星と最近の私

                                                 上原 貞治
 
 
 思えば星空に興味を持つようになってから30年以上の年月が過ぎた。しかし、「星を見る」ということについて言えば、小学生の時から今まで本質的な変化はほとんどなかったように思う。長い間、ただのんべんだらりんと星を見続けてきたのは事実であるが、考えることが全くなかったというわけでもないし、またただすべてを忘れて星に熱中してきたわけでもない。最近星を見るということについて考えていることを断片的でまとまりがつかないものではあるが、少し並べてみたい。
 
 星を見るのに定型的な流儀があるものとは思えない。星と人間との関わり方というのは十人十色であろう。晴れれば毎晩のように星を見るのを熱心な趣味としている人もあれば、いやでも観測をしないといけないという天文学者もいるだろうし、仕事に疲れた帰り道に星を見るのが一服の気休めである人もいるだろう。また、何十年も星空に興味を持たず生きてきてある日突然星を見、大きな感銘を受ける人もないとはいえないだろう。このうち、誰が星ともっとも意義の深い関わりを持ったか判断できるものではないだろう。
 
 人間は宇宙の一部なのだから、出来るだけそういうことを感覚的に体験できるやり方で、星とつきあいたいと考えてきた。もちろん、子供のときはこういうことを意識はしなかったが、心の底ではやはりこういう風に考えていたのだと信じたい。だから、私は、現在星を見るとき、特別な装置や工夫を凝らしたいとは思わない。宇宙の現象というものを出来るだけ人間が生来持っている感覚で見たいと思っている。それには、肉眼で見るのがいちばんである。残念ながら、空の状態は悪くなり、視力も十分とはいえないので、望遠鏡の力を借りざるを得ない。しかし、望遠鏡で見る星の光は、数枚の鏡又はレンズを経ているとはいえ、遠くの星のエネルギーを目に照射しているものに違いはない。だから、写真を撮ったりすることには昔ほどの興味はなくなってきた。でも、これには習慣というか慣れのようなものもあると思う。毎日、電波望遠鏡で天体観測をしているプロの観測者は、電波の画像を感覚的に実像として理解できると思われるからである。
 
 「星を見に出かける」ということばがある。これが、自分の生活圏内に出かけるのであれば問題はないが、非常に遠いところまでわざわざ出かけるのには問題があると感じる。もちろん、都会や住宅地では星はよく見えないのでしかたがない。しかたがないのはよくわかった上での感情の議論である。星というのはどこにでもあるものである。ある場所に星があるわけではなく、星だらけの宇宙のなかで我々は生まれてから死ぬまで生活していることを忘れてはならないと思う。「星を見に行く」という言葉は、星というのは特別な場所でしか見られないという誤ったイメージを人に与えるようで好きでない。上野動物園や中国の竹藪でしか見られないパンダと一緒にしてほしくはない。とはいっても、自宅周辺から見る星の光は弱々しく、見ているとなんだか悲しくなるのも事実である。
 
 星を見るのに理屈は入らないと考えてきた。しかし、私は科学の研究を仕事とするようになってから、避けがたい邪念が入ってきた。それは、「科学的に価値のある研究」という物差しを趣味の星見にまで導入するようになったのである。「科学的に価値のある研究」ということはすなわち「天文学に多少なりとも貢献のできるような観測」ということである。この考えに基づいて、私は現在、彗星の光度の目測や小惑星による恒星の掩蔽の観測をしている。そして、実際、非常にわずかながら寄与はしていると自負している。このような考えが邪道であることは十分認識している。しかし、自分の趣味を「客観的な」観点からも位置づけることができるように、このような多少の工夫をすることはあっても良いと思う。
 
 星に特別の興味を持っていない大人やまだ学習途上の子供に、星を見せたり、星についての話を紹介したりするのにはどういう意味があるのだろうか。私は、決して勉強や体験学習のためにそれを勧めているのではない。わざわざ難しく言うと、その人その人の中にもともとあったと思われる「宇宙と人間との関係」についての意識をもう一度呼び覚ましてもらうために勧めているような気がする。時々呼び覚ましてやらないと忘れてしまうからである。
 
大宇宙の大きさに比べれば人間なんてちっぽけなものだし、ましてや我々の日々の生活なんて とるに足らないものである、という話を良く聞く。それは確かにその通りなのだが、私にはなかなか実感としてそうは思えない(みなさんはどうですか?)。私には、この小さい地球の上のことは 宇宙にとっても結構大事件のような気がする。それは、この宇宙を認識することのできる人間というものがたくさん存在しているからである。そして、もし、人間が宇宙に対してなにか 意義のある仕事ができるとすれば、それは、日々の生活や経験により、それぞれの考えで宇宙や星を 認識することではないかと思う。
 
 長年にわたって星を見ることを趣味にしてきて本当に良かったと感じるときがある。それは、自宅近くの駐車場でふと星空を見上げ、意外に暗い星まで見えたときである。そこには、オリオン座が、牡牛座が、暗い星まで子供の時に見た配列のままで並んでいるし、木星や土星も昔と同じ色で輝いている。私は、その瞬間、一瞬にして子供の時の気持ちに帰ることができるのである。そして、「星を見ることを趣味にしてきて良かった」というよりも、「星はありがたいものだなあ」と感ずるのである。