続編・日本製ケプラーの第3法則?
 「麻田翁五星距地之奇法」の発見
上原 貞治
 
0.はじめに
 前号まで連載していた「日本製ケプラーの第3法則『麻田翁五星距地之奇法』を読む」で、江戸時代の天文学者・麻田剛立がケプラーの第3法則に対応する「五星距地之奇法」を彼の独創で発見したかどうかについて考察した。そして、その結果、(1)「五星距地之奇法」は天動説の体系に基づく数値から地動説の考えに従って導き出された可能性が高い、(2)麻田の門人の間重富がこの法則についての説明を提唱した。それは地動説に基づいているが彼独自のものである、ということを指摘した。これらはいずれも五星距地之奇法が麻田の独創によるものであることを支持しているが、麻田がオランダ人やオランダ語の通詞から何らかのヒントを得た可能性を否定するものではない。
 
 その後の私の調査によって、麻田が独創で(1)を行ったことを裏付けるかなり有力な事実が見つかったので、今回、続編を組むことにした。
 
1.五星距地之奇法の数値の導出
 「五星距地之奇法」には、惑星の公転周期(原著では「五星の一周天」)の数値がインプットとして与えられている。これらの数値は、麻田剛立の著書「実験録推歩法」から取られたものであることがはっきりした。実験録推歩法は、麻田の研究の中核をなす暦算書で何度も改訂が重ねられているが、天明6年(1786年)に一応の完成を見たものである。この暦算書はティコの天動説の体系に基づいており、そこにリストされているわずか4種類の定数から、「五星距地之奇法」掲載の公転周期の数値を簡単な計算によって完全に再現できる。その方法は以下の通りである。(1)〜(4)は、実験録推歩法に載せられている用数である。
 
(1)外惑星の毎日平行   −−− Aとする。外惑星の平均日々運動に対応。
(2)内惑星の次輪周毎日平行−−− Bとする。内惑星の太陽との相対角度(位相角)の角速度に対応。
(3)日本輪周毎日平行   −−− Cとする。地球−太陽間の距離の遠近の周期(近点年)を表す定数で、角速度に換算して与えられている。回る方向は内惑星とは逆向き。
(4)歳周         −−− Dとする。太陽年に対応。冬至から冬至までの日数。
 
 これらによって、惑星の公転周期(T)は、
 
外惑星に対しては、T=360÷A÷D
内惑星に対しては、T=360÷(B+C)÷D
 
と計算され、その結果は「五星距地之奇法」所載の数値に完全に一致する。表1は計算を再現したものである。地球の公転周期は1年なので1になる。天動説は、黄道座標を基準に取っており、ここでは、太陽年が基準とされ歳差は考慮されていない。
 
表1:「実験録推歩法」の数値による「麻田翁五星距地之奇法」の惑星の公転周期の再現
惑星名 
 
毎日平行 
 A(度/日)
次輪周毎日平行
   B(度/日)
公転周期  
  T(年)
五星距地之奇法
公転周期
土星 
木星 
火星 
地球 
金星 
水星 
0.03350063
0.08313480
0.52407501
     
     
     
       
       
       
       
   0.61650866
   3.10669903
 29.4217466
 11.8560103
  1.8807366
      
  0.6152195
  0.2408543
29.4217 余
11.8560 余
1.88073 余
  1   
0.61521 余
0.24085 余







 
日本輪周毎日平行 −−− C= 0.98559765度/日
   歳周       −−− D= 365.2423054 日
 
 一方、「五星距地之奇法」によると惑星の軌道半径は公転周期の2/3乗となるが、それと比較するべき軌道半径のデータはどうして得たのであろうか。それも「実験録推歩法」のなかに答えがある。それは、
 
 惑星の次輪半径 −−− 外惑星に対してはE、内惑星に対してはE'とする。いずれも、周天円(次輪)の半径と天動説の軌道半径(本天半径)との比に対応する。
 
のデータである。ティコの体系では、外惑星の本天半径は地動説での軌道半径に対応し、内惑星のそれは地球-太陽間距離と同じである。前者においては次輪の半径が1天文単位、後者においては本天半径が1天文単位だから、惑星の軌道半径(R)は、
 
