横道相対論シリーズ(5)
 
   「位置エネルギー」とは何か
 
上原 貞治
 
 
「エネルギー問題」と「位置エネルギー」
 昨今の日本では、エネルギー問題がたいへんなことになっている。とくに問題なのは、いわゆる「燃料」の選択と確保の問題である。
 今回問題にするのは、この燃料のエネルギーの「しくみ」に関することである。こういうと、勘の良い読者の方は、原子力とアインシュタインのE=mc2の関係の話だな、と思われるだろう。結局はその通りであるが、そこに一足飛びに行くわけではないし、それで終わるものではない。まずは、高校物理で習った(今は中学理科でも習う)「位置エネルギー」の復習から入らせていただく。位置エネルギーと原子力にどういう関係があるのかはお楽しみ。揚水発電の話はしません。
 
 中学ないし高校で習う「位置エネルギー」とは、おもに、地表付近で高いところにある物体が持っているエネルギーのことである。高さをh、地表の重力加速度をg、物体の質量をmとすると、位置エネルギーは mgh で表される。この位置エネルギーは、落下した時に運動エネルギーあるいは低いところに激突した時の衝撃のエネルギーに化ける。また、低いところに元々あった物を高いところに運んだとすると、その運ぶ時に消費したエネルギーをため込んでいるとも言える。だから、「位置エネルギー」なるものが存在するのは確かなようである。
 
 さて、問題は次の点にある。机の上に、たとえば砲丸が1個あるとしよう。それは机の下にある砲丸よりも大きいエネルギーを持っている。しかし、その位置エネルギーはどこにあるのか。砲丸自体は、机の上にあっても机の下の床の上にあっても違いはないので、砲丸をいくら見ても位置エネルギーの所在はどこにも見あたらない。砲丸の中に位置エネルギーがあるのでなければ、机か空間にそれがあることになるのだろうが、それも考えづらい。机や空間にあると考えるくらいなら、やはり砲丸にあると考えるほうがマシだろう。
 ここでさらなる問題が起こる。砲丸が位置エネルギーをその内部に持っているとしよう。その場合、砲丸の高さはどこから測るのか? mgh の hのことである。それは、机が置かれている床からの高さだろうと思われるかもしれないが、砲丸自体は自分が直接接していない床がどこにあるか知るまい。また、極端な場合、図1のように机が崖っぷちに置かれている場合、どちらの高さを採用するかによって位置エネルギーがえらく違うことになる。どうやら、砲丸の持つ位置エネルギーは、基準の設定によって変わり、確定しないものらしい。それならば、位置エネルギーが実体である砲丸の中にあるはずはなく、それは単なる思考の概念上のものに過ぎないのか。
 ここで、アインシュタインの登場である。E=mc2の式でわかるとおり、エネルギーは質量に変換できる。質量は物理的実体に伴うものだから、やはりエネルギーの一種たる位置エネルギーも物理的実体に宿るはずである。これはさきほどの考察と矛盾するので、なんとかこの矛盾を解かねばならない、と、ここまでが、今回の議論の問題提起である。


図1:崖の上の机の上の砲丸の高さはどちらを計るか? どちらにしても、砲丸の知ったことではない!
 
 
原子核エネルギー
  アインシュタインのE=mc2の関係を証明した典型的な例として、原子核の質量差を挙げることができる。ここで、原子炉の中で起こる核分裂反応を考えよう。ウラン原子核に中性子が当たって、核分裂が起こり、ウラン原子核がほぼ真っ二つに割れたとする。連鎖反応が起こるためには、ここで何個かの中性子が放出される。反応前のウラン原子核および中性子の総質量と、反応後の分裂片原子核2個と放出された中性子の総質量を比べて、反応後のほうが質量が小さい場合、この差の質量分にあたるエネルギーが運動エネルギーあるいは熱エネルギーに転化する。質量のエネルギーを含めたエネルギー保存則が成り立つからである。こうして生じた運動エネルギーあるいは熱エネルギーをエネルギー源として利用するのが原子力発電である。 
 
 さて、この原子核分裂において、分裂前と分裂後で、陽子と中性子のそれぞれの合計数は同じである。ではなぜ、分裂前と分裂後で質量の総和に差が出るのであろうか。それを説明するのが「質量欠損」である。陽子、中性子が寄り集まって原子核を作る場合、原子核の質量は、それを構成する陽子や中性子がそれぞれ互いに遠くばらばらに離れてある場合の質量の和と比べていくらか小さくなっている。これが質量欠損であるが、その欠損量は原子核の大きさによって違い、中くらいの大きさの原子核(鉄原子核)の場合が、もっとも欠損量が大きい。従って、核分裂が起こると、大きい原子核と小さい原子核の質量欠損の差のぶんだけ、質量差が生じるのである。この質量差が原子力の元である。
 
 では、なぜ、この質量欠損が起こるのかというと、これは一種の位置エネルギーなのである。陽子と中性子がくっついて原子核ができる時に、特定の陽子あるいは中性子は、他の陽子、中性子の集団に対して、位置エネルギーを持つ。それは、重力に基づく位置エネルギーではなく、「核力」に基づく位置エネルギーなのだが、位置エネルギーには違いない。この位置エネルギーは質量欠損がある場合は、「負の位置エネルギー」である。欠損があるのだから、それはエネルギーが失われていることを意味する。そして、地表付近にある物体の重力による位置エネルギーも実は「負の位置エネルギー」である。これは何を意味するのだろうか。
 
