歴史に現れた彗星(日本編)
                            上原 貞治
 
 前回が「世界編」だったので今回は「日本編」なのであるが、これがなかなかの難関である。日本には、世界編で述べたような彗星の出現がリアルタイムで歴史事件と結びつけられた例がなかなか見あたらないのである。これは、日本人が天体に関心がなかったからとか、記録が少ないからというわけではない。それどころか、日本は、世界的に見ても天体観測記録に限らず歴史記録が豊富に残っている国である。おもな理由は、やはり「世界」と「日本」の圧倒的な舞台の広さの違いによるものであろう。実はもう一つ別の理由が考えられるのであるが、それは最後に述べることにして、まず本題に入らせていただく。
 
1.日蓮の国難を警告する彗星  (文永元年 C/1264 N1)
 日蓮は1260年に「立正安国論」を著して法華経の教えに従わねば国が滅ぶと鎌倉幕府に警告した。その後、1264年にこの彗星が出現した。日蓮は1268年に「安国論御勘由来」の中でこの彗星の出現に言及し、これは日本の国難の予兆であると述べた。そして、その国難に直接つながるものとして、同年届いた蒙古の国書について言及した。その部分の現代語訳は以下の通りである。
 「文永元年(1264)七月五日、彗星が東の方に出て、その光が国中を包んだ。これはこの世始まって以来の大凶兆である。学者もその理由がわからない。私の悲嘆は深まるばかりである。私が幕府に勘文(「立正安国論」のことか)を捧げてから9年を経て、今年(1268)の閏一月に蒙古から国書が来た。日蓮の予言の通りになったかのようである。」
 この彗星は、中国、朝鮮やヨーロッパでも観測されているが、日本での観測が多く、また、それを大彗星であったとする記録は日本に多い。ただ、他の国の記録によると、日蓮が述べているほどの未曾有の大彗星ではなかったらしい。彗星の規模の評価の分かれるところである。
 しかし、この後、歴史は大きく動いた。日蓮は他の宗派や幕府から罪人として扱われ処刑されかかったが、これまた天体に関わると思われる奇跡によって処刑は中止される。その後、日蓮は流罪となるが釈放され、程なく「未曾有の国難」、蒙古の襲来が起こるのである。
 
2.「信長記」の大彗星 (天正五年 C/1577 V1)
  戦国時代にも大彗星は現れた。織田信長は、天下を目前にして家臣・明智光秀の攻撃にあって倒れたが、その一生は戦いに明け暮れ、しかも苦戦の連続であった。1577年の大彗星は、そのなかでも特に信長の苦しい時、すなわち石山本願寺と上杉謙信、そして家臣・松永久秀の裏切りを同時に相手にしていた時に出現している。この彗星の出現は、「信長記」に一文だけ「九月廿九日戌刻西に当而希有之客星出来候也」(天正5年旧暦9月29日夜8時頃、西の空にきわめて珍しい見知らぬ星が現れました)と述べられている。(「信長記」は有名な「信長公記」とは別の書物である) この彗星の出現の翌日、筒井順慶ら信長軍は、松永久秀攻略の始めとして片岡城に攻め込んだ。
 この彗星は本当に大彗星であったようで、西洋の記録には「火を噴き出し、末端は煙となっている巨大な輝く球状のかたまり」という迫力たっぷりの描写がなされている。また、この彗星はティコ・ブラーエによっても観測され、彗星が大気中の現象ではなく遠くに存在することが証明された。ティコがこの彗星の精密な位置観測をしていた頃、日本では信長が信貴山城に久秀を攻め落とし、久秀はついに切腹した。14〜17世紀頃は、西洋と東洋で科学技術が似たようなレベルで並立していた時代であり、彗星の出現によって両者の同時期の歴史が比べられることは極めて興味深い。
 この彗星は信長の窮地を救う幸運の星となったが、信長記はこの彗星を特に戦勝と結びつけていない。おそらく信長は天変と己の運命を結びつけるような考えをよしとしなかったであろう。
 
