編集後記
上原 貞治
 
 東日本大震災の影響はことのほか大きく、現在にいたっても、それは収束するどころか、全国に発散しつつある状況である。始めのうちは、震災に直接影響のない地域は平常通りの生活を続けることが被災地への助けになると言われたが、現在では日本全体が被災の影響を深めている状況にある。前回に引き続き、震災関連の問題について考えるところを記してみたい。
 
 今回の震災は津波が「想定外」であったと言われる。確かにその通りであっただろう。しかし、「想定外」ということはどういうことなのか理解するのにしばらく時間がかかったようである。私の経験から感じたことを指摘しておきたい。
 私は、3月11日の本震の時、茨城県つくば市にいた。たいへんな揺れであったが肝をつぶすほどではなく普通に階段を走って降りて建物から外へ避難できた。当地は震度6弱であったが、まあそんなものかという印象であった。外に避難しながら、手にしていた携帯ラジオを聞いていたが、建物から外に出たころ(たぶん14時55分頃)、震源は宮城県付近ということがラジオから告げられた。私はびっくりした。茨城県南部で震度6弱のときに宮城が震源なら東北はどういうことになっているのだろう。まったくの想定外の規模である。耳を疑うというのはこのことであった。宮城県の大地震というのは震源は太平洋であるというのがこれまでの知識からわかっていたので、ここで津波が問題になるであろうことがすぐわかった。私は茨城県の内陸にいたから津波の心配は全くなかったが、震源の場所と自分のところの揺れの大きさから、震源付近の沿岸に想像を絶する「想定外」の津波が来る可能性がすぐに予感された。ちょうど3時頃であった。
 ところがラジオから聞こえてきた津波警報は「4メートルくらい」という、高いことは高いが結果的には相当低めの予報であった。私は地震や津波の専門家ではないので特に強い考えは待たなかった。「そんなものか」と思った。想定外の地震だと感じた割には案外「常識的」な警報が出たなと思った。
 しかし、これが大間違いであった。実際は、気象庁にとっても地震の規模は想定外であったのだが、津波警報は「想定の範囲内」でしか出ないようになっていたのである。従って、想定外の事態に対して想定内の警報を出してしまった。そのために、三陸沿岸では、避難場所の選択を誤ってしまった人が多く出たと聞く。まことに悔しいことであった。気象庁が間違っていたのである。私のいいかげんな感覚のほうが正しかったのだ。あとで聞いたところによると、宮城県、岩手県の沿岸でも、震度は茨城県と同様の震度6弱のところが多かった。震源の近くで震度6弱で、常識的な津波警報が出れば、その地域の人は想定内の地震だと思って油断しまったかもしれない。茨城県の人の感覚ではとてつもない地震であることがわかっても、宮城県の人にはそれがわからなかったかもしれない。揺れが収まった時点で、すぐに避難を始めていれば、津波にのまれずに助かった人も多かっただろうに、と、ラジオを聞いた時のことを思い出して、私まで悔やまれることであった。ラジオやテレビは「茨城県南部でも宮城と同じ震度6の大地震でした。とてつもない大地震ですよ。」というはっきりとしたメッセージを東北沿岸に伝えられなかったのであろうか。
 今後の巨大地震の時は、津波の高さを指定せずに、とにかく巨大な津波が来る可能性がある、ということで警報を出すように方針を転換するそうである。人間に対して想定外の自然現象が起こることはやむをえない、しかし、想定外のことがおこったときには人間はただちにそれを認め、最大限の防御態勢をとるようにしないといけない。
 
   福島ほか関東・東北各県の農作物などが売れない問題をマスコミが「風評被害」と呼んでいるが、これは全く適切ではないと感じる。風評被害というのは根も葉もないウワサに何も考えない消費者が影響されることを指すのではないか。今回は、実際に放射性物質が検出されており、政府の出した基準にも疑問が投げかけられている。消費者が買わないのは何も考えずに流されているわけではなく、各人が独自の基準を設定している結果である。おいしくて元来安心な地元の野菜を買いたいのは山々である。 しかし、連日の汚染の広がりのニュースを聞いて不安に感じて、当面は敬遠する人がいてもやむを得ない。それが科学的に適切かどうかは本質的な問題ではない。消費はそもそも科学的根拠に従って行われるものではないし、ある学説が科学的であっても、消費者がそれに基づいて商品を買うことを強制される訳ではない。消費者は常に、自分のお金で買うのだから、自分の感じる最善の選択をするのである。だから、正しくは「信用被害」と言うべきであろう。放射性物質による被害は、風評によって消費者が騙されているのではない。消費者の心において、商品としての信用が失われてしまったのである。
 
 最後に脱原発政策についてである。原発存続についての論争は今後もしばらく続くだろうが、どうやら、客観的に見てこの論争はすでに勝負あったようである。それは「原発存続派」に説得力のある理由や主張が皆無であるからである。
 多少怪しくても、工学者から、「福島原発は事故を起こしたが、原子力発電は元来安全である。今後の技術の改良によって原発事故を2度と起こさないことが出来る」とか「原子力発電は将来性のある夢のエネルギーである」とかそういう主張がなされれば私は原子力発電の安全化と継続をサポートしたい。子どもの時からそのように聞かされているし、将来に向けたエネルギー選択肢は多い方が良い。しかし今、そんな声はまったく聞こえてこない。聞こえてくるのは「我々は当面は原子力発電に頼らざるを得ない」とか、「原発は必要悪である」とか、そういう相当に「低いモチベーション」の言葉である。「必要悪」というのはたいした被害が出ていない時に言える言葉で、手ひどい被害が出ている時に「『必要悪』だから」はおかしいだろう。また、我々が現在、電気不足に悩みながらもどうにか停電にならずにすんでいるのは、原発に頼り切らなかったためである。はっきり言えば火力発電をじゅうぶんに残しておいたおかげである。たとえば、東京電力の供給能力が福島原発に20%以上依存していたら、地震後に首都機能はストップしていたかもしれない。「必要悪」を認めるにしてもそれを頼りにするのは間違っているのである。
最近は、「原発をやめて電気代が高くなると企業がみんな日本から出ていく」などという脅しすら経済団体から出始めた。しかし、大勢の人が福島で復旧のために困難な作業を続けており、そして日本中の人が「がんばろう!日本」と言っている時に、いくら経済原理としては正しくても、「わしらはカネのために日本から出て行きますぞ」というのは、そうそう共感が得られる話ではないであろう。やはり勝負あったようだ。
 

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