丹波地方の天文民俗

                         上原 貞治

1.序 

 民間に伝わる星の名前、天体や天文現象に関する伝承・伝説、習俗や年中行事、祭祀などの民間信仰、占い、迷信、生業の上での知識、俚諺、俚謡、芸能などが、20世紀初め頃から多くの人々によって調査・研究されて来ました。私は、ここで丹波の福知山・綾部地方に伝わる天文民俗について簡単に紹介したいと思います。ここに書くのは、私が家族などから聞いた話がおもになっています。また、丹波地方の星の名前は、礒貝勇氏(元綾部高校校長、故人)など民俗学の研究者によって発掘されているものも少なくないので、その一部も紹介します。
 

2.太陽、月、星の呼び名

 太陽、月、星を、丹波の人たちは、それぞれ、「おひさん」(または「おひいさん」)、「おつきさん」(または「おっつきさん」)、「おほっさん」と呼んでいました。この「お○○さん」という呼び方は、身近なものに最大限の敬意をこめた呼称といえます。 たとえば、親しみ深い神や仏は、「お稲荷さん」、「お地蔵さん」「お観音さん」などと呼ばれていました。一方、父母は、「おとうはん」、「おかあはん」でありました。これを一般的に適用しようとすると、「さん」と「はん」の使い分けの問題(「天皇さん」、「市長はん」)や最大限の敬意を払う必要のない対象にも「お○○さん」という呼び方をする例(「おかいさん」(粥)、「おいもさん」(さつま芋))など難しい問題が出てきますが、いずれにしても、丹波の人たちが、天体を、親しみ深い、かつ、敬意を払うべき天体と見ていたことは間違いありません。
 これは、日本人全体に見られる傾向です。「星の民俗館」の三上氏は、「日本人ほど星というものを自然の一部として純粋に捉え、そして利用した民族も少ないのではないかと考えられています。」(「星の民俗館」HPより)と書いています。つまり、日本人は、星を超絶的な遠くの存在としてみるのではなく、山川草木や身近にいる野生動物同様、手の届くところにいる親しみ深い対象と見ていたのです。そして、この丹波地方における呼称は、このことを端的に示す事例となっていると思います。
                               

3.月に関する伝承

 夕方の西空に見える三日月が、地面に対して立った状態になる時と、地面に対して寝た格好になる時があることに、丹波の人々は気が付いていました。そして、前者を「たちづき(立ち月)」、後者を「うけづき(受け月)」とよんでいました。そして、前者の時は雨が少ない、後者の時は雨が多いという天気占いをしていました。月が寝ている場合には、月が水を入れる器のように見えるので「水がたまる」ということを連想させるからだといいます。
 また、ときどき、月のごく近くに星が光っているのが観察されました。これは、「ちかぼし(近星)」と呼ばれていました。そして、「ちかぼし」が見られたときは、「ひばやい(火早い)」と言っていました。「火早い」とは「火が燃えやすい」つまり「火事がおこりやすい」ということです。私は、実際に「ちかぼし」が見えているときにこの言い伝えを聞きました。そして、「月のすぐそばに星が見えるということは、空気がよく澄んでいるためで、こういう時は空気が乾燥していて火事になりやすいから気をつけろということであろう。」というもっともらしい説明が加えられました。
 「月にはうさぎがいて餅をついている」ということでした。もちろん、これは全国的に言われていること(中国でもそうです)で、月面に見られる薄暗い模様がウサギが餅つきをしている形に見えるということからきています。しかし、私は子供の頃に大人が実際に月を指さして「ウサギの形」を指摘するのを見たことが一度もありません。彼らは、どこから、ウサギの話を仕入れたのでしょうか? 学校で習ったわけでもないでしょうし、本などで学ぶべきことだとも思えません。子供の時に大人から聞いたのだと推測します。そもそも、「月にはうさぎがいて餅をついている」という言い伝えがどうしてこんなにも広く普及しているのかたいへんに疑問です。
 「月の薄暗い模様は、あれは結局地球が映っているのではないか」というのは、満月を一緒に見ながら、近所のお爺さんから聞いた説です。「月は鏡である」という感覚があったのでしょうか。
 

4.月見と七夕

 丹波では、旧暦8月15日の月見には、すすきと団子を供えたといいます。世間一般にいわれるいる月見と比べて特にかわったことはなかったようです。また、雨などで月が見られなかったときは、紙で代用の月を作って月見をしたといいます。
 七夕は、新暦の7月7日の夜でした。笹竹に短冊や紙の飾りを下げて願いことをしたりしました。これも、世間一般にやられているものと大差ないようでしたが、これは丹波の風習というよりは、全国的な幼稚園や学校の教育の結果かもしれません。私は、織姫星と彦星が本当に夜空を移動するのかと思っていましたが、何年か7月7日に悪天候が続いたためにそれを確かめることはいちどもできませんでした。そういうふうに大人が説明したのだと思っています。
 

