失われたポンス・ガンバール彗星 (上)
 
上原 貞治
 
1.失われた大物周期彗星とは
彗星は太陽系に多数存在し、その軌道も見え方も千差万別であるが、それらの中には「大物周期彗星」と呼びたくなるものがいくつか存在する。かのハレー彗星はその代表格である。周期が比較的長くて肉眼あるいは小望遠鏡で見えるくらい明るくなる彗星のことである。もちろん周期が長いといっても、あまりに長いと観測史上にめったに現れないことになるから、長いほうにも制限をおくべきで、だいたい30年以上200年以内くらいの周期の彗星に限るのががよいであろう。
 これらの中で「失われた」大物周期彗星というのが存在する。ある彗星が、地球接近時に明るくなって観測され、かつ、長い周期彗星の軌道(楕円軌道)を持つことが確認されたのちに、再び地球から遠く去ってしまう。この時にこの彗星は暗くなるのでいったん見失われるが、これはたいていの彗星でそうなので、これだけでは「失われた彗星」とは呼ばない。問題が生じるのは、その周期だけ年月がたっても彗星の再出現が観測されない場合である。再出現が観測されてよい時期が過ぎても依然として観測されない周期彗星は、周期の計算が正しくなかったのか、捜索網をすりぬけて見逃してしまったのか、 消滅してしまったのか...ということなる。これが失われた彗星と呼ばれるものである。多くの場合、失われた原因は、通常の遺失物と同様、見つかるまでわからない。(見つかってもわからない場合もある。)
 
2.失われた彗星の再発見
 近年、失われた大物周期彗星が見つかった例がある。ハレー彗星はここ千年以上回帰ごとに必ず観測されているので失われた彗星ではない。記憶に新しいのは、1995年に再検出されたデビコ彗星(現在の 122P/de Vico)のである。これは、もともとは1846年にデビコによって発見された周期約75年の彗星である。1922年の回帰の時に観測されなかったが、1995年には5等級まで明るくなった。また、1992年に観測されたスウィフト-タットル彗星(現在の 109P/Swift-Tuttle。ペルセウス座流星群の母天体)も、失われた彗星と呼んでよいだろう。こちらは1862年の発見時以来の初めての回帰(周期130年)だったのだが、当初は120年くらいの周期であると見積もられていたため、もっと早く帰ってくると思われていた。何年たっても見つからないので、今回は見逃したか、とそろそろあきらめかけた頃に検出されたものである。こちらも5等くらいまで明るくなった。この2彗星は、いずれも日本人によって偶然に検出されたもので、発見時に大物周期彗星の回帰であることが予期されていたわけではなく、新彗星の発見として取り扱われた後に同定がなされたものである。
 
3.失われたままの大物周期彗星
  現在でも失われたままの大物周期彗星は存在する。その代表格が、1827年に出現したポンス・ガンバール彗星(C/1827M1 Pons-Gambart)である。この彗星の観測期間は短く1827年の6〜7月に1カ月間なされただけである。この彗星は、発見がなされた後しばらくは周期彗星であるという認識がされず、周期無限大の放物線軌道が計算されただけであった。
 しかし、20世紀になって S.Ogura (小倉伸吉か) がこの彗星の軌道を計算し、周期約64年の楕円軌道を持っていたことを指摘した。 問題は、周期の誤差であるが、それは±10年くらいとされた。そうだとすると、この彗星は19世紀の終わり頃に回帰が1度見逃されたことになる。その後、1978年に中野主一氏も軌道計算を行い、約57年(誤差±10年)の周期の軌道を得た。現在、この彗星の周期の公称値として、この57年が採用されている。仮に、この彗星の周期が正確に57年だとすると、彗星は1884年、1941年の2回の回帰で見逃され、さらに1998年にも見逃されたことになる。しかし、周期が64年なら、発見以来3度目の回帰は2019年頃になる。3周期たつと、10年の周期の誤差が溜まって30年の不定性になるので、こうなるともはや押しも押されぬ「失われた彗星」になったといえる。
 
