横道相対論シリーズ(2)
 
 加速度運動は一般相対論で?
上原 貞治
 
1.2つの相対性理論
 アインシュタインの相対性理論には、「特殊相対性理論」と「一般相対性理論」があって、前者は等速直線運動、後者は加速度運動の時に適用できることは広く知られている。これは本当に正しいのか? 間違いでないにしても、どれほど厳密に核心を突いているのだろうか、ということを考えるのが、今回のテーマである。
 ここで取り上げるのは、おもに「双子のパラドックス」で知られている「系による時間の進み方の違い」に加速度がどう影響するかということである。
 特殊相対性理論(以下、略して特殊相対論)の範囲でも、時間の進み方の違いは出てくる。ローレンツ変換を使うと、自分に対して高速で動いている物体(乗り物)に乗っている人の時間の進み方が遅くなるように見える様子が計算できる。ここには何の問題もない。
 相手の速さが光速に近い場合は、向こうがなかなか年を取らないように見える。しかし、これだけでは、双子のパラドックスの浦島太郎状態は起こらない。相手も自分がなかなか年を取らないと見ているからである。お互いに相手が年を取らないと見ていて、これが平等な相対性になっている。どちらが正しいのか? どちらも正しい。二人は一度すれ違うだけで再会することはない。等速直線運動だけでは浦島太郎にはならない。浦島太郎は、海に出かけた後、故郷に帰還せねばならないのである。
 
2.双子のパラドックス
 前節の説明で、双子のパラドックスの吟味には加速度運動を導入しないといけないことがわかるだろう。双子の兄が地球に留まり、弟がロケットに乗って宇宙に出かけたとする。宇宙旅行は、近くの恒星までの直線距離の往復コースだったとしよう。弟のロケットは、地球を出てただちに光速の99%まで加速し、その後はその速度を保って目的の恒星の近くまで等速直線運動をし、恒星の近くで急に減速してUターンし、ただちに加速して引き返し、光速の99%の速度で地球に帰還するとする。地球の近くでは減速して、無事地表に降り立つ。(それでは加速度で人間の身体が持つまい、ということは言いっこ無しとする。特殊な薬を飲んで加速度に強くなったとでもしてほしい。)
 その時、地球に帰還した弟は兄よりも年を取っていない、というのが相対性理論の教えるところであり、ここで兄と弟が平等になっていないように見えることが、「双子のパラドックス」である。確かに、双子で年齢が違ってしまったら平等とはいえまい。
 
3.兄から見た弟 〜特殊相対論でOK
 もう少し具体的に考えてみよう。簡単のために地球・恒星その他の天体による重力は十分弱くて無視できるとする。光速の99%で飛ぶ弟は、地球の時間で恒星までつくのに5年かかったとしよう。すると、帰りも5年かかるから、兄は弟が帰ってくるまでに10年待つことになる。しかし、兄は、帰ってきた弟がそれほど年を取っていないことを発見する。相対性理論によると、弟の時間では、兄の10年間に約1.4年しか経っていないのである。弟に尋ねてみると、たしかに自分は1.4年しか旅していないと答える。これは特殊相対論による計算であるが、これで正しいのである。このことは弟の帰りを待つまでもなく、兄弟が電波で交信しあうことによって確認できる。このとき、電波の伝達時間はもちろん考慮する。兄は、弟の時間が特殊相対論から計算されるとおりに、常にゆっくりと進むのを確認するであろう。そして、無事帰ってきた弟は、その通り自分よりかなり若いのである。ここでは一般相対論は出てこない。
 
4.弟から見た兄 〜一般相対論の出番
 では、弟から見た兄はどうか。弟から兄を見ると、地球に乗った兄が遠ざかり、その後また近づいて来て、地球が一往復してロケットに「帰還」する。その場合、弟から見ると兄の時間がゆっくりと進むのではないか。兄が早く年を取ることはあるまい、という疑問が生じる。しかし、兄弟は平等ではない。いわば加速されているのは弟のほうだけなのである。ここで、一般相対論の出番となる。
 一般相対論の計算は複雑なので、考え方だけ説明する。一般相対論では、重力と慣性力を同等のものと考える(等価原理)。重力と慣性力を区別してはならない。弟が乗ったロケットが加速する時(減速も、マイナスの加速で、加速の一種とする)、ロケットに乗った弟には強い慣性力(いわゆるG)がかかる。もちろん、兄のほうにはかからないので、この点で、弟と兄はまったく環境が違うことになる。慣性力は重力と同じなので、弟はロケット内で強い重力場に置かれることになる。この重力は加速度と逆方向に働く。弟が窓から外を見ると地球が加速しながら遠ざかっていく(あるいは近づいてくる)。弟から見ると、地球はあたかも自分が感じているのと同じ重力に引かれて加速しているように見える。弟が一般相対論を知っていたならば、彼は、自分が感じているのと同じ重力場によって地球が自由落下しているとみなすであろう。
 このとき、一般相対論によると、重力場にある弟の時間は、自由落下している(無重力状態である)兄よりも時間がゆっくりと進むのである。弟から見ても兄の時間が早く進む(ただし、弟から見ると交信の電波が重力場の中を進むことになるので電波の速さは光速にはならない、というか時空間がゆがむのでそれによる伝搬時間の変化を考慮する必要がある)。これが、一般相対論の教えるところである。ただし、重力が生じるのは、加速減速の時だけである。巡航速度の時は、弟からみる兄の時間の進みはやはり遅い。加速減速時にそれを補って余りある逆の変化が起こるのである。また、恒星までの距離がローレンツ変換(収縮)によって縮むという効果もある。結局、弟にとって恒星はことのほか近く、兄は自分の加速の時だけどっと年を取るのである。
 では、なぜ、兄は一般相対論を考えなくても良いのか? それは兄が重力場にいないからである。言い換えれば、慣性力が働かないからである。兄にとっては重力も慣性力も関係がない(地球の重力は無視すると言った)。兄から見た弟も重力場にはいない。弟が加速していくの重力のせいではなく、ロケットエンジンの噴射のせいである。それは、電磁気力か原子力かは知らないが、とにかく重力ではない。一般相対論は重力理論であるから、他の力による加速は関係ない。また、兄は、弟が船内の慣性力Gに苦しがっているのを見るかもしれないが、運動としては、弟自身もロケットの推力で順調に加速しているようにしか見えない。弟が苦しむのは弟の肉体が「やわいから」であり、慣性力は外部からは見えない。従って、兄は特殊相対論しか考える必要がない。
 