外惑星に対しては、R=1÷E 
内惑星に対しては、R=E'
 
となる。これをまとめたのが表2である。麻田が、この方法に従って計算したのは間違いないだろう。材料は、自著の中にすでにあったのである。そして、実験録推歩法の惑星のデータは、すべてティコの天動説に基づく暦算書「暦象考成上下編」から採られたものである(※)。オランダ人や蘭書からデータをもらったわけではない。しかし、天動説では惑星の軌道半径の数値を確定できないので、上に述べたように地動説にいちど翻訳する必要があったのである。
 
 
  表2 「実験録推歩法」の数値による軌道半径と五星距地之奇法の導出
惑星名 
 
次輪半径 
 E, E'  
軌道半径 
   R   
公転周期
     
公転周期の
2/3乗
土星 
木星 
火星 
地球 
金星 
水星 
  0.10426
  0.192948
  0.65495
     
  0.722485
   0.385
   9.5914
   5.1827
   1.5268
     1.0
  0.722485
    0.385
  29.4217
  11.8560
  1.88073
    1.0
  0.61521
  0.24085
  9.530416
  5.199467
  1.523647
  1.000000
  0.723351
  0.387107







 
 
 
 その生涯を膨大な暦算の試行錯誤に費やした麻田剛立にとって、上のような計算をすることは朝飯前であっただろう。また、表2の中央2列の数値からケプラーの第3法則「五星距地之奇法」を発見することも彼にはそんなに難しい仕事であったとは思えない。
 
 問題はきっかけだけである。麻田が地動説に基づいた惑星の公転周期と軌道半径の関係に興味を持つきっかけの有無だけが問題である。それさえあれば、「五星距地之奇法」の発見についての勝負は決まったも同然であったと思われる。
 
(※)「実験録推歩法」における内惑星の「次輪周毎日平行」は暦象考成では「伏見毎日平行」となっている。また、火星の次輪半径の導出には若干の計算が必要である(実験録推歩法の火星の「次輪半径」=暦象考成の「最小次輪半径」+(「本天高卑大差」÷2+「太陽高卑大差」÷2)÷2)。「毎日平行」、「次輪半径」については、本質的に暦象考成と実験録推歩法で同じである。一方、実験録推歩法の太陽に関する2つの定数は、麻田独自の暦法である「消長法」に基づくものである。
 
 
2.時代背景と三浦梅園
  麻田剛立は地動説を知っていた。しかし、それを彼に教えたのは誰だかわからない。麻田が惑星運動の研究をしていたかどうかも定かでないし、地動説を信じていたかどうかも定かでない。それは、彼が著述をほとんどしなかったからである。
 
 しかし、同じ時代に天文学をはじめとして膨大な量の自然哲学の著述をした人がいる。三浦梅園である。梅園は麻田と同郷の豊後の人で、麻田の父は梅園の若い頃の勉学の師である。梅園は、麻田より年長であったが、麻田の豊富な天文学の知識が自身の自然哲学の構築に不可欠なものと考え、長年にわたって麻田に天文学について教えを請うている。そして、彼自身の漢籍による勉学もそれに加え、梅園は西洋の天動説について豊富な知識を持つようになった。
 
 間重富の記述によると、五星距地之奇法の発見は、寛政の初年(寛政元年は1789年)ということである。一方、上に書いたように実験録推歩法は1786年の完成である。この間の3年間に何があったのだろうか。この3年間は、真理の追究に捧げられた三浦梅園の生涯の最後の3年間であった。梅園は1789年に没しているが、1786年に自著「贅語」(ぜいご)をほぼまとめきり、麻田に校閲を依頼している。そこには、太陽系の構造論、つまり天動説と地動説の橋渡しのヒントとなるような事が書かれているのである。梅園は自身の哲学に基づいた、いわば梅園流の地球中心説と太陽中心説を打ち立てた。これは、西洋におけるような二者択一をせまるようなものではないので、西洋のものと区別するためにここでは「地心」、「日心」と呼ぶことにする。彼の没年に完成した「贅語」には次のようなことが書かれている。
 
