横道相対論シリーズ(3)
            ぶっ飛んだ慣性系
上原 貞治
 
1.慣性系とは何か
 今を去ること約400年前、ガリレオが地動説を唱えて天動説守旧派と論争していた頃、地動説に反対する理由の一つは「そんなこと言っても地球が回っていたら(公転でも自転でも)、地上の我々は吹っ飛んでしまうじゃないか。とても静かに落ち着いていられないよ」ということであった。ガリレオはこれに対して、船に乗っている人は船が等速で動いているならば地上に止まっている人と変わらない生活が出来る、と反論した。これがすなわち「すべての慣性系」は等価である、という主張であり、アインシュタインの相対性理論に先駆けて確立した「ガリレオの相対性原理」である。
 
 ここにある慣性系があるとする。この慣性系に対して等速直線運動をしている系はすべて慣性系で、どれも同等である、というのがガリレオの相対性原理である。この点はアインシュタインの相対性理論とまったく同じである。ここで、最初に設定する慣性系の定義は深く考え出すと難しいが、「止まっている物体に余分の力が働かない」系と思ってほしい。重力がある地上は慣性系かと尋ねられると、ガリレオとアインシュタインで答えは変わってくるが、そういう細かい差の議論はさておいてて、地上も、自由落下するエレベータも宇宙空間も、明らかな慣性力が現れない(感じられない)系は「ほぼ慣性系」だということにしよう。2つの慣性系間の相対速度が光速に近くなると「ガリレオの相対性原理」は成り立たなくなり「アインシュタインの相対性理論」でないといけないことが実験で実証されている。
 
2.慣性系同士の相対速度
 現代の我々は、自分が暮らしている地球が自転、公転をしていることは知っているし、新幹線や飛行機の中で快適に過ごすことによって、すべての慣性系が同等であることは体感できるようになった。問題はここから先にある。
 それでは、2つの慣性系の相対速度が光速に近いような場合でも両者は同等なのだろうか。この実証は容易ではなさそうである。そこまで高速の物体に人が乗ったり実験装置を載せたりしたことはない。さて、今まで人間が体感したもっとも速度差がある2つの慣性系は何でしょうか。...それは太陽の周りの地球の公転である。地球は太陽の周りを回っているが、軌道半径が大きく、360度回るのに1年かかるので、カーブで働く加速度としてはたいしたことない(どちらにしても、カーブでかかる遠心力は地球に乗っかっている我々には体感できない)。しかし、春と秋とでは、地球は違う方向に動いているという事実がある。我々は、春と秋で秒速60kmくらいの速度差のあるところで生活していることになる。それでもなんということはない。
 なお、太陽系全体として恒星界のある方向に進んでいるが、これはほぼ等速直線運動である。銀河系が回転しているのにつれて太陽も銀河中心を回っているが、これも周期が約2億年で、我々が生きている間に動く向きが変わるというほどのものではない。従って人間が生活した相対速度は最大で60km毎秒ということになる。これは、光速の約1/5000で、このくらいではまだ光速に近いとは言えない。
 現在のところ、宇宙船を使っても地球の公転速度と比べてそれほど早く飛べるものでないので、これを有為に超える速度差を作ることは不可能であろう。となると他の天体の力を借りるしかなさそうであるが、他の恒星系に住んでもそれほどの相対速度は期待できない。太陽系に比較的近い高速星と言われているバーナード星ですら、対太陽速度は毎秒140km程度に過ぎない。
 でも、宇宙の彼方に目を向けるともっと速い天体があることがよく知られている。宇宙膨張である。たとえば赤方偏移が観測されているような天体(銀河)は、光速の何十%のスピードで飛んでいる。しかし、残念ながら、これらの銀河はどれもとても遠く、そこまで行くことはかなわない。しかも、現在見ているその姿も何億年も昔の姿なので、今から実験を始めるという主旨のものではない。それでも、星のスペクトルと恒星の理論から、我々の銀河系と同じ物理法則がそこでも成り立っていることは測定できる。
 
