野尻抱影による宮沢賢治作品の 註解
 
上原 貞治
 
 
  日本の文学関係者で天文や天体の魅力を伝え読者を魅了した人というと、野尻抱影、宮沢賢治、稲垣足穂の3人の名が挙げられる。いずれもひと言ふた言ではそ の評価の一端さえ語ることの出来ない巨人であり、また、この3人は、人と星の関わりの方向性をそれぞれまったく異にしている。筆者は前回、「稲垣足穂の天文普及活動」(「銀河鉄道」WWW版第33号) を掲載したが、今回は、残る2人、野尻抱影と宮沢賢治両人のあまり知られていない関わりについて調べたことを述べる。
 
1.宮沢賢治全集註解の事実
 野尻抱影(1885-1977)と宮沢賢治(1896-1933) の生涯および活躍時期はオーバーラップしているが、後で見るように2人は会ったことはないという。また、賢治が生前に発表した作品は限られているから、抱影は賢治の生前に賢治の作品を読んだことがなかった可能性が高いだろう。一方、賢治は抱影の星座解説本などを読んだと推測されるが、はっきりとした証拠については聞いたことがない。しかし、ここで取り上げるのは、賢治の死後に抱影が行った仕事についてである。
 抱影が賢治についてどのような感想を抱いていたかを知るよすがとなる資料は今日では極めて乏しい。しかし、抱影は、賢治の死後に出版された宮沢賢治の作品の全集に註解をつけたことを自ら述べている。その記述は、抱影が弟子の草下英明の著書『宮沢賢治と星』(昭28)に与えた序文にある[1]。以下その部分(「序」の前半)を引用する。
 
  宮沢賢治氏の詩や童話に、星座と星が実に自由に、時には奔放に採り入れられていることは、私たち天文ファンを常に驚嘆させる。而も日本に於けるこの趣味の萌芽期に、「銀河鉄道の夜」「よだかの星」などの名作を書いた博識とファンタジーとは永く記憶さるべきだろう。私は曾って藤原嘉藤治氏から依頼されて、全集の為めに天文関係の言葉を註解した。しかし屡々迷路を引き廻されたり、氏の創作らしい星座や星にもぶつかって、疑問に残ったものも少くなかった。
 
 つまり、野尻抱影は、藤原嘉藤治が編集に関わった全集に註解をしたというのである。
 
2.どの作品に註解がつけられているか
 『宮沢賢治と星』の発行以前に出版された宮沢賢治の全集で藤原が編者に名を連ねているのは、文圃堂書店「宮澤賢治全集」(昭9〜10)と十字屋書店「宮澤賢治全集」(昭14〜19)の2種である。今回、筆者は、この2つの全集の全巻に目を通したが、作品に出てくる言葉に註解がつけられていたのは、十字屋版全集の第一巻と第二巻の2冊のみであった[2]。そこには、確かに天文関係の用語がピックアップされ、註がついていて、これらが野尻抱影によって与えられたということなのであろう。以下これについてさらに詳しく調べてみた。
 十字屋版全集第一巻、第二巻のそれぞれの巻末に「語註」があり、そ れぞれの先頭ページに藤原嘉藤治の「語註に就て」という説明と凡例がある。先頭ページの内容は両巻で同じである。ところがそこに野尻抱影の名は出ていないし、全集の他の部分のどこにも野尻抱影の名はない。だから全集を見ただけでは野尻抱影が賢治作品に語註をつけたかどうかはわからない。
 今のところ草下著『宮沢賢治と星』の序文以外に抱影が註解をした事 実の根拠を求めることはできていない。この序文は昭和50年に再刊された学芸書林版『宮沢賢治と星』では省略されている。昭和28年版は500部限定の自費出版であったので、抱影が賢治作品に訳註をつけた事実はあまり知られていないと思われる(と申す私は宮沢賢治の研究家ではないので、有識諸氏のご批判をたまわりたい)。
 次に、抱影が註解をつけた賢治作品であるが、十字屋版全集第一巻、 第二巻に収録されている作品のすべてに語註がついている。それらはすべて詩集で、「春と修羅 第一集〜第四集」、「東京」、「三原三部」、「装景手記」、「文語詩稿 五十篇」、「文語詩稿 百篇」、「文語詩未定稿」であるが、これらのうち、「春と修羅 第四集」以降の作品には抱影の手を煩わせたと思われるような天文用語が語註にない。したがって、抱影が註解したと見られる作品は「春と修羅 第一集〜第三集」だけである。全集第三巻収録の「銀河鉄道の夜」に抱影の註解がないことはまことに残念であったが、この際、そこまで望むのは贅沢というものであろう。
 
3.すべての天文用語を抱影が註解したのか
 「春と修羅」は宮沢賢治が1922年以後比較的長期にわたって書き、それらを集めた詩集である。そこには難解な天文用語や牽強付会、造語とも思われて意味の判読できない言葉まで含まれているが、十字屋版全集にはそのような語、たとえば「骸骨星座」、「昴の塚」、「レオノル星座」などにもちゃんと語註がついている。このような註の中には、抱影でないと書けないと思われる記述も含まれている。たとえば「昴の塚」ではスバルを九曜信仰・密教信仰と結びつける解説を行っている。これらが抱影によって書かれたものであることは間違いないだろうし、もとより抱影が草下に与えた序文の記述を疑う理由はない。しかし、より一般的な言葉を含めてすべての天文用語の註解を抱影が与えたのか、また、抱影はいつこの註解を執筆したのかは別途あたらねばならない事柄である。藤原の「語註に就て」の冒頭には次のように書かれている。
 
 この語註の大部分は昭和十一年末に、宮澤賢治研究の第五六号に発表したものである。今回これを増補訂正して、全集の第一巻及第二巻の附録として各巻の結尾に載せることにした。
 
 この「宮澤賢治研究」5・6合併号(昭和11年12月)に掲載された藤原の語註は、「宮澤賢治研究資料集成」第一巻[3]に収録されている。そこを見ると十字屋版全集の語註とは異同があり、まず項目数が少ない。例えば、「昴の塚」、「レオノル星座」の語註が与えられていない。また、同じ見出し語があっても内容の分量が少ない場合もある(下に引用する「骸骨星座」がそうである)。協力者の名前がはじめに列挙されているが、ここにも野尻抱影の名前はない(これはすべての註解者・協力者の名前を列挙しているわけではないので、抱影が協力していないことの証拠にはならない)。参考のために、春と修羅 第一集「ぬすびと」でてくる「骸骨星座」についての十字屋版の語註[2]を引用し、昭和11年版[3]との違いを例示する。
 
 骸骨星座 龍骨座のことか。大犬座の南方にある。アルゴン座を便宜上四分した中の一つで三月下旬の夕刻南中する。(中略)ア星カノープスと呼ばれ(中略)実際の光輝は太陽の数千倍もあると推測されてゐる。[或は夜明け方の星の感じを形容して云った語とも思はれる。](最後の[]内の部分は、昭和11年版にはない)
 
 以上、昭和11年版の語註は、天文の専門家でなくても事典や天文書を参照して何とか書ける程度のものと思われ、抱影が書いたものという状況証拠をつかむことは出来なかった。どちらかというと、上の例に挙げたような興味深そうだけれども専門用語にもない言葉が取り上げられていないこと、抱影がいったん公表された語註を再度依頼されて改訂したことは考えにくいことから、昭和11年以前には抱影に註解は依頼されず、十字屋版全集において初めて、抱影の註解が藤原の手によってそれ以前の他人による語註と合体された形で完成した可能性が高いと考える。
 また、内城弘隆氏による「宮澤賢治の友人 かとうじ物語」の「8、宮澤賢治全集に全力尽くす」[4]にこの辺の経緯が書かれている。これから、抱影の執筆時期を明瞭に特定することは出来ないが、その記述の順を時間的順序と見なして読むと、抱影が註解したのは文圃堂版全集が再版された以後で十字屋版の出版に取りかかった以前、すなわち昭和10〜14年の間ということになる。抱影は、賢治が没した数年後に、「春と修羅」第一〜三集に現れる天文用語を検討し全集出版のための註解を与えていたのである。
 