(1)贅語「天地帙上」の「天地訓」の末尾に「連環図」と題する図がついている(付図参照)。「天地訓」の本文にはこの図の説明はないが、これは明らかに梅園の地球中心の見方(「地心」)と太陽中心の見方(「日心」)の「座標変換」を示したものである。図の内容は、西洋天文学の立場にたてばそのままティコの体系の天動説とコペルニクスの地動説の対応を示すものとなっている。ご丁寧に、月、金星、水星の軌道の包絡線も書かれており、アリストテレス・プトレマイオスの体系のようなものも見て取れる。なお、三浦梅園の連環図を前にした姿が肖像画に描かれている。
               
(2)贅語「天地帙上」の「日月 第四」で、ティコの体系の解説をし、天体の運動のゆえんを自己の「気と象」の哲学で説明したあと、「恒星のどれも等しくととのった運動も、諸惑星のそれぞれ固有の運動も、統一するゆえんがあるのだ。」(原文は「是以経星之齋運、諸辰之各活、亦有所統也。」返り点省略。現代語訳は吉田忠による)と述べている。梅園は、すべての惑星の公転運動と恒星天の運動(歳差を指す。(3)を参照)は、統一的に説明できると見ていたことがわかる。
 
(3)続く「天地帙下」「辰体 第五」(辰体は惑星のこと)では、ティコの体系に基づく惑星の公転周期に触れ、公転周期の短いものほど地球に近いものとすることが紹介される。ここでは月と恒星の歳差も同列に扱われている。さらにこれに対して次のような「気と象の哲学」に基づいた「物理的」な説明が加えられる。「幾層にも重なった天球からなる空間を地球から観察すれば、東方への運行の勢力はしだいに相殺されて弱まり、ついには恒星に至る。」(原文「故層層之間。自地而観、則運勢漸殺、而至衆星」)これは、公転の角速度が外側の惑星ほど小さくなっていることを、気の運動(西向きの日周運動)と象の運動(東向きの公転運動)のせめぎ合い(摩擦?)によって説明しようとしたものである。
 
 (1)の「地心」の見方と「日心」の見方を並列させることは、梅園が研究した「天経或問」などの暦書に見えている。また、(2)、(3)の歳差を恒星天の運動を見なすことも西洋の天動説のアイデアとして同じ書に紹介されている。しかし、「地心」と「日心」の見方の対称化や惑星と恒星の運動の理論的な統一は、彼独自の自然哲学に基づくものらしい。そして、これらの部分は、梅園が自分の自然哲学理論の根幹を宇宙の構造によって証明しようとしたきわめて重要な箇所である。
 
 梅園の自然哲学やそれによる自然現象の記述はその高度な抽象性と独創性の故に極めて難解である。梅園の哲学は自然のすべてのものを陰陽の対称性(陰←→陽の入れ替えにおける数学的な対称性)の存在で説明するもので、彼は、「地心」の見方←→「日心」の見方、日周運動←→太陽の年周運動と惑星の公転運動、天の赤道←→黄道、{地の水、天の燥}←→{太陽の景(明)、宇宙の影(暗)}は対称的に並立共存すると表現している。「対称性の存在」というのが宇宙の根本法則なのである。彼の「日心」の見方というのは、あくまでも太陽を中心として宇宙を見るという「見方」を示したものであり、太陽が静止し、地球が自転・公転をしているという「コペルニクス・ガリレオ流の太陽中心説」を意味するものではない。梅園はオランダ通詞に聞いて西洋の地動説については知っていたがこれを支持していない。
 
