西中筋天文同好会40年の思い出 その1

 

                        田中邦明

 

中学生3人が、天文同好会誌(会誌というより会紙に近いものであった)「銀河鉄道」を印刷してから早いもので40年が経過したらしい。その3人の福知山市立南陵中学校3年生は、今や中年初老となって、まさに光陰矢の如しである。


始まりは、中学2年生の晩秋である。3人のうちの1人(上原貞治:通称サーちゃん後に理学博士)が所有する8cm屈折赤道儀(日野金属のミザール・カイザー:この名前だけで涙が出そうなほど懐かしさを感じる古い天文ファンの方もいらっしゃるかも…)を私が見に行ったことにある。


cm単レンズ自作キットの天体望遠鏡で月のクレータしか見た事がなかった(月と太陽以外は色収差で虹色天体にしか見えなかった)14歳の少年にミザール・カイザーが見せた世界は、驚くほど鮮明な世界であった。接眼レンズを覗けば、天体薄明を背景にして土星が輪の中にポッカリと浮かび、ガリレオ衛星を従えた木星は淡い大赤斑をトレードマークに、太陽系をイメージさせるに十分な姿を見ることができた。


色収差の小さな天体望遠鏡が欲しくてたまらなくなった14歳の私は、早速資料を集め始めた。まず天文ガイドを購入目的で書店へ。197111月、既に最新号は完売。翌月5日の発売日を待って1972年1月号を手に入れた。オリオン座の三つ星からM42を中望遠レンズで撮影したカラー写真が1972年 の最初の表紙を飾っていた。当時、カラーで天体写真を撮影するということは、努力と忍耐と幸運が必要であり、表紙を飾るに相応しい美しいオリオン座中心部 であった。穴が開くほど記事を読み返し、天体望遠鏡の広告も何度も見るが、その価格を見て…ため息、の繰り返しであった。


何度も天文ガイドを読み返す私を横で見ていた父が、職場の特約店である眼鏡屋さんを通して、月賦(今なら分割払いとかローンといった方がわかりやすいか…)で日野金属の10cm反射赤道儀H-100を買ってくれることになった。今思えば、収入が多くない中、数万円もする遊び道具を、よく買ってくれたものである。


 H-100に付属してきたK-18(ケルナー式、焦点距離18mm)接眼レンズを通して、月、木星、土星、金星、火星、M42、M35、ペルセウス座の二重星団、M8、M31…季節が変わるにつれ、見られそうなものはすべて見た。色収差はほとんど感じられず、それぞれの天体が美しかった。時が過ぎるのも忘れて見続けた。


もう1人の東は高橋製作所のTS-100を買ってもらった。当時の高橋製作所には珍しい反射望遠鏡であった。価格はミザールH-100よりかなり高かったが、ガッシリした赤道儀にシンプルな10cm反射望遠鏡が搭載された人気の高級機であった。


早速、覗きに行って驚いた。「えっ!これ同じ10cm反射?」というのが正直な感想であった。天体像はシャープで光量も多く、切れ味抜群。「う〜ん、やはり価格が高い分、よく見える。さすがに人気のタカハシ!」そんな印象を持った3人であった。

 

 

春には中学3年生となったが、高校受験など遠い先の話という感覚であった。その頃から、ジャコビニ流星群についての情報がマスコミでもちらほら流れ始めた。


1972年に母彗星であるジャコビニ・ツィナー(Giacobini-Zinner)彗星の軌道と地球の軌道がほぼ完全に交差し、彗星が通過した約58日後に地球が通過するため、1933年の欧州や1946年の北米で現れた流星雨が、1972年の日本でも見られるのではないかという予想と大きな期待がアマチュア天文関係者の中にはあった。一方、プロの研究者は、大して期待できないが通常の観測だけは行おうという声が多かったように記憶している。


しばらくすると「流星雨を観測しよう!」のような雑誌も発売された。


「流星雨という名前からすると雨のように流星が流れる…これってホント?」中学3年生の私たちには、その過去の出来事を調べ、その当時描かれた絵を見るだけで高まる気持ちを押さえることが難しかった。


3人は「流星観測を一度もしたことがないのに、いきなり流星雨に遭遇して大丈夫か…」と多少意味不明な理由から、流星観測の練習に8月のペルセウス座γ流星群の観測にトライしようということになった。


観測場所は当時の京都府立石原高等学校グラウンド(標高約70m)。 現在はグラウンド周辺に民家が多く建ち並び星の観測どころではないが、当時のグラウンド周辺は放置された荒れ地に丹波栗の木が数本あるだけで、背の高い草 が生い茂り、雑木林に囲まれていた。またグラウンドから少し下ったところに墓地があり、自動車やバイクのライト、歩行者の懐中電灯などの人光に邪魔される 心配もほとんどない、星の観測には適した状況にあった。当然、天の川もよく見えた。