4.ポンス・ガンバール彗星の出現(1827年)
 ポンス・ガンバール彗星は、1827年 6月21日に、イタリアのポンスとフランスのガンバールによって独立に(かつ同夜に)発見された。発見の頃5等程度まで明るくなった。この程度まで明るくなる彗星は通常は見逃されることはないのであるが、運が悪いとそうはいかない。回帰時の正確な位置予報が無い場合は、地球の軌道上の位置によって、地球が彗星から遠い位置や太陽の反対側の観測しにくい位置(地球の位置は何月何日かによって決まる)にいると、あっさりと見逃されてしまうこともあるのである。ポンス・ガンバール彗星の過去2度の回帰がそのような状況であれば、明るい彗星だとしても見逃されることがあり得る。さらに、一般的な彗星の性質として、光度の爆発的な上昇や急降下ひいては消滅も時々あるので、1827年の出現時だけ明るくなったとか、それ以後に消滅した可能性もある。
 この彗星の1827年の出現状況であるが、太陽に比較的近い方向で観測しにくい位置にあったのが北の空に移動して急に観測しやすい位置に来た時に2人にほぼ同時に発見されたものと見られる。単純計算では、その後、この彗星は発見後暗くなる一方であったはずである。7月上旬には満月に近い月があっても観測できたというから、この頃は、まだ6〜7等より明るかったらしい。しかし、最後の観測をした7月21日には相当暗かったという。その後は月や位置の条件は悪くなかったのに観測されなかった。ポンスによると、彗星と紛らわしい天体(りょうけん座、かみのけ座あたりの銀河)が多い領域に入ったからだという。これらの天体と紛れるのなら、彗星は9等以下になっていたと推測される。やはり、7月中旬以降に急に暗くなったのかもしれない。1827年に行われた約70件の位置観測がその後の軌道研究に使われている。
 
5.1110年の彗星との対応
 1979年に長谷川一郎氏は、この彗星が1110年に出現が記録されている彗星(C/1110 K1)と同一である可能性があることを指摘した。これは、1110年の彗星の軌道がポンス・ガンバール彗星の軌道に似ていることから推定されたものである。1110年の観測は誤差が大きくて周期を求めることは出来ず、さらに、すでに述べたように1827年の観測から決めた周期には10年の誤差があるので、それを1110年まで外挿すると2周期程度の誤差が生じ、周期と出現時期から同一性を証拠立てることはまったく不可能である。さらに、逆に1110年の彗星が仮にポンス・ガンバール彗星であったとしても、それは、周期を突き止めるための決定的な情報にはならない。そのあと何周期が経過したか特定できないからである。
 しかし、1110年の彗星の出現状況は、この彗星の見え方を予測する上での参考にはなるであろう。それは、次のようなものであった。この彗星は1110年5月28日(ユリウス暦)に中国で出現が初めて観測された。その後、朝鮮、日本、イスラム世界、ヨーロッパでも観測された。この時の観測状況から考えて、彗星は1827年のポンス・ガンバール彗星よりも1等級程度明るかった可能性がある。彗星の明るさには変動があり、また、太陽に近づく毎に消耗してだんだん暗くなるので、何百年間である程度暗くなることは普通にあることである。また、この2回の出現はどちらも6月ないし7月に見られたもので、周期彗星であると仮定した場合、双方ともも良い条件での回帰のものであった。
 
6.周期の見積もり
  では、仮に1110年の彗星が1827年のポンス・ガンバール彗星であるとして、単純計算で周期を見積もってみる。出現間隔は、717年であるが、周期を約60年としてこの間に軌道をおよそ12周したことになる。本当に12周したのなら、周期は60年だが、11周(周期65年)、13周(同55年)、14周(同51年)も誤差の範囲である。これを元にして、1827年の3周回後の出現年を見積もると、2022年頃(11周を仮定)、2006年頃(12周を仮定)、1992年頃(13周を仮定)、1981年頃(14周を仮定)となる。この彗星は、地球から遠ざかったときに、木星、土星、天王星の引力の影響で軌道を乱される可能性があるが、軌道面の傾きのため、これらの大惑星に極端に近づくことはない。Volker Kasten等の詳しい計算によると、おおむね安定した周期性が維持されるようである。
 以上を仮定し、1970年以降の観測で見逃されていないとすると、次回の出現は2022年頃となる。長谷川氏、中野主一氏の1995年の論文の計算もこれを支持している。そうだとすると、この彗星は1957年頃に見逃されたことになるが、これはありえないこととはいえないだろう。
 
次回は、長谷川氏、中野氏の計算結果の大略と、出現状況の予測を述べる。それから、ポンス・ガンバール彗星の画像(写真は当時はまだ無かったがスケッチ)がないか捜しているのだが見つからない。これも次回までの宿題としたい。
(つづく)

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