日本製ケプラーの第3法則?
        「麻田翁五星距地之奇法」を読む (第4回)
                             上原 貞治
 
11.距地と距日
 さて、前回までで私が重要と考える点には全て触れたので、あとはまとめをするだけであるが、最後に麻田剛立らが基づいた太陽系の体系についてダメ押しの議論をしておく。
 麻田らがケプラーの第3法則=「五星距地之奇法」を見つけるための数値を天動説から得たと考えられることは前回に述べたが、天動説には2種類ある。それは、アリストテレス-プトレマイオスの体系(図1)とティコの体系(図2)である。ティコの体系では、内惑星が太陽のまわりを回っているのが特徴であり、この部分だけは地動説と共通になっている。
 外惑星の軌道半径については、2つの天動説はいずれも素直に地動説に対応し、地球からの距離(距地=本天半径)→太陽からの距離(距日=惑星軌道半径)に対応、が成り立つ。問題は内惑星である。アリストテレス-プトレマイオスの体系では、内惑星の地球からの距離(距地=本天半径)は、地動説でいうところの距日に対応しない。というより、この体系では内惑星の軌道半径は不定となり本質的な意味を持たない。本天半径と次輪(西洋天動説の言葉で言えば周転円)の半径比のみが必要なのである。一方、ティコの体系では、内惑星の軌道半径は距日であって距地ではない。よって、これは本天半径とはいえない。ティコの体系で内惑星の軌道半径に対応するのは「距日」であり、内惑星の本天半径は太陽の本天半径(現在の言葉で言えば1天文単位)と同じになってしまうのである。
 これから考えると、麻田らがやったことはひとつしか考えられない。彼らは内惑星に関しては、ティコの体系の「距日」が地動説における惑星軌道半径に対応することを考えた上で、それをアリストテレス-プトレマイオスの体系での「距地」に意図的に当てはめたのでである。それはなぜか?
(図では煩雑さを避けるため「周転円=次輪」を省略してある。外惑星は、円軌道を中心とする 半径1天文単位の小円上を移動する。アリストテレス-プトレマイオス体系の内惑星にも 周転円は存在する)

 まず、「五星距地」というからには、内惑星についても外惑星についても軌道半径は「距地」でなっていないと困る。ところが、アリストテレス-プトレマイオスの体系では内惑星の距地は不定であるので決まらない。しかし、逆に言うといくつであっても良いことになる。それで、ティコの体系から求めた内惑星の軌道半径をアリストテレス-プトレマイオスの体系での距地に当てはめると万事がうまくいくのである。
 以上のことから、「五星距地之奇法」を考えたときに最初に彼らの頭の中にあったものは、(内惑星の距地が確定しない)アリストテレス-プトレマイオスの体系ではなく、ましてや(距地と距日が入り交じった)ティコの体系でもなく、地動説の体系であったことがはっきりするのである。そしてそれと同時に、「五星距地之奇法」において彼らが「主」としたアリストテレス-プトレマイオスの体系は、単なる形式的にあとから当てはめられたものであったことがわかるのである。
 
12.議論のまとめ
 さて、ここで、これまでの議論でわかったことをまとめてみよう。まず、明らかに、
 
(1) 麻田剛立は、ケプラーの第3法則を知っていた。
 
 そして、彼らが、独創であるにせよ他人から習って知ったにせよ、それを理解したベースには、次の3つが必要であり、彼らはそれを確実に知っていた。それらは、地動説、惑星の公転周期、惑星の軌道半径である。特に重要なのは、地動説の体系を採用しなければケプラーの第3法則は発見できないということである。
 
(2) 麻田剛立らは、それ以前に地動説を知っていた。
 
 これは、別途、客観的に証明がされている事実であり、間違いない。
 
(3) 惑星の公転周期は天動説の資料に基づいた計算で出している可能性が極めて高い。惑星の軌道半径については具体的な数値の記述は見つからないが、天動説(少なくとも内惑星についてはティコの体系)の定数から対応するものを計算で出すことは可能。これを地動説に翻訳したのであろう。
 
(4) そして、「五星距地之奇法」において、改めて天動説と地動説の説明の両方を併記した。その原理の説明は間重富の独創である可能性が高い。
 
 この2つは100%確実ではないが、今回の考察でこれらの可能性が高いことがわかったわけである。
 
 以上のことから、彼らは、地動説、軌道半径と公転周期の定数、ケプラーの第3法則、その力学的説明の4つをセットにして一挙に学んだのではないことがわかる。西洋からすべてを一気に学んだのであれば、彼らは、ケプラーの第3法則に対して、このような和洋折衷的な説明をせず、西洋の説=地動説で一貫させて説明しただろう。よって、翻訳本を読んでこれらすべてを知ったとは考えられない。
 なぜ私が今回この点にこだわったかというと、それは麻田らが志筑忠雄やオランダ人からケプラーの第3法則を系統的に学ぶチャンスがあったかもしれないからである。事実、志筑は1780年代にすでに「動学指南」という「暦象新書」の草稿のようなものを書いており、その内容は現在失われているが、そこにはケプラーの第3法則が記載されており麻田らがこれを読んだかもしれない、という説がある。また、天文に詳しいオランダ人から通訳を経て系統的に西洋天文学を直接学ぶ可能性もあったかもしれない。
 しかし、結論から言えば、少なくともケプラーの第3法則以外は独習による可能性が高く、直接学んだものとは言えないようである。
 
13.シナリオ
 歴史を、論理的な考察によって正確に再現することは不可能であるが、実際にあったことは次のようなことと推測される。
 
1 地動説はそもそも知っていた。
2 地動説の研究のはじめた。その過程で、惑星の軌道半径を天動説の常数から計算した。公転周期も同様に計算した。
3 ケプラーの第3法則を発見した。
4 間重富が原理の説明を考えた。
5 「五星距地之奇法」を執筆した。その際、天動説に翻訳しもどした。間の説明も入れた。
 
 この中で、剛立にとってもっともハードルの高いのは、(4は間の業績なので除くと)2の動機の部分であろう。惑星の研究を本格的にしてなかった彼が、なぜ地動説という新説に基づいて研究をしようという気になったか? これが最大の問題である。地動説に非常に魅力を感じて、それに基づいて太陽系の構造をみたいと思ったのであろうか。また、新しもの好きの理論家肌の高橋至時がこの研究を最初にはじめたのかもしれない。ケプラーