歳差の歴史(第1回)
上原 貞治
 
 
 歳差とは、ひとことで言えば、地球の自転軸の向きが時とともに変わることである。外力が全く働かない状態では、自転軸の向きは変わらないはずであるが、重力が働いている地上で回転する独楽(こま)の運動に見るように、外力が働くと自然と「すりこぎ運動」をする。これが歳差である。
 この「何気ない」歳差運動であるが、それが天文学の歴史に与えた影響は多大なものであったはずである。 しかし、それは、天文学史上、他の偉大な発見に隠れており主役になったことはなかった。「歳差」は天文学の歴史の闇の支配者として、人々の心に巣くい、他の重要な発見に影ながら影響を与えてきたことと想像する。ここでは、歳差に関するいろいろな視相について述べてみたい。
 
1.歳差の発見
 歳差の周期は約26,000年なので、それに気づくのは容易なことではないと想像できる。では歳差を発見したのは誰であろうか? 天文学史によると、紀元前2世紀にギリシアの天文学者ヒッパルコスが自分の観測を古い星図と比較していて見つけたということになっている。彼は、月食を利用してスピカの黄経を測定し、過去の観測とのずれを見つけた(と、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に載っている)。また、星図には、天の北極の位置も描かれていたと思われるが、その位置が恒星に対して時代とともに変わっていることも発見可能であっただろう。天の北極と恒星の対応は、歳差のために100年で0.56度もずれるはずである。
 しかしながら、ヒッパルコスを待たずして、古代エジプトで歳差の発見は可能であったのではないか。エジプトでは、日の出前にシリウスが昇るのを見て麦まきの季節を決めたと伝えられている。 明るい星の日の出前出現というのは2〜3日の精度で決定できるはずである。彼らは春分の決定もできたのであるから、たとえば200年もたてばシリウスの日の出前出現の日のずれは検出できたのではないか。これは、季節を定める二至二分と恒星の出現日のずれとして現れるのであるから、ことは重大であったはずである。また、ピラミッドの内部から外部につながる穴が当時の北極星のほうを向いているという話もあった。上に書いたように、100年くらいで北極星の方向がずれるのも検出できたはずである。でも、ピラミッドの中に好きなときに入れたとは思えないので、実際に観測はできなかったと思われる。
 
2.動くのは、春分点か、恒星か。占星術
 恒星の間を春分点が動いていくのであるが、止まっているのはどちらであろうか。すべての運動は相対的なので、本当はこれはどちらでもよい。でも、考え方やモデルとしては、どちらかに決めないと話がしにくい。
 古代の人々は、恒星を基準にし、春分点のほうが移動すると考えた場合が多かったようである。おそらく、春分点と比べて星座の方がより親しみ深かったたからではないかと推測する。占星術では、黄道12星座というのがある。伝統的な占星術では、「おひつじ座」が筆頭になっているが、それは占星術が成立した時代にここに春分があったからである。現在のいわゆる「誕生星座」もこの時代の太陽の位置に基づいている。その後、歳差により春分点は「うお座」に移動したが、現在の占星術にこれは反映されていない。占星術では、惑星の動きがおもに参照されるので、星座名というのは、ただの黄道座標系内での方向を示しているものであり、実際の恒星天とは関係ないというのであろう。とすれば、占星術は、春分点を基準とした座標系にのっとって行われていることになる。(占星術に関しては、私はちゃんと調べていないので、これはただの推測である。)
 なお、キリスト教において、春分点がおひつじ座からうお座に移動したということは特別意味があるらしい。「さかな」がイエス・キリストのシンボルとされているが、これは、キリストが生きていた時代に、春分点がおひつじ座からうお座に移ったことによるものだという。また、近年の新興宗教では、今世紀に春分点がうお座からみずがめ座に移ると称して、それに意味を持たそうとしている。
 
3.古い天動説
 古代の人が、夜空を見て不思議に思ったのは惑星の動きであった。惑星は、恒星の間を、時には西から東へ、時には東から西へと動く。動く速さも明るさも変化する。これを説明づけるために、天動説による太陽系宇宙のモデルが考えられた。この太陽系宇宙モデルにおいて、春分点を固定するか、恒星天を固定するかは自由であるが、恒星天を固定する方が、惑星の動きを観測と比較するには直接的であったと思われる。ヒッパルコスは、全ての恒星が同様に歳差によって固有の運動をしているというのは考えづらいので、恒星は静止しており、歳差を春分点の移動と考えた。この考えは西洋に受け継がれ、古代から中世にかけての天動説でもこちらが主流の考えかたとなったようである。
 おおざっぱに言って、古代においては、西洋は黄道中心主義、東洋(というのは実は中国のこと)は赤道中心主義である。星図を作ったり、恒星の位置を数値で表すときに黄道を座標軸として取っていると、歳差の効果はただ単に黄経をずらしていけばよいことになる。あるいは、恒星をじっとさせておいて春分点の印だけをずらせばよい。しかし、中国では、赤道が基準とされたの話はややこしくなる。赤道は歳差によって恒星の間を移動していくのである(北極星が変わってしまうことからそれが想像できよう)。また、西洋においても、その後、歳差を恒星の固有の運動と考える人が出始める。これらのことについては、次回に書くことにする。
(つづく)