3.三浦梅園の「贅語」と麻田剛立
 しかしながら、本論では、三浦梅園の哲学の内容はあまり重要でない。まず麻田剛立がこの哲学を理解したかどうかわからないし、理解したとしてもそれに同意したかどうかもわからない。重要なのは、麻田が梅園の「贅語」のこれらの部分を興味を持って読んだかどうかである。麻田にとって、梅園の哲学は難解であり深く追求したくなるほどの興味の対象ではなかったかも知れない。しかし、麻田も梅園と同じく宇宙の真理の探究者であった。すぐれた研究者は、他人のどんな説からでも有用なヒントを得ようとするものである。彼は、小さなヒントであってもそれがホンモノであると直感すれば、それを試してみようとしたであろう。麻田は、初めて西洋の天動説による暦法に接した時、それから後年に太陽(実は地球)と月のケプラー運動を詳述した「暦象考成後編」(第3法則は書かれていなかった)を研究した時の2回にわたって、自身がそれまで行ってきた暦算方法を放棄しようとした。彼にとって、真理への道は長年の自説にさえ優先するものであった。
 
 さて、麻田が本当に「贅語」を読んだかどうかであるが、彼は「天地訓」については校閲を依頼されており返書も返しているので読んだことは間違いない。また、梅園は麻田への手紙で「日月」の原稿もいずれ送ると書いている。本当に送ったかどうかは定かでないが、「天地帙」においては、複数の箇所で麻田剛立の知識や意見、観測が、名指しで引用されているので、おそらく梅園は本人に内容の確認を依頼したと考えられる。贅語を読んだ麻田は、図で示された天動説と地動説の変換方法、公転周期と軌道半径との間の法則の存在の可能性をそこに見出したはずである。これらは、当時随一の天文学者であり、梅園が接することができるような天文知識はすべて熟知していた麻田にとっては梅園から学ぶまでもないことであったが、梅園の宇宙モデルとしての理論的な記述は彼に宇宙の法則の探求への強力なきっかけを与えることになったに違いない。
 
4.歳差について
 三浦梅園の惑星運動論を読んだ麻田剛立は、数値的な比較によって、惑星の公転周期と軌道半径の関係について自分で調べてみようという気になったものと思われる。ここで、麻田側の研究テーマにこの問題を関連づけるともう一つの大きな視点が浮かび上がる。
 
 当時、麻田と梅園には解かねばならない共通する大問題があった。それが歳差現象である。歳差は、地球の自転軸が公転軸のまわりを2万5千年ほどの周期で回転する現象であるが、この歳差の理由を当時の麻田や梅園は知らなかった。麻田はこの歳差現象を宇宙全体の運動に影響を与えるものと見て、彼独自の暦法「消長法」を発案した。これは歳周(太陽年)などの複数の「定数」が歳差の周期で変化するとするものである。彼がどうしてこれを思いついたかははっきりしないが、何らかの宇宙規模の力学的考察があったものと考えられる。そして、それは、地球を廻る太陽の軌道の変化を恒星天(あるいは黄道座標系)の移動と関連づけたものであったようである。
 
 ずっと後の寛政10年、麻田の門人の高橋至時が、麻田に「贈麻田翁」と称する歳差の理由の研究についての手紙を送っている。それを読むと、麻田は没するまで歳差の正しい理由を知らなかったことが見て取れる。(このことは、麻田が少なくともケプラーの第3法則を西洋の詳しい天文書や西洋天文学に詳しい人から学んでいなかったことを示唆している。そういう機会があったならば、麻田は歳差の本当の理由も知ったであろう。)
 
 さて、一方の梅園は、上に書いたように、歳差を恒星の「公転運動」と見なし惑星と統一的な法則下にあると記述した。これを読んだ麻田は、この説にも注目し歳差の周期と恒星天までの距離を結びつけて考えたであろう。当時、恒星天までの距離を知っている者は一人もいなかったのである。そして、歳差の正体を突き止めて消長法の根拠を確かめる手段にしようとしたであろう。
 