3.幕末の三大彗星 (嘉永六年 C/1853 L1クリンケルフュース彗星、安政五年 C/1858 L1ドナチ彗星、文久元年 C/1861 J1 テバット彗星)
 「幕末の三大彗星」などという言葉があるかどうかはしらない。無ければ私がここで造ったことになるが、そういう言葉があるとするなら、それが標記の3彗星であることに異論を唱える人はいないだろう。これらの彗星はいずれも大彗星で、リアルタイムで歴史事件と結びつけられたことはなかったかもしれないが、その時代の民衆が幕末の世の不安な現象の一つとして、また、将来への不安を増幅させるものとしてこれらの彗星を見上げたことは間違いない。
 第一のクリンケルフュース彗星は黒船来航とほぼ時を同じくして現れた。この彗星が明るく見えたのはグレゴリオ暦の9月初めで、このころにはペリーは国書を幕府に渡して江戸をいったん離れていたが、日本中が国書の処理をめぐって大騒ぎになっていた。
 第二のドナチ彗星は、華麗な大彗星であり、美しい西洋画で有名である。この画のような景色になったのは日本の安政五年八月に当たる。この彗星を安政七年三月の桜田門外の変と結びつけた歴史小説があるが、出現時期はむしろその前の「安政の大獄」の時期に近い。また、このころ江戸でコレラが大流行した。
 第三のテバット彗星は、いよいよ幕末も押し迫って誰もが社会の変革を予期し始めたころに出現した。この彗星は幅広い尾が美しい彗星であった。260年続いた幕藩体制が崩壊していくという日本の空に、天は最上級の美しい彗星を3つも立て続けに掲げてくれたのである。
 
おまけ:彗星ははたして凶兆か
 西洋では、彗星は凶兆、つまり天が示してくれた悪いことが起こる知らせ、として広く受け入れられており、そのように受け止めた記録が多く残っている。東洋でもそのような事情は大きくは違わなかったと思うのだが、日本にはそのような立場での記録はあまり見あたらないように思う。
 その理由を考えてみると、日本を含む東洋では、彗星は「凶兆」というよりも、「凶事」そのものとして理解されていた、ということがあるようである。そして、「凶事」が起こるのは時の支配者の政治が悪いから、ということになる。つまり、西洋では彗星は「天からの警告」であったのだが、東洋では「人間の失政の結果」ととらえられていたようだ。だから、東洋では、彗星出現という凶事を歴史文書に記録するのは事実の記録としてやむを得ないのであるが、それを時の社会と結びつけて議論するならば、それは必ず直接的に時の政権の失政をあげつらい批判することになってしまう。しかし、彗星出現を失政そのものだと批判するのは、いかにもはばかられたのであろう。日本で彗星の出現が歴史事件と結びつけて記載されている例が西洋ほどないことは、この理由によって説明できるのではないか。
 一般の民衆のレベルでは、政権への批判と彗星の出現が結びつけられている歴史文献があるのかもしれない。これは今後の研究課題になるだろう。
 
おまけその2:「続日本紀」・「道鏡事件」の彗星 (神護景雲四年、C/770 K1)
 日本の天文記録は飛鳥時代にまで遡るので、平安時代以前にも「歴史に現れた彗星」がないかと捜してみたが、あまり適当なものは見つからない。そのような中で、「続日本紀」によると、神護景雲三年(769)、称徳天皇(女帝、孝謙天皇と同一人物)の代に怪僧といわれる道鏡が次期の皇位を窺い天皇も一時はこれを支持するという、いわゆる道鏡事件(宇佐八幡宮神託事件)が起こっている。そしてその翌年のところに称徳天皇の崩御とともに、北斗七星の近くに彗星が現れたことが記載されている。彗星の出現と、女帝の不幸な事件と死のあいだに何の関連も付けられていないのが、かえって現代の我々には何とも言えない余韻を感じさせる。この彗星は、中国と朝鮮にも出現の記録が残っている。
 他に、彗星の出現が改元と結びついたような例もあるようだが、具体的な「歴史事件」と連動したものか明瞭でなかったのでここでは取り上げなかった。
 
 

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