3.素粒子実験での相対速度
 しかし、素粒子実験で、すでに、もっと相対速度が大きい慣性系が地上で実現できるのだ。 スイスとフランスの国境にあるCERN研究所にはLHC(ラージハドロンコライダー)という衝突型粒子加速器があり、陽子と陽子をほぼ光速でほぼ正面衝突させている。ここで、今年、4TeVの陽子と4TeVの陽子を衝突させている。(TeVは1兆電子ボルトのことで、これはエネルギーの単位である)。4TeVの陽子は、我々から見るとほぼ光速であるが、ぶつかるもう一方の陽子から見るとこれはどれだけの速さに見えるのだろうか。光速と光速で光速の2倍、というわけではない。高速の速度の合成については単純な足し算にならないことはすでに本シリーズの第1回で紹介した。ローレンツ変換と呼ばれる方法を用いて計算をしてみると、4TeVと4TeVの陽子同士の正面衝突は、止まっている陽子に約34000TeVの陽子をぶつけるのと同等である。これらは、2つの慣性系だけの違いである。つまり、LHCの一方の陽子と同じ速さで運動する観測者から見ると、自分と並走する陽子(止まっているように見える)に34000TeVの陽子がぶつかってくるように見えるのである。この走っている観測者とCERNの地球に固定された実験室の両者の慣性系の相対速度は、4TeVの陽子の速度に等しい。それは、光速の99.999997%である。
 LHCで陽子と陽子とぶつけるとさまざまな種類の反応が起こる(最近、それらしい新粒子が発見されたという「ヒッグス粒子」の生成もその一つ)。これとそっくり同じ反応が34000TeVの陽子を止まっている陽子に当てたときに起こることを確認すれば良いのである。素粒子反応は微妙なダイナミックスであるから、2つの慣性系に差があれば起こることも違うはずである。ところが残念ながら、この確認は容易ではない。34000TeVの加速器は現実にはなく(LHCの4TeVが現在の世界最高)、宇宙線陽子の力を借りないといけないのであるが、それには宇宙空間に出る必要があり、また、宇宙船や人工衛星で観測するにもこのような超高エネルギーの宇宙線がそうそう頻繁に降ってくるわけではない、ということで実現不可能なほどに気長な観測にならざるを得ないのである。
 
 実は、相対速度を稼ぐだけなら、もう少し小規模な加速器でも実現できる。電子と光子の衝突を考えよう。兵庫県の赤穂にあるSPring8(スプリングエイト)と呼ばれる電子加速器では電子と光子をぶつけて光子ビームを作っている。電子のエネルギーは8GeV(GeVはTeVの1/1000)、光子のエネルギーはわずか3.5eV(可視光レーザー)である。この電子光子衝突は、止まっている電子に 110keVの光子(X線)を当てるのに等しい。後者は大型の粒子加速器がなくても小型のX線発生装置で実現できる。このときに起こる現象は、コンプトン散乱という電子と光子が互いに跳ね返る(野球ボールとゴルフボールをぶつけると互いに跳ね返るような)現象である。これは、今から100年も前にその跳ね返り方が計算されていて、クライン・仁科の公式というので計算できる。SPring8で起こっていることと、小型X線発生装置で起こっているコンプトン散乱が同等であることを確認すれば、ある意味では、2つの慣性系の同等性を証明したことになる。このときの慣性系間の相対速度はSPring8の電子の速度に等しく、それは光速の99.9999998%である。これは、LHCの例よりも光速に近いが、残念ながらこの程度のエネルギーの電子光子散乱では多彩な現象は起こらないので、電子と光子の散乱角分布くらいしか測定するものはない。(なお、SPring8での実験の目的は、コンプトン散乱や光子そのものの測定ではなく、発生した高エネルギーあるいは高強度の光子を止まっている別種の物質に当てて、物質の研究をすることにある。)
 
4.ぶっ飛んだ慣性系の意義
 慣性系の相対速度が光速の99%超ともなると物理法則が不変であるか確認する意義は大きいであろう。そのような大きい相対速度は宇宙に自然にある天体間に存在してはおらず、かなり特殊な状況である。宇宙膨張や宇宙線の特殊な加速機構、あるいは人工的技術の助けを借りて初めて起こる相対速度である。そこでアインシュタインの相対性理論が成り立っているかどうかは調べてみる価値がある。
 
 ここで断って置くが、これはアインシュタインの相対性理論の誤りを見つけようというわけではない。相対性理論は、そもそも「光速度一定」という仮定、つまりどの慣性系も同等という仮定から導き出されたもので、極端に光速に近い相対速度を持つ慣性系が現実的に違う性質を持つならばそれは想定外の話である。光速に近い相対速度はある意味宇宙論的規模の現象であり、極限的な状況である。そこでは我々の宇宙特有の何らか事情によって、通常の条件下とは違うことが起こっている可能性がある。
 
 また、宇宙の慣性系が物質の分布によって規定されているという仮説「マッハ原理」が正しいならば、慣性系が宇宙の大域的に「一様に」分布していると考えるのはかえって不自然である。あるいは、真空に何らかの物質場が凝縮していると考える場合、通常に行われている素粒子場の理論と違う特殊相対論に合致しない場が存在してよいかもしれない。
 
 いまのところ、素粒子実験でも宇宙観測でもそのような異常は観測されていないが、今後は、このような「ぶっ飛んだ慣性系」に注目し、測定技術が進歩するたびに検証を行う必要があるだろう。

今号表紙に戻る