 さらに、彼らは、歳差に似た現象として黄道傾角(黄赤大距度)の永年変化(実際は周期運動)にも注目している。このころの麻田と梅園(あるいは彼の息子の三浦修齢)の手紙での議論に「四十万年の説」というのがしばしば出てくるが、これはこの現象をさすものと見られる。梅園はこれを黄道と赤道の対称性を維持するための重要な運動と見た。つまり、麻田と梅園は、実験的観測者と哲学者という立場の違いはあったが、宇宙の「大構造」について互いに議論しあう関係であったのである。
 
 
5.「夢の代」に見る麻田と梅園の考え
 麻田の死後数年を経て(1802~05年頃か)筆記されたとされる山片蟠桃の「夢の代」の「天文 第一」の十一に次のようなことが書かれている。「蓋月天ヨリシテ七曜ノ天各自ニ右行ス。月ノ十三度ヨリ、日ノ一度ヨリ、火木土ノ三星ダン\/ニ自行減ジテ、恒星モ亦少シノ自行アラザルヲ得ザルナリ。コレ六十八年ニ一度ノ歳差ナルモノハ、恒星ノ自行ニシテ、 ...(中略)...。終ニハ黄・赤ノ二道モゼン\/ニシマリテ、寒暑モナキニ至ルベシ。コレモ亦シカラズンバアルベカラズ。コヽヲ以テ麻田先生、消長ノ法ヲ立ル」。山片蟠桃は麻田の弟弟子のような関係に当たる人ある。この部分は、麻田からの伝聞をベースにして書かれていると見られ、「惑星の距離と遅速の関係」や歳差、黄道傾角の変化の研究が麻田の消長法の動機になったとしている。蟠桃は麻田の共同研究者ではないのでこれが史実かどうか確実ではないが、逆にいうとこういう考えを蟠桃がでっち上げられるとも考えられない。「惑星の距離と遅速の関係」と「消長法」が麻田の頭の中で結びついていたことは事実なのであろう。
 
 また、麻田の消長法の発案は梅園の贅語の草稿よりも古いので順序関係はあわないが、「恒星も固有の運動を持たざるを得ない」、「黄道傾角の変化も存在しなければならない」というのは梅園の対称性の自然哲学の重要な帰結であり、ここには麻田を経由した梅園の哲学がかいま見られるように思われる。麻田は、梅園の贅語に書かれていた哲学を自分の天文知識と結びつけて、蟠桃(あるいは師の中井兄弟)に伝えたのではないか。さらに、蟠桃が西洋天文学を独自に発展させて考案したとする名高い大宇宙の「明界・暗界」説も、梅園の「日心」の見方の「景・影」の対比の影響を受けている可能性がある。
 
6.シナリオ
 以上の議論により、次のようなシナリオができあがる。
 
(1)1778年、三浦梅園は長崎に旅行し、そこでオランダ通詞から西洋天文学の知識を得る。そのころ、梅園は麻田剛立に天文学について文通で質問している。この頃に、梅園と麻田は西洋の地動説の情報を初めて得たものと推測される。
 
(2)1776〜1786年の間に、麻田は、西洋の天動説(おもに「暦象考成上下編」)と「消長法」の研究をし、惑星運動も含めて、1786年に「実験録推歩法」をまとめる。梅園は、麻田から歳差などについての説明を得、1785年に麻田の天文学知識を絶賛する書を麻田に送っている。
 
(3)1786年、麻田は、梅園から「贅語」「天地訓」の校閲の依頼を受ける。その後、「天地帙」の惑星運動、歳差などに関する部分についても校閲を依頼されたものと推測される。そして、麻田はこれらから地動説における惑星運動の公転周期と軌道半径の関係(さらに歳差との関係)の研究の動機を得たものと考えられる。1787年、麻田からの天地訓を読んだ旨の返書があった。
 
(4)1789年、梅園の「贅語」完成。この年、梅園没。間重富によると寛政の初年(1789〜90年頃か)、麻田は「五星距地之奇法」を偶然に発見する。計算は、実験録推歩法のデータを用いてこれを行った。
 
(5)1795年頃、間重富が五星距地之奇法の説明(諸曜運行帰一理)を考案。麻田はこれを絶賛。その後、1798年までの間に「麻田翁五星距地之奇法」が間の説明を含めて書かれる。
 
(6)1799年、「麻田翁五星距地之奇法」の所持者の西村太冲、加賀藩に移動。麻田剛立没。
 
(7)1803年、高橋至時、ラランデ暦書に「ケプラーの第3法則」の記述を見つけ、「」五星距地之奇法」と同じであることに驚く。
 
 このシナリオに全く無理は無く、麻田はオランダ人やオランダ通詞から何の助けを得ることがなくても、五星距地之奇法を発見し得たものと結論される。
 
7.まとめ
 麻田剛立は当時惑星運動の研究をしていなかった、地動説の立場をとっていなかった、ということから、麻田のケプラーの第3法則の独立発見については研究者の間から疑問が投げかけられていた。確かに、麻田は惑星運動や西洋直来の地動説の研究はたいしてしていなかった、と考えられる。しかしながら、彼の熱狂的な支持者として、偉大な自然哲学者、三浦梅園がいた。梅園が晩年に「贅語」で説いたものが、太陽中心の宇宙と地球中心の宇宙を並列させる太陽系理論であり、天体運動のダイナミックスの法則性の提起であることは明らかである。麻田は、梅園の「贅語」を校閲したものと考えられるが、そこから「五星距地之奇法」の動機を得たのではないか。そうなれば、法則の発見は、既存の資料と彼の計算力で十分可能であった。
 
 梅園の自然哲学の神髄は、麻田にとってはおそらく理解できないものであったに違いない。しかし、ともに真理の探究のために宇宙の構造を研究するという点において、彼らはまさに「盟友」であったし、互いに得るところが大きかったこともまた事実と考えられる。
 
 付図「連環図」、三浦梅園「贅語」天地訓。(図は文献6)より。 図中の語については文献7)より。)


 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

連環図
地球(黒円)を中心に:(地球)、月逆行規、大白逆行至小規、辰星逆行至小規、日逆行規、ケイ惑逆行規、ケイ惑痕輪一歳一周、歳星逆行規、歳星痕輪一歳一周、填星逆行規、填星痕輪一歳一周。
太陽(白円)を中心に:(太陽)、(水星、金星)順行規、月通痕規、地通、ケイ惑順行規、歳星順行規、填星順行規
 
 
謝辞:「『麻田翁五星距地之奇法』を読む」を書いた後、本編へつながる研究を進めるにあたって、貴重な助言を与えて下さった富山市文化科学センターの渡辺誠氏に感謝いたします。
 
文献:
1)「麻田剛立資料集」、大分県先哲叢書 (書簡集、「実験録推歩法」、「麻田翁五星距地之奇法」、麻田剛立伝記ほか)
2)「近世日本科学史と麻田剛立」、渡辺敏夫、雄山閣
3)「麻田剛立」、末中哲夫、宮島一彦、鹿毛敏夫、大分県教育委員会、大分県先哲叢書 
4)「御製暦象考成」、四庫全書珍本、商務印書館(台湾)(暦象考成上下編、原著:清国)
5)「梅園全集」、弘道館
6)「三浦梅園」、日本の名著、中央公論社 (評論、「贅語」他)
7)「三浦梅園自然哲学論集」、尾形純男・島田虔次 編注訳、岩波文庫 (「贅語」他)
8)「天経或問」、四庫全書珍本、商務印書館(台湾)(原著者:遊藝)
9)「洋学」 下、日本思想体系、岩波書店 (高橋至時 「ラランデ暦書管見」他)
10)「江戸時代の日本における基礎科学研究の成果についての概観」、上原貞治、URL=http://www.d1.dion.ne.jp/~ueharas/edokagaku.htm