稲垣足穂の天文普及活動
                       上原 貞治
 
1.稲垣足穂の天文学への貢献
 20世紀の日本の文学畑の著名人で天文学の普及に貢献した人を挙げるならば、いちばんに野尻抱影を推すことにだれしも異論はないであろう。抱影は、星の文学、星座や和名、天文学の解説、世界各国の関連文献の紹介など、子どもから大人まで、そして初心者からマニアまで、幅広い層の天文愛好家に向けてその文筆の冴えを遺憾なく発揮した。では少し条件を緩めて、同じく20世紀の日本の文学関係者で天文や天体の魅力を伝え読者を魅了した人、ということではどうなるであろうか。抱影のほかに、宮沢賢治、そして、稲垣足穂の名が挙がることであろう。この3人については、まさに三者三様の天文ファンへの貢献があり、現在でも読者を魅了し続けてやまないのであるが、ここでは、稲垣足穂の「現実世界での天文普及」についてその一端を紹介したい。
 始めに断っておくが、しかしながら、足穂の天文への最大の貢献は「現実世界」の天文普及では決してない。彼のほんとうの偉大さは、人間の「精神世界」が天文・天体へ関わっていることの秘密の解明したことにある。ここではそれについての詳細な議論はしないので、足穂の作品をあたっていただくか、足穂文学・哲学の研究家の成果を参照されたい。足穂の最大の業績は、人間が天体と宇宙に関して感じるところの魅力の根元は、人間の精神構造と身体構造にあるとしたことである、と私は考えるが、感じられるところ、分析されるところは、人によって違うだろうし、またそれで良いのである。
 「高尚な議論」はこの程度にしておいて、以後では、足穂が行った、通常の意味での天文普及活動について議論する。そもそも、足穂は、奇人・怪人に属する人と見られていて(事実その通りなのであるが)、現実世界における天文普及についてはあまり注目されてこなかったようである。しかし、同じ個性の営みには違いないので、それに注目をすることはそれなりの意義があることであろう。
 
2.足穂の「天文学普及」作品
 こう呼ぶと違和感があるのかないのかわからないが、足穂は「いちおう」作家であるので、文学をたくさん書いている。そして、その文章のうまさというものは、通常の基準とはまた違うかもしれないが、ピカいちのものがある。「一千一秒物語」、「黄漠奇聞」、「星を売る店」など、天体の魅力を感じさせる人気の高い作品がたくさんあるが、これらは、とうてい「天文学の普及書」ではない。これらを書いていた頃の足穂は正統的な天文学についての知識は特になく、感覚世界の星だけを扱っていたのである。たとえば、のちの作品で、足穂は、以前より自分は夏のさそり座・いて座付近の一帯の夜空がすさまじいものであると感じていて、それを「ヘロデ王宮」(サロメの舞が演じられた)に結びつけていたが、そこにある具体的な星座についてはずっと知らなかった、という意味のことを書いている。
 その足穂にも明らかに実世界の天文をメインに扱っている作品がいくつかある。それらは、いずれも足穂が実世界の星座を覚え始めた昭和期の明石時代(1931〜36)以降のものである。その最初のものは、戦時中の1943年の日記と見られる「横寺日記」であろうか。これは、足穂の「天文観察日記」とでもいうもので、肉眼で空に見えるままの星座を記述したものである。特に、知識や哲学を述べたものではなく、天体を観察したときの素直な感想にとどまっている。続いて世に出たものは、「天文日本・星の学者」(1944)である。これは日本天文学史を扱ったもので、青少年にまじめに天文学の歴史を伝えるために書かれた異例のものであった(これについては、*1で別に議論した)。この本は、日本天文学史が概観されるとともに、要所では細かい解説もあり、この分野を楽しみながら学びたい人は現在でも十分な普及効果が見込めるものである。
 さらに、戦後、足穂は、「宇宙論入門」に始まる20世紀の膨張宇宙や相対論的宇宙論を中心とした一連の現代天文学史を扱ったものを書いている。それまでも、足穂はしばしば一種の宇宙構造論のようなものを作品中で展開していたが、それは彼の感覚や想像に基づく仮説に軸足をおいたものであり、現実の学問の成果に即したものとは言い難かった。しかし、戦後は学術的な天文学の成果も引用するようになり、感覚世界の天体の議論について特化したものは減少し始めるように見える。この「宇宙論入門」は当時の最先端の天文学を扱ったもので、実宇宙の最先端が彼の新しい感覚宇宙とうまくマッチしたのであろう。その後の足穂の作品は、天体、芸術、学問すなわち自然界の諸事物と人間文化や歴史全般を通した形で扱うことが中心的テーマとなる。彼において、飛行機を始めとする「機械」が、自然の構造と人間の感覚を結びつけるものとして、一種のフェティシズムのかたちで現れていることが重要なことは知られているが、それについてはここでは議論しない。こうして、足穂の文学は天文学の知識を踏まえたものになるが、彼の論点の中心は依然として精神世界から動くことはなく、その知識が大きな変革をもたらすことはなかったように見える(本当にそうであるかは、今後の重要な研究課題である)。
 