5.流星と彗星

 流星は、「ながれぼし」と呼ばれていました。ながれぼしを見たときは、「よみかきそろばん(読み書き算盤)」と唱えると良いということです。おそらく、勉強がよくできるようになるのでしょう。でも、あまり大きい流星は良くないようです。私の祖母は、外出先で、大流星を見て家族の安否が心配になり、あわてて自宅に帰ったと言っていました。
 彗星は、「ほうきぼし」と呼ばれていました。かつては、「ほうきぼしが出ると良いことはない(良くないことが起こる)」と言われていたと聞きました。しかし、私のまわりには、彗星が不吉だと言う人はすでにいませんでした。
 私の祖母は少女時代にほうきぼしを見ながら、不吉だと大人から聞いたことがあるといいます。そのほうきぼしは「ぼーっ」とした雲のような天体であったといいます。今となってはその正体がなんであったかわかりませんが、大きく淡い彗星であったとしたら、1921年6月に地球に接近した「ポン・ウィネッケ周期彗星」だったかもしれません。
 

6.星座など

 星座や恒星などの古い名前については、私はじかに聞いたことがありません。丹波の農民は、星座が識別できるほどたくさん星が出る前に家に戻ったのだと思います。夜になってから外へ出る必要があるときは、家の時計が利用できます。夜なべ仕事は家の中でしたので、星座を利用する必要はなかったのでしょう。なお、丹波地方で採集された星の和名については最後に触れます。
 

7.「日待ち」と「ほしもち」

 今では呼び名も趣旨も変わってしまったそうですが、かつて「おひまちこう」(お日待ち講)と呼ばれている会合がありました。通称「おひまっつぁん」と呼んでおりました。夜、地域の人々が当番の家に集まり、ごちそうを食べながら談笑したということです。年に5回程度あり、これを行う月は決まっていましたが、日は当番の家が決めたといいます。そして、神社の掛け軸を前にして般若心経を読んだそうです。(当地方では、般若心経を神様に対して上げることは普通に行われています。)これは、全国的に見られる「日待ち」の習俗の一種で、元来は徹夜をして日の出を待つという民間信仰的な宗教的意義のあるものだったようですが、そういう意味合いは薄れてしまったようです。
 
 年末に搗いてお正月に供える餅のなかに「ほしもち」と呼ばれているものがありました。それは、普通の大きさの丸餅(直径7cmくらい)の上にごく小さな丸餅(直径1cmくらい)を重ねたもので、一見して、大小のバランスの悪い鏡餅のようなものです。これは普通の鏡餅のほかに作られていました。そして、神棚あるいは床の間に供えられました。私は、これを「星餅」なのではないかと考え(小さい丸餅はちょうど星を思わせますので)、かつて、星の民俗館の三上氏に報告したことがあります。三上氏は自らの調査によって、鏡餅の上側の餅を「星」という場合があること、「ほしもち」が鏡餅の一種の原型である可能性があること、おもに山村で決まった暦日に行われている占いや祈願に関する餅の習俗との関連が見られることを指摘していますが、「ほしもち」が「星餅」であるという決定的な証拠はみつけられないということでした。
 

8.丹波で採集された星の和名

 最後に、星の民俗の研究者によって、福知山、綾部で採集された星の和名を少々紹介しておきます。以下は、礒貝勇らの調査によるもので、野尻抱影、内田武志らの著書中に見つけたものです。
 「いかりぼし」は、カシオペア座の和名としてたいへん貴重なものです。カシオペアのW字の星ぼし(もう一つのかなり北極星に近いところにある星も含むかもしれない)を碇の形と見たものと思われます。すばらしい着眼だと思いますが、海のない福知山でなぜこんな名が付けられたのか少し疑問です。丹後の方で呼ばれていたものが伝わったのかもしれません。静岡のほうでも同じ名があるようです。船乗りが海沿いに伝えたものでしょうか。また、綾部市山家では、「ヤマガタボシ」と呼ばれていました。これも素直な良い名だと思います。
 「はごいたぼし」は、すばる(プレアデス星団)の6星を羽子板のかたちと見たもので、まことにもっともな命名だと思います。これは、かつて、綾部高校の女子生徒が言っていたものだということです。「すばるさん」という呼び方もされていました。「すばる」というのは枕草子にも出てきますが、関西方面でひろく行われていた名です。
 「じゅうもんじさん」(十文字さん)というのは白鳥座の異名です。これも、綾部市山家で採集されています。

 
 
 上の3.から5.までの話は、15〜30年前に、福知山市観音寺の自宅で、私が、おもに祖母から聞いたものです。祖母は、1907年に福知山市長田で生まれ、観音寺に嫁に来ました。昨年(2000年)12月に亡くなりましたので、もう、これ以上の話を聞くことはできなくなりました。この小文を祖母の仏前に捧げたいと思います。