5.実証例1 〜素粒子実験
 人間の誰かを光速に近い速さで飛ばすことにはまだ成功していないから、双子のパラドックスを実験で確かめることはできていない。しかし、部分的な条件を満たす実験はすでに実現していて、特殊相対論と一般相対論の計算の通りのことが起こっていることがわかっている。
 粒子加速器を使った実験や宇宙線(空から降ってくる素粒子)の観測では、光速に近いスピードの素粒子を観測する。また、電磁場を使えば、素粒子に加速度運動をさせることもできる(円運動も加速度運動の一種である)。その時の素粒子の振る舞いは特殊相対論に従った時間の遅れと一致する。観測するのは、素粒子の振動や崩壊(寿命)、物質とぶつかった時のエネルギーの放出などである。これは、双子のパラドックスで兄が弟を見るのと同じである。素粒子実験では、ほとんどの場合、重力や一般相対論の効果を考える必要はない。
 一方、加速度運動をする素粒子の側から実験している人間を見ると、重力が働いているように見えるであろう。しかし、そんなことは確かめようがないし、また無理に考える必要もない。素粒子の気持ちになって考えなくても、素粒子で経過する時間は人間の知識で計算できるからである。
 
6.実証例2 〜人工衛星に積んだ時計
 よく知られている実証例を挙げる。人工衛星に積んだ時計と地球上の時計の進み方が違うことが実際にある。近年、これは、GPSの時間測定で一般相対論の補正が必要になる、ということでよく知られるようになった。
 しかし、人工衛星の飛行が、双子のパラドックスの宇宙旅行とは違うことに注意せねばならない。それは、人工衛星も地球上の人も、同様に地球の重力の影響を受けていることが本質的だからである。人工衛星が地球の周回軌道をめぐるのは、そもそも地球の重力のためだから、ここで地球重力を無視してはならない。
 地球上の時計は重力場の中にあり、人工衛星の中の時計は無重力である。地球人は人工衛星が重力場にあって重力に従って周回運動をしていることを知っているし、人工衛星に乗っている人も、地球が重力による運動によって人工衛星のまわりを回り、地球上の人に地球重力が働いていて、人が地面に束縛されているのを観測する。人工衛星内は、重力と慣性力が打ち消しあって無重力になっている。この場合、両者の認識に大きな差はない。人工衛星が低軌道だと、両者はほぼ同じ強さの重力場にあり、ただ自由落下しているかしていないかの違いである。それで、重力場にある地上の時間は、無重力状態の人工衛星内の時間に比べてゆっくりと進むのである。このほかに、相対運動による特殊相対論の効果があるが、これはもとより両観測者にとって平等なものである。
 
7.人工衛星の時計で一般相対論は証明できるか
 最後に、以上の実例で一般相対論が実証されたかどうかを考えてみる。すると、最大のポイントがまだ実証されていないことがわかる。それは、人工衛星のように重力に身をゆだねて「自由落下」している物体内部の「無重力状態」と、本当の無重力(どの星からも遠く離れた宇宙空間でおとなしくしている状態)がまったく同等かという点が問題である。重力と慣性力を等価とする一般相対論に従うならば、これは全く同等でないといけない。
 これは「強い等価原理」ということと関連しているが、直接に実証するためには、人工衛星の時計と、遠く離れた何もない宇宙空間の時計の進みが同等か比べればよい。しかし、それはできそうにない注文である。両者は遠く離れているので比較しようがない。比較するためには、一方の時計をもう一方の時計の近くまで持って行くか、あるいは、少なくとも電波を使って交信する必要がある。しかし、この両者の間には必ず重力場があり、時計なり電波なりは必ずこの重力場を超えて行かねばならない。そして、この重力場こそ、今、その等価性を問題にしている重力そのものであるから、無視することはできない。従って、これら二種類の「無重力」を比べるためには、途中の重力の影響を考慮しなければならず、すなおに比較できそうにはない。
 しかし、これは何も新規に始まった困難ではない。特殊相対論で「すべての慣性系は同等である」と主張したときも、我々は複数の慣性系を乗り換えて本当に同等か確認することは容易ではなかった。乗り換えるときに加速度運動が必要だからである。それにも関わらず、異なる慣性系の同等性は、光速が不変であるのを確認するとか、ローレンツ変換がどんな慣性系の間にも成り立っているなどである程度の実証をすることができた。
 一般相対論は、その枠組みの中で正しいと思われる答えを与えてくれる一方、それが基づいている重力と慣性力の等価原理が真理かどうかについては、なかなか直接的には語ってくれない。結局のところは、異なるいかなる系においても同じ物理法則が実現していることを確かめることによって、その真偽は、実証されるべきものなのであろう。
 
 
 

今号表紙に戻る