観測はピクニック用のシートをグラウンドのほぼ中央に敷き、その上に寝転がる。固定撮影のカメラを設置し、星が流れたら時刻、発光開始位置と発光終了位置を記録するという予定であった。カメラはキャノネットやニコマート、レンズ焦点距離は45mm55mmの標準レンズをF2〜2.8に絞り、富士フイルムのネオパンSSS (ASA200…若い人にはISO200と表記した方がイメージしやすい?)かコダックのTRI−X (ASA400)を詰め込んで、10分毎にバルブ撮影。今のデジタルカメラから想像するのは難しいような方法で撮影を行った。


結果として固定撮影では大流星は撮影できなかったものの、複数の流星の小さな映像を得ることができた。一方、目視観測は多く流れ始めると記録が追いつかない状態となり、途中から正しいデータなのか間違っているのかも怪しいものとなった。


3人は、天頂付近の白鳥座からこと座を流れる明るい流星を見るたびに「オーッ!」と何度も歓声をあげた。近年であれば近隣の住人からパトカーを呼ばれるのがオチとなりそうであるが、その際の近隣住人は狸や狐、ウサギや野ねずみと言ったところである。


明け方近くになり、水田の多い盆地特有の夏霧が出始めた。(水田が減り、夏は明け方も気温下がりにくい昨今は、夏には霧がほとんど出現しなくなった。)


一夜明け、何時に解散し、どのように自宅へ戻ったのか、ほとんど記憶はないが、今まで見たことがない数の流星を短時間に観測し、充実感に包まれていたことは間違いなく、ジャコビニ流星群への期待も大きくなるばかりであった。

 

 

197210月9日はジャコビニ流星群出現の極大予想日であるとともに、私たち中学3年生には第2回目の高校入試模擬試験の日でもあり、季節外れの台風が日本に接近する という記憶に残りやすい一日であった。しかし気分は模擬試験どころではなく、世紀の大流星雨出現の期待で、日常はすべて上の空であった。


10月9日、当日は、さっさと模擬試験を済ませ、撮影機材の準備も完 了し、夕方近く、暗くなる前に、先のペルセウス座γ流星群の観測場所とした高校のグラウンドへ急いだ。台風接近のためか雲は多いが、晴れ間も見られる。本当に出現するのだろうかという不安と、大出現の最中に曇るのではないかという不安も脳裏から離れない。


撮影用カメラの設置も完了。記録用紙も準備完了。寝転がるためのシートも準備完了。さっそく寝転がってみると「あっ!冷たい!」


10月9日は真冬ではないので、大して寒くはないと勝手に思い込んでいた。その浅はかさを実感しながらも流星雨への期待が背中の冷たさを忘れさせた。


そこへ様子を見に来られた東の父上が、何の防寒具もない状況を見て自家用車のシートカバーを置いていってくださった。さすが陸上自衛隊での経験上、これでは 寒さがしのげないと察した親心であった。しかし私たちは後期反抗期の中学3年生である。東は「大丈夫やから早う帰れ」といわんばかりの対応であった。後に なって3人は、この自動車カバーのありがたさ、親心のありがたさを痛感する。この後も私の母が拉麺を持参、上原の父上が様子を見に…という状況が続いた。


保護者は「受験前の大切な時機に何をやっているのか」「寒さと睡眠不足から健康を害しないだろうか」という心配がありながら、目立たぬように援助するという迷惑な状況であった。しかしながら「やめろ」とも言わず黙って手助けをして帰って行った。


そうこうしている間に晩秋の夕は駆け足で暮れ、互いの顔も認識できないくらいの暗闇に包まれた。


想像以上に寒い。そう感じながらも空を眺め続ける。ときどき晴れ間から星空を見ることはできるが、一向に流星らしきものを見ることはできない。午後10時 頃だったろうか、あまりの寒さに何とかしなければ、朝まではとても我慢できないと3人とも考えた。そこで、カメラ用三脚や荷物を支えに、さきほどの自動車 カバーをテントのような状態にすることができた。3人は、その中に身体を入れ、なんとか寒さに対応しようとした。しかし、シートの下では空を見ることがで きない。が、外へ出ると、あまりにも寒い。


上原が妙案を考え出した。体温が地へ奪われるのを防ぐため断熱効果のありそうなものを身体とシートの間に敷き、首から上だけをテントから顔を出した。これで 寒さをしのぎながら空を見続けることができる。3人が3方向から顔だけを空に向けて出した。しかし、一向に星は流れない。高校のグラウンドのほぼ中央に、 中学生3人が自動車シートカバーから顔だけを出し「寒い!寒い!」と言いながら空を見続ける様は、第三者が見ると実に異様である。


結局、夜明けまで、第三者も現れなかったが、ジャコビニ流星群も現れず、世紀のジャコビニ大流星雨は「一滴」たりとも降ることはなかった。数ヶ月に亘って日本全土で大騒ぎとなったジャコビニ流星雨の予報は、世紀の「大がっかり」予報となったのであった。


(続く)

 


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