二の絶対神のようなものではなく、物質との関わり合いながら、宇宙を構成しているいくつかのモノのうちのひとつ、すなわち、"one of them"に過ぎないらしい。これが、物理学から見た時間の結論である。
 
 一方、我々の感覚では時間は万物を支配しているように見える。我々は、時間の流れの中で、成長し、仕事をし、そして死んでゆく。我々は、自身が死すべき存在であるが故に、時間を絶対的なものとしてとらえているのであろうか。いやいやそうではあるまい。人間以外のもの、たとえば、美しい花も、磨き上げられた建造物も、精妙な機械も、時間とともに色あせていき、朽ち果てていくことは止めようもない。無生物である恒星も銀河も成長して最期には死を迎えるのでないか。これは何故だろう。物理学者は、エントロピーが増大するためである、と答えるかもしれない。それならば、そもそも、何故、宇宙の中に、規則正しい形をした銀河や花が存在しているのであろうか。宇宙の中において、時間は無生物にも生物にも誕生と成長と死というプロセスを与えているのではないか。それならば、我々、生物は、やはり、時間を絶対的なものとしてみるよう運命づけられているのであろうか。
 
 時間の正体を追求してゆくと最後には哲学的論議に至らざるを得ない。また現状では「物理学から見た時間」に限界があることも事実である。たとえば、物理学はなぜ我々が「私は、『今』ここにいる」という感覚を持つのか説明できない。時間は物理学の対象であるが、「今」という概念は物理学には登場しない。敢えていうならば、「観測を行った時刻をt=0 としよう」という程度の意味しかない。これは、『ここ』が「観測者がいる場所を原点Oとしよう」というの指しているいうのと全く同じことである。物理学は「今」という観念を人間の精神内にのみあるものとして位置づけるしかないのである。では、過去と未来の違いについてはどうか。物理学の法則はすべて「時間反転対称」になっているようである。(ただし空間と粒子反粒子の反転が要求される場合がある)しかし、どう考えても、時間は過去→未来と進んでいるのであって未来→過去と進んではいない。これは人間の精神世界内にのみに起因している問題ではない。地面を掘ると人間が存在していなかった過去に生きていた生物の化石が出て来るではないか。そして、人間の未来都市の「遺跡」が出てくることは決してあり得ないのである! この非対称性の存在は、常識では当然のことであるが、物理学で根本的に説明することは決して簡単ではない。
 
 そもそも、古来より時間について真剣な論議をして来たのは、哲学者や神学者であった。アウグスティヌス、カント、日本では道元、三浦梅園といった人々が時間に対して深い洞察を与えてきた。彼らは、思索によって時間の本質を記述しようと努力したのである。そして、物理学は、最近になってようやく、自らの発見による時間の本質についての重要な情報を提示しながら、これらの哲学の天才達と対等の議論に参加できるようになったのである。
                                 (終わり)