地球重力による質量欠損
 原子核で位置エネルギーによって質量欠損が起こるならば、地表付近にある物体に存在する位置エネルギーによっても質量欠損が起こるのではないだろうか。実は、まさにその通りなのである。地球と砲丸があるとして、これらが互いに遠く離れている時の質量和と、この砲丸が地表の机の上にある場合を比べると、後者においてほんのわずかながら質量欠損が起こっている。さらに、その砲丸が机の下の床にあるならば、その質量欠損はさらにほんのわずかだけ大きい。質量欠損はエネルギーの不足だから、これは「負の位置エネルギー」である。それでは、なぜ、学校で机の上にある砲丸は正の位置エネルギーを持っていると習ったのかというと、それは相対的なものの見方であり、机の上にある場合は机の下にある場合に比べて負の度合いが小さいということに過ぎない。ここで整理のためにまとめをしておく。
 
 地球と砲丸が遠く離れている状態をAとする。地表の付近の机の上に砲丸が載っている状態をBとする。机の下に砲丸がある状態をCとする。そのそれぞれにおける地球(机を含む)と砲丸の質量和を、それぞれ、m(A)、m(B)、m(C) とすると、
 
m(A)> m(B)>m(C)
 
の不等号関係が成り立つ。これが、エネルギーの大きさの序列と同じになっていることは理解していただけるだろう。机の下の砲丸(C)を机の上(B)に運ぶにはエネルギーがいるし、それを宇宙空間(A)に運ぶにはさらに莫大なエネルギーが必要である(※)。
 
 さて、最初にBの状態があったとする。その時の全質量は、m(B)である。この状態から砲丸が机の上を転がって床に落下したとする。そのあとは、砲丸と地球の全質量はm(C)になるかというとそうはならない。ならないというよりも、なれない。質量はエネルギーと同等であるから、エネルギー保存則がある限り、全質量も勝手に減ってもらっては困る。従って、m(B)−m(C)に対応するエネルギー分は(これこそが学校で習う正の位置エネルギー)、地表付近で別のかたちのエネルギー、運動エネルギーとか熱エネルギーに転化し、砲丸を含む地球全体としてはm(B)がキープされるのである。ここで m(B)−m(C)に対応するエネルギーは宇宙空間に逃げないと仮定している。しかし、このエネルギーの一部または全部が光エネルギーなどになって宇宙空間に逃げ出せば、そのぶんだけ地球全体の質量はm(B)よりも減ることになる。これが、地表物体が持つ位置エネルギーmghの正体である。位置エネルギーは、そもそもは別の形で利用できるエネルギーという実用的意味合いで考えられたものであろうが、宇宙から地球を眺めるならば、質量欠損がその正体なのである。
 
  ※ 地球と砲丸が無限に離れている場合を考えると、hが無限大になって位置エネルギーも無限大になるように考えられるかもしれないが、地球から遠く離れると重力加速度gが定数ではなくどんどん小さくなるので、位置エネルギーも有限の値に収束する。従って、m(A)−m(B)は有限である。m(A)も m(B)も言うまでもなく有限であるから、その差も当然有限である。
 
再び地表に帰還
 ここで再び、最初の地表の机のところに戻ろう。机の上の砲丸は、実際は、それが地球から離れた宇宙空間にあるときに比べて「負の位置エネルギー」を持っているのであり、床や崖下との比較における「正の位置エネルギー」は相対的なものの考え方に過ぎないことがわかった。だから、床に対する位置エネルギーと崖下に対する位置エネルギーが違っても何ら矛盾はないのだ。
 
 では、その負の位置エネルギーに対応する質量欠損はどこにおいて生じているのか。そのぶん、砲丸が軽くなっているのかそれとも地球が軽くなっているのか?これは難しい問題である。重力は地球と砲丸のあいだで作用反作用の法則によってそれぞれに同じ大きさで働いているはずだから、どちらか一方だけが軽くなっていることはないだろう。実証には実験をしてみるべきであるが、質量欠損の割合は、わずかにgh/c2以下であるから測定するのは非常に難しい。また、慣性質量にしても重力質量にしても、異なる重力下にあるものを比較できるよう正確な定義することも単純な問題ではない。しかも、電磁場の理論で知られているように、重力場という考えを導入すると「場」自体がエネルギーを持つことになる。重力の場合の「場」とは一般相対性理論によると時空間そのものであるから、物体だけがエネルギーを持つわけではない。このような難しい話はよくわからないので、ここでの追究はこの程度にしたい。
 
 それにしても、地表付近にある砲丸の質量が、それが宇宙空間にある場合よりも少しでも違うのなら、それの性質も少し違うのではないだろうか?これを人間に当てはめると、ある宇宙飛行士が地上にいる時と、宇宙空間に行った時で性質が違うことになる。実は、この問題については、原子核物理学である程度決着がついている。人間の体重の質量は、そのほとんどが陽子と中性子の質量に起因するが、陽子や中性子は、重力によってではなく、すでに述べたように原子核内で核力によって大きな質量欠損を起こしている。原子核を破砕する実験によって、内部の陽子や中性子の状態を探ることができる。その結果、質量欠損の大きい原子核中の陽子や中性子であっても、その元々の性質はほぼ維持されていることがわかっている。よって、質量欠損が多少生じたとしても、その性質がめだって変わるわけではない。
 
 最後に「燃料」問題に戻る。以上の事情は、化学エネルギー(これは、分子、原子中の電磁気力に起因する)においても同じことで、結論を言うと、石油などの「燃料」は質量欠損の小さい分子であり、それを燃やすと質量欠損の大きい分子集団(排気ガス)に移行し、その差がエネルギーとして取り出されて人々の役に立っているのである。
 
 原子や地球のような物質システムの内部における位置エネルギーの違いが、外部から測定できる質量の違いで説明できることは、井の中の蛙が大海を見たような大発見であったといえよう。しかし、だからといって、それで蛙は井の中のことがすっかりわかったとは言えないのである。
 
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