4.補足(1)〜草下氏の著書との関連
 上記の草下英明著『宮沢賢治と星』にも「宮沢賢治の作品に現れた星」と題する天文用語の語註のようなものが含まれている。これは、十字屋版全集の語註を意識したもので、その内容を批判するような記載も含まれている。これについて、日本ハーシェル協会の角田玉青氏から、抱影が賢治作品の註解を手がけていたことを草下は自著校了の直前に序文が届くまで知らなかった可能性がある、との指摘をいただいた。また、角田氏は、抱影が賢治の評価を草下に手紙で送ったことを議論されている[5]。同様の内容は草下も自著に「附記」として書いており、「プレシオスの鎖もカシオペアの三日星も、賢治の天文知識が不完全であったことを物語るもので、賢治の知識を過大に評価することによって行う推論は危険である」という抱影の指摘が紹介されている[1]。
 
5.補足(2)〜抱影から賢治作品へのメッセージ
 上記「資料集成」第二巻[3]には、野尻抱影自身の手による寄稿も載せられている。それは、「イーハトーヴオ刊行一週年に際して」と題した一連のメッセージのうちの一つで、昭和15年発行の研究誌の特集記事に寄せたものと見える。短いものなので以下に全文を引用する。
 
野尻抱影
一、 「雨ニモ負ケズ」を幾度人に読んで聞かせたでせう。そして途中から、今でも涙が出て来て困ります。
一、 「種山ヶ原」の詩を、自己流の節をつけて時々歌ってゐます。そして、東北音で歌ふのをつく/\゛聞きたいなと思います。
一、 「風の又三郎」もそちらの少年少女達が放送して下さるのを望みます――これは曾て藤原氏にも希望したことです。或ひは既にその放送があつ たのかも知れませんが。
一、 生前お目にかゝつて星を語りたかつたといつも残念に思ひます。 以上
「アンドロメダのゆするる」夜
 
 抱影は、賢治の天文知識については懐疑的であったし、自身が賢治作品の註解をしたことについてもあまり人に知らせてはいないようであるが、抱影は賢治の文学作品の良い読者であったようである。抱影が賢治と語りたかった「星」とは、天文用語の註釈とはまったく違う方面のことであったのであろう。
 
謝辞
 草下英明著『宮沢賢治と星』と野尻抱影との関係をご指摘下さり、貴 重な示唆を与えて下さった角田玉青氏に感謝します。また、今回、角田氏のお勧めによって、筆者自身として初めて西中筋天文同好会会誌「銀河鉄道」に宮沢賢治の文学に関する記事を書くことが出来たことは喜びにたえません。
 
 
参考文献
[1] 草下英明「宮沢賢治と星」初版本 (1953) 甲文社.(再刊本(1975)には野尻抱影の序文は省略されている)
[2] 宮澤賢治全集 第一巻、第二巻 高村光太郎他(編)(1944, 1940) 十字屋書店. 
[3] 宮澤賢治研究資料集成 第一巻、第二巻 続橋達雄(編)(1990) 日本図書センター.
[4] 内城弘隆「宮澤賢治の友人 かとうじ物語」紫波ネット連載(2004-05)岩手県紫波町.  http://www.geocities.jp/hatakeyama206/dokko/katouji.html
[5]玉青「天文古玩」「夜空の大三角…抱影、賢治、足穂 (1〜6)」(2013.2) http://mononoke.asablo.jp/blog/

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