3.足穂の望遠鏡を覗いた人々
 稲垣足穂は、昭和期の明石時代の1934〜35年頃に、天体望遠鏡を購入している。その詳細は自伝的小説「美しく穉(いとけな)き婦人に始まる」に書かれている。また、別の作品、「愚かなる母の記」、「北落師門」、にもこの望遠鏡は登場する。これらを総合すると、この望遠鏡は直径が約3インチのニュートン・ハーシェル式(軸はずし型反射望遠鏡)であったという。(*2) 足穂がこの望遠鏡を買った動機には複雑な経済的事情があったようであるが、直接的には、2〜3年来の星座の勉強がきっかけとなったことと、彼がもともと有していた光学機器趣味による(子どもの時に買ってもらった玩具の映写機と似た感動があったと書いている)、ということにしておきたい。
 この望遠鏡を彼は身近な人に覗かせていて、作品に書かれていることを信じるならば、O夫人(オー夫人、明石の無量光寺住職夫人であった小川繁子のこと)、足穂の母親、足穂が好意を寄せていた少女、足穂の学校時代からの友人である「忠郷」が、月などを見せられたことになっている。足穂は、自分の気に入った人たちに進んで自分の望遠鏡を覗かせていたらしいので、身近な人達への天文の普及活動といえるだろう。
  足穂の自伝的小説が書かれていることが事実であるかどうかは議論になるところであるが、自分自身のことについてはほぼ事実に沿って書かれているようである。ただし、年代が飛んだり順序が前後したりすることはあるので詳細をつめることが困難な場合が多い。また、身近な登場人物についてはモデルはあるものの多少の脚色がされている場合がしばしばのようである。
 
4.足穂のラジオ出演
 この昭和期の明石時代に、足穂がラジオ出演を果たしていたことをこのたび確認した。作品「北洛師門」に「私」がラジオで星と文学について語る予定であることが「忠郷」の姉との会話の中でふれられているが、これがそこに書かれている通りの事実であったことは、昭和11年(1936)7月6日の新聞のラジオ番組欄によって確認された。この放送は、日本放送協会大阪放送局からの生中継であったと見られ東京でも放送された。しかし、内容については今のところ何も明らかではない。(ご存じの方は私までお知らせいただきたい)。
 以下にその新聞記事と、「北洛師門」の対応する部分を引用する。新聞のコピーは、稲垣足穂が昭和11年(1936)7月6日にラジオ出演したことを示す同日の新聞のラジオ番組表である。(東京朝日新聞縮刷版・昭和十一年七月より。複写許可:筑波大学中央図書館。こちらで施した赤枠内に、「一〇・三〇 婦人の時間(大阪より)「星の文学」 稲垣足穂」とある)
 
 この番組の表題については、私小説、稲垣足穂「北落師門」の内容と一致している。
 
(「忠郷」の姉の「私」に対する会話)
  「そんなことをこんどラジオでお話になりますの。弟は、大昔、中国の天文学者が二人、日食の予言に失敗した理由で死刑にされたことがあるが、この話を是非とも加えて貰うのだと云っています。わたしはそれよりか、婦人の時間にお話になるのでしたら、和歌のようなものを一つ差し挟んでいただきたいと思います。なんでも・・・・・・天の川に波風は立つけれど夜の更けぬまにいざ漕ぎ出そう、という意味の人麿の歌が、確か万葉にありましたが、あれを結びにお使いなさいな。棚機までに間に合うように、わたしが捜させていただきますわ。」  (稲垣足穂「北落師門」より)
 
 また傑作「白昼見」には、このころ大阪に所用で行き、なにがしかの金を持っていたこと、そして姉が住んでいた生家(船場・北久宝寺町)の近くで酒を飲んだ上で姉の元へ寄り、強くなじられたことがふれられている。これは、ラジオ出演やその事前打ち合わせのために彼の生家に近い大阪放送局(当時は上本町)に出かけて報酬を得たことを指すと思われるが、ラジオ出演に関することはまったく書かれていない。
 1936年の足穂は経済的にも身体的にも窮状の極致にあり、夏には借金の返済が滞ったために自宅を手放し、友人宅に居候をしたあといわば古巣を捨てる形で東京に引っ越すのであるが、その直前の時期に、足穂が日本放送協会の東京・大阪同時ラジオ放送という「公の舞台」に出ていたことは驚くべき事実である。当時の日本では、マスコミ放送というものは日本放送協会のラジオしかなかったので、当時のラジオ出演は現在のテレビ出演をはるかに上回るインパクトのあるものであったという。これは、常識的な見方からすると特異なことが起こったと言わざるを得ない。
 
5.戦後の活動
 戦後の1948年頃、東京で出した彼の作品が有名になり始めた頃、足穂は「ロゴス大学」という一種の市民学習運動的な団体の天文部主任になっている。これは、主宰者の上田 光雄の依頼によるものらしく、住居まであてがわれたが、期待された仕事をしなかったのでクビになっている(「東京遁走曲」)。上田は哲学指向の人であったが足穂の哲学と目指すところがあわず、また天文学普及とつながる仕事もほとんどなかったものと推測する。そのあと、彼は、戸塚グランド坂に住んでいた時に、また望遠鏡を持っていて、出版関係の知人であった伊達得夫に土星を見せようと語ったというが、実際に見せたかどうかはわからない。この望遠鏡の入手事情については判明していないが、足穂は「借り物」と言っており、形状やその間の事情からして明石で購入した物とは別物のようである(*3)。 総じて、この頃の彼は、自身の作品を世に出すことで多忙であったようである。
 
6.足穂と関わった人たち
 最後に、天文学の普及に関して稲垣足穂が関わりを持った人々を紹介しておきたい。足穂は野尻抱影の「星座巡礼」などの天文普及書を昭和一ケタの頃から読んでいたようで、「横寺日記」では抱影の天文書の文学的なところを絶賛している。また、戦後に、草下英明(科学教育家、科学ジャーナリスト)の仲介で一度だけ抱影に面会している。
 1936年のラジオ出演の経緯についてはまったくわからないが、すでにラジオのレギュラー出演のあった野尻抱影へ何らかのアプローチを取っていてそれと関係している可能性がある。足穂は、意外とこまめに自分の気に入った人に手紙を出していて、大学や天文台の天文学者にも写真や学術資料に関してコンタクトをとったことがしばしばあったようである。しかし、私の考えでは、この時点での可能性では彼の文学上の友人であった萩原朔太郎がラジオにレギュラー出演していたこと(これは短歌文学に関するものであったという)の関連によるものではないかと思っている。足穂は朔太郎に望遠鏡の購入を世話することを申し出ているが、幻想的な詩を書いた朔太郎も現実の星にはそれほどの興味はなかったように見える。学生時代の友人を除けば、抱影と朔太郎が、彼が戦前に高く評価した文学関係者であったようである。
 戦後、足穂は草下英明という強力な人材を味方に引き入れ、また、プロの天文学界にも多少名が売れるようになったから、世の天文関係者とつながりを持つことに苦労はなくなったであろう。しかし、もとより彼の目指すところは、天文学を普及させることでは到底なかった。その後の彼は、扱うテーマの広がりとともに、また精神の宇宙世界に戻っていったように見受けられる。
 足穂は「観念」と「感覚」の人であったと同時に「実地」の人であった。彼は、少年時代に山野に鉱物をあさり、青年時代には模型のみならず人間が乗れる飛行機を組み立てようとした。そして、夜空に星座をたどり、望遠鏡を向けた。彼は、人間の精神世界を解明するためには現実に宇宙と物理的な接触をすることが必要だ、と考えたのであろうか。
 
謝辞: 稲垣足穂の天文学の活動について情報をくださり、議論をしてくださった角田玉青氏に深く感謝します。本文の3〜6節には、角田氏との議論に基づく点が多々ありますが、いちいち断らなかったことをお詫びとともに申し添えさせていただきます。また、角田氏との議論がなければ私はこの方面について考察をすることはなかったと思います。
 
文献・参照
*1)  上原 貞治 「 稲垣足穂の『星の学者』」 天界 88 (989) [2007.10] 558、東亜天文学会.
*2) この望遠鏡がどういうものであったかについては、角田玉青氏とガラクマ氏によって「天文古玩」(ブログ、http://mononoke.asablo.jp/blog/「タルホ・テレスコープ」)で議論され、ほぼその正体が突き止められた。
*3) この望遠鏡に関わる状況についても角田玉青氏の情報に負うところが大きい。比較的入手しやすい文献として、草下英明「星の文学・美術」(1982) にこの望遠鏡についての記述がある。この望遠鏡の現物を見た草下と伊達は足穂を活動・生活の両面で支援したが、後まで望遠鏡の入手事情を知らなかったらしい、ということはかえって意外である。
 
附記:この文を書き終わってから、我が同好会誌は『銀河鉄道』なのだから、「宮沢賢治の天文普及活動」についてまず書くべきであったということに気がついた。しかし、私は現在、賢治の現実世界の天文普及については何も材料を持ち合わせていない。賢治が天文学の講義のようなことを行ったことがあるかどうかすら知らない。まことに残念で恥じ入るところであるが、どなたかにそれをご紹介いただくか、将来の課題にしていただくしかないだろう。

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