歳差の歴史(第3回)
上原 貞治
 
 
7.日本の古代
 日本で行われた天文学というのは、基本的には、18世紀までは中国から輸入された天文学であり、19世紀以降は西洋から直接的にもたらされた天文学である。歳差というものを日本人が意識したのはいつからかはっきりしないが、次の事項は注目に値すると思われる。
 それは、「延喜」(えんぎ)という元号である。平安時代にあった元号で、西暦900年から920年まで続いた。これは、一般には「京都から南極老人星(カノープス)が見えてめでたかった」のでこの元号に改元した、といわれている。確かに、内陸の京都からカノープスが見られることは珍しかろうが、それだけで改元するのはちょっと大げさなような気もする。
 このことはもっと重要な事実と結びついているという見方がある。それは、この延喜の時代にカノープスの赤緯が、歳差現象により最北になったということである。現在、ステラナビゲータ6で計算してみるとカノープスの赤緯が最北であったのは、西暦913年頃らしい。つまり、ここ26,000年間で最もカノープスが北半球中緯度で見やすかったのが、延喜年間の22年間であったわけである。これは偶然とは思えない。
 しかし、ある年にカノープスの赤緯が最北になる、というのはその時の観測のみで判明する事実ではない。歳差現象と空間座標の数学を理解しており、かつ、かなり高度な計算をして初めてわかることなのである。平安時代の日本に独力でこれだけの計算ができた人がいたとは思えないので、これは中国(当時は唐)からあらかじめ伝えられた知識だったのだろう。(カノープスの赤緯が最北になるというのは、もちろん観測場所にはよらない)。唐の人から「歳差のために××年後に南極老人星が最も北にやって来る」という情報を聞いた人がいて、その年の前後に「延喜」に改元することを朝廷に提案したものと思われる。
 ところで、本家の中国で皮肉にもこの延喜年間の907年に唐が滅亡してしまったこともあって、カノープスの赤緯最北と改元を行うことの必然性については明白ではない。
 
8.日本の近世 〜麻田剛立の消長法
 日本の暦算天文学が中国と西洋の天文学知識の移入のみで完全に尽きているのであればこれ以上書くことは何もないのであるが、こと「歳差」に関してはそうはいかない。それは、麻田剛立がいるからである。彼が独自の暦算の研究をしたおかげで、18世紀の終わりの30年間だけは、特別な「日本における『歳差』の研究」というものが存在したらしい。麻田はこの件に関して十分な記録を文献に残していないので、ここに書くことには筆者の推測も含まれている。若干の新しいアイデアも含まれていると思う。
 麻田剛立(1734-1799)は江戸時代の暦算天文学の第一人者である。彼は、若い頃(1770年代前半以前)には、おもに地球を宇宙の中心とし恒星天を基準として春分点が歳差によって西に移動するという、東洋西洋共通の伝統的な天動説(恒星座標主義)に基づいて暦の計算をしていたようである。当時の暦の計算の最重要課題は、太陰太陽暦を作るためにまず太陽と月の位置を計算することであり、さらに暦を季節の変化に従わせるために、黄道座標に基づいて二至二分(冬至・春分・夏至・秋分)の日を確定することにあった。麻田剛立は、恒星座標主義と歳差、それと昔の観測を暦算と融合させるために、歳周(太陽年)が歳差と同じ周期で時とともに変化する、という説を打ち立てた。これが「麻田消長法」である。この麻田消長法は、のちに当時の日本の正式の暦である「寛政暦」にも採用されたが、その詳細は長らく秘密とされた。
 麻田が、麻田消長法を考えた根拠ははっきりとしないが、どうやら、恒星を固定した座標系で地球の周りを廻る太陽の軌道の変化から着想したものらしい。太陽の軌道の中心が地球と一致しないために(当時は楕円軌道ではなく離心円の軌道を仮定していた)、近地点の方向と冬至点の方向が時代ととも相対的にずれていき、それで太陽年が一定しなくなるというふうに考えたのかもしれない。麻田消長法では、近点年と恒星年は同じに採られていた。歳差の周期はわかっていたが、麻田消長法における太陽年の長さの変化については理論的に決定されず、古代の日食の観測などを再現するように恣意的に決められた。もちろん、この麻田消長法は現代の天文学から見て正しいものではない。現在知られている地球の自転周期の遅れ(かつては天体運動の「永年加速」と呼ばれた)の効果を、麻田消長法の効果に例える人がいるが、実際には全く違う発想によるものであったようである。麻田は、恒星座標主義における歳差のエッセンスを、黄道中心の暦計算に「麻田消長法」というかたちで持ち込んだものといえるのではないだろうか。
 麻田は、その後、中国から入ってきたティコの体系の天動説(黄道を固定して考え、歳差は恒星の固有運動であるとする)やケプラー運動を記述した「暦象考成後編」の暦学を学んだが、上に書いたような歳差の見方を取り下げることはなく、最後まで麻田消長法を貫いた。もし、歳差が恒星の固有運動であるならば、歳差が太陽年の長さと連動する根拠はない。麻田は、歳差が恒星の固有運動であるとは思わなかったのであろう。
 一方、麻田の朋友であった三浦梅園は、西洋のティコ流の天動説と彼独自の陰陽哲学に基づいて、歳差を恒星の固有運動と見なしていた。そしてそれに理論的な説明まで付けていた。麻田はこの説を気にしたであろう。歳差が恒星の固有運動ならば、太陽の運動常数を歳差の周期で消長せしめる麻田消長法は根拠を失いかねないからである。そして、おそらくは、この疑問に端を発して麻田が惑星の公転周期と軌道半径の関係の探求を始め、ケプラーの第3法則を独自に発見した可能性があることは別論に述べた。
 いずれにしても、どちらの説にも確固とした証拠があったわけではなく、また、麻田は根拠のない特定の学説を頭から信じてしまうような人ではなかったので、歳差の理由についてはよくわからなかったというのが正直なところのようである。麻田消長法についても、昔の観測をよく再現する、ということ以上の自信はなかったのではないか。
 
9.日本の近世 〜高橋至時の「宇宙論」
 麻田の死の前年の1798年、麻田の門人の高橋至時は蘭書から知った最新の西洋知識を引用しながら、自説を書いた手紙を病床の麻田に送った。「夜空の恒星はそのひとつひとつが遠くの太陽である、という西洋の説が正しいならば、歳差は恒星の固有運動であるはずがない。もし、すべての恒星が一斉に東に移動するならば太陽も移動しなければならない。そうしたら歳差はおこらないはずだ。歳差は太陽の運動と地球との間に起因している現象のはずだ。」この高橋の冷徹な分析は、歳差を太陽の公転運動に結びつけていた麻田にとっては、自説を支えるうれしいものであったに違いない。高橋が、晩年にコペルニクス説による惑星運動に傾倒しつつ、麻田剛立の暦算天文学を引き継ぎ、発展させようとしたのは、コペルニクス説が歳差が恒星の固有運動ではなく地球の公転と自転に起因していることを自動的に保証してくれたからであったと思われる。そして、麻田剛立はついに歳差の本当の理由を知ることなく、しかしおそらくは自身の麻田消長法には自信をいだきつつ、1799年にこの世を去った。
 高橋がオランダ語で書かれたラランドの天文書を読んで歳差が地球の自転軸の方向の変化であることを確認したのは、1803年のことであった。麻田剛立と高橋至時の2人は、ひょっとすると長い日本の歴史の中でたった2人だけであったかもしれないが、そしてわずか30年足らずのことであったかもしれないが、歳差の理由について西洋人が2000年間にわたって考えたことに彼等もまた頭を悩ませていたのだ、と私は想像する。
 
10.終わりに
 大勢の人がそれに気にかけた。それに胸を躍らせた人もいた。それから宇宙の奥義を汲み取ろうとした人もあった。しかし、「歳差現象」が天文学史の華やかな表舞台に出ることは一度もなかった。結局は、それは、地球の地軸の向きの変化によるという天文学的現象というにはあまりにスケールの小さい現象であった。そうして、最近は、「日本でも昔は南十字星が見えたんだよ」、「オリオン座が夏に見えるような時代が来るんだよ」というようなたわいもない話さえ天文の話題として余り聞くことはなくなった。
 
(連載終わり)