歴史に現れた彗星(世界編)
上原 貞治
 
 歴史小説や年代記に、歴史的大事件に伴ってしばしば大彗星が出現する。でも、こういうのはだいたいはウソである。(ウソという言い方が悪ければ、フィクション、あるいは演出である)これらの記述の作者は、彗星は突然現れるものだからでっち上げてもばれるまい、と思ったのかもしれないが、そんなに目を引くような大彗星の出現があれば、世界のどこかで記録されていることが十分期待できるのでばれる場合もある。一国だけでの記録では真偽の判定できないが、世界に観測記録を求めればだいたいの判定はつくのである。
 でも、非常に少数ではあるが、歴史的事件に大彗星出現が伴ったというのが事実である場合もある。こういうのは、その歴史とは関係のない国での記録によって実証することが必須である。
 
1.前44年 ユリウス・カエサル暗殺事件と彗星の出現 (C/-43 K1)
 ウィリアム・シェイクスピアの戯曲「ジュリアス・シーザー」に次のようなせりふがある。「乞食が死んでも、彗星は現われないが、王侯が死ねば、天は自ら焔を放つ」。カエサルが死んだ後に大彗星が出現したのは、紛れもない事実である。
 カエサルがブルータスらに暗殺されたのは、前44年3月15日であった。そして、大彗星がローマで観察されたのは5月12日であった。この彗星の出現に関するものと考えられる記述が、ローマとギリシアのみならず、中国と朝鮮にもあって、この彗星の出現はフィクションではないと考えられている。また、この彗星の出現時に、アウグストゥスや同時代のローマ市民がすでにこの彗星の出現とカエサルの死を関連づけて見ていたという。この彗星の軌道は、現代の天文学者によって一応計算されているが、観測とそれほど明瞭に対応してはおらず、また、諸国での観測の同定も十分に出来ていないので、それほど目立った大彗星ではなかったのかもしれない。なお、ハレー彗星の出現は前12年に観測されているので、カエサルの彗星はハレー彗星ではない。
 
2.ノルマンジー公のイングランド征服とハレー彗星 (1P/1066 G1、Halley's comet)
 1066年といえばノルマンジー公がイングランドを征服してノルマン王朝を開いた年であり、そしてハレー彗星が出現した年である。記録によると、イングランド軍の兵士たちはこの彗星の出現に気づいており、これがイングランド軍の戦意の喪失につながったという。
 順序としては、イングランド王ハロルドの即位のあと、4月にハレー彗星が出現、そのあとイングランドは、ノルウェーとノルマンジーから攻められ、ノルウェーはかろうじて退けたものの、戦いの疲弊のためにノルマンジーには敗れてしまった。有名なバイユーのタペストリーにこの戦いを描いた刺繍があるが、そこにはハレー彗星も描かれている。ハレー彗星出現とノルマンの征服は切っても切り離せない歴史事件なのである。
このハレー彗星の出現は、ヨーロッパだけでなく、中国や日本でも記録されているし、ハレー彗星の軌道は長年にわたって正確におさえることができるので、当時の出現状況を追うことも容易である。この時のハレー彗星の出現は、4月下旬の夕方の西空に長い尾をたなびかせるかなり目立つ「大出現」であった。
 
3.ナポレオンのロシア遠征と彗星 (C/1811 F1, Great Comet, also Flaugergues)
 トルストイの小説、「戦争と平和」に「1811年の彗星」というのが出てくる。映画では、前半の最後のところでロシアの大きな空に長い尾をたなびかせ、後半のナポレオンのロシア遠征を予感させる壮大な効果を出している。この彗星が出現したのは、1811年3月25日で、ナポレオンがロシアに侵攻を始める1812年6月の1年以上前であった。ナポレオンは、この彗星出現を自分の戦勝の予兆と見て、東ヨーロッパとロシアに侵攻したという。この彗星が北天に移動して見やすくなったのは1811年の10月であり、ロシアから夜空に長い尾を引いて眺められたとすると、それはこの頃のことでないといけない。ただハーシェルらの観測によると、尾の長さは最大でも25度程度だったようで、空を横切って尾をたなびかせると言うほどではなかったかもしれない。(イギリスとロシアでは空の状態がまるで違うのかもしれないが)
 ナポレオンがロシア侵攻を開始した1812年にはこの彗星はすでに暗くなっており、そして、彼は、彗星の代わりにあの悲惨な冬将軍に出会うことになるのであった。
 
番外.ウソ?編
 アステカ帝国モンテスマの彗星
 1520年にアステカ帝国の首都テノチティトランでスペイン人コルテス等との交渉中に国民の暴動によって命を落としたアステカ皇帝モンテスマ(モクテスマ2世)は、その在位中に帝国の運命の予兆として「赤い彗星」の出現報告を受けたという記録が残っている。モクテスマ2世の死によって、スペイン人とアステカ帝国は全面戦争に移り、翌1521年、アステカ帝国は周辺所領の支援を受けたスペイン人に首都を包囲されて滅亡した。
 これだけ聞くと「赤い彗星」はまゆつばのように感じるが、アステカ帝国では天文学が発達しており、実際に専門家が天体観測をして皇帝に報告していたのは事実と考えられるので、考えようによってはありそうなことである。
 この赤い彗星の出現は、モクテスマ2世が皇位についた1502年以降、スペイン人が首都に現れた1519年以前のことでないといけないが、その間に目立った彗星の記録は世界の他のところでは残っていない。残念ながら、新たな発見がない限りこの彗星は虚構として扱わざるを得ないだろう。
 
 

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