歳差の歴史(第2回)
上原 貞治
 
 
4.中国の星図と暦
 前回にも述べたが、中国古来の星図は「赤道座標主義」である。中国の星図には、天の北極を中心にした円盤状のものと、赤経の線を垂直、赤緯の線を水平に取った長方形型のものが存在する。しかしながら、そのどちらにおいても赤経ゼロ度というのが定義されているわけではない。
 中国では紀元前以前より「二十八宿」という28の星座が定められており、そのそれぞれに赤経の基準になる「距星」というものが定義されていた。それで、赤経の原点をこの距星に採ったのである。距星は28個あるから、星空の部分部分によって参照される距星は異なる。いずれにせよ、赤経の原点は、春分点や冬至点によっているわけではないので歳差は関係ない。どちらかというとこれは「赤道・恒星座標系」とでも呼ぶべきものであろう。もっとも厳密に言うと歳差は関係ないわけではない。歳差のために経線、緯線の走る方向が星空に対して変わるため、長い間には変化が起こる。しかしながら、中国の星図の座標系は、それほど厳密な測定に使われたことはなく彗星や新星の出現した位置を示すのに使われた程度であったので、歳差がそれほど問題にされたことはなかったようである。
 中国人は4世紀の東晋の時代に歳差を発見したという。中国では太陰太陽暦が発達した。中国の暦は(日本の旧暦もほぼ同じ)冬至の日時を基準にしたものであり、また、月齢をあらかじめ計算するので、太陽と月の見かけの位置が重要になる。だから、冬至点の方向の決定が重要である。この冬至点が赤道・恒星座標系に対してだんだんと西に動いていく効果として歳差は発見されたのである。こちらは、月齢を確定したり、日食や月食の予報をしたりするのであるから、相当の精密科学であった。しかしながら、暦の作成においては冬至から冬至までの日数や太陽と月、それから冬至点の相対的な動きがまず問題であり、これらが恒星とどういう位置関係にあるかはそれほど問題ではない。彗星出現などの天変を記録する天文学と暦の計算をする暦学では目的が違い、それに従って手法が違っても矛盾はない。ただ、太陽の位置の計算の計算には近日点黄経の移動が問題になる。これはそのほとんどが歳差の効果であるが、これは暦算のパラメータの1つとして計算に組み入れることになった。
 中国の暦学では、日食や月食の予報が当たることは重要であったが、逆に予報が当たればもうそれでよいわけで、歳差の本当の理由が追及されることはなかったのではないか。
 
5.西洋の新しい天動説
 歳差は、だいたい洋の東西を問わず恒星天に対して春分点が移動する現象と見られていた。春分点に対して恒星天が移動する現象と見ることも、もちろん成り立つのであるが、数多くの恒星が一斉に同じ角度だけ移動するとは考え難いと思われたのである。歳差を発見したといわれるヒッパルコスもそう考えた。恒星を止めておいて春分点を動かす方がどう考えても自然である。
 しかしながら、16世紀頃にこの変な考えが新しい説として受け入れられた。歳差は恒星の固有の運動だというのである。なぜ、こんな考え方をしたのか想像してみるのは興味深い。私は、その最大の理由は、当時の天動説が精密化したために天文学者の頭が一種の麻痺を起こしてしまったことではないかと想像する。惑星の複雑な運動を記述するために彼等は数多くの補正的な軌道を1つの惑星に与えた。そして、月、太陽、複雑な惑星の軌道、そして恒星天は、1日に1回一斉に地球の周りを1周する。これは「宗動天」と呼ばれる日周運動をつかさどる天殻があってそれが月〜恒星の天殻をすべて連動して1日に1回ごそっと回すというのである。こういうモデルで毎日宇宙のことを考えておれば、恒星天が歳差のために六十数年に1度くらい固有の運動をすることは何でもなかろう。
 もう1つの理由は、月から恒星までの天殻の位置を固有運動の角速度の順に並べたことである。ここで角速度とは黄道座標系に対する角速度と考えて良い。そうすると、恒星天は黄道に対して、もっとも外側にある惑星である土星と同じように、(しかしそれよりも遅い角速度で)西から東に固有の運動をしてちょうど都合が良かったのである。
 さらに、歳差の周期が一定ではなく時とともに変化するという「トレピデーション」という説も提唱された。歳差の1周期を経ないうちに周期が変化するという説であるから、これは春分点の移動の角速度が変化するというわけである。この説は、かつて、この角速度が誤って100年に1度と言われたことに起因するらしいが、歳差の理由を(誤って)恒星あるいは太陽の運動にあるとみるならば、これも納得できない説ではないのかもしれない(太陽の東進の角速度が一定でないことを思い出すなら)。しかし、実際にはこれも人間がものごとを現実以上に複雑に考えたことによる幻影にすぎない。
 
 昔はそれなりに正しく理解されていたものが、あるとき、間違った方向に解釈が変わる、そういうことが起こるということは、人間の考え方というものについて探る上でたいへん興味深い現象であると思う。より複雑なモデルのほうが、進歩した理論であるかのように錯覚をすることもあろう。
 
6.そして、歳差の正しい理解へ
 西洋でコペルニクスによって地動説が提唱され、それが大きな議論になったこと、そして、それが100年の時を経て受け入れられていったことは大事件であるが、歳差はここでも裏方に徹した。しかし、地動説が受け入れられてしまえば、歳差の理由ははっきりすることになる。春分点、冬至点などというのは、地球の地軸が傾いている方向で決まるもの以外の何ものでもない。ということは、春分点の動きは、地軸の傾きの向きの変化と見るしかないのである。その物理的説明は別にして、地動説が認められると同時に、歳差の理由も突き止められたのである。
 
 次回はたぶん最終回で、日本の江戸時代の暦算について書きます。
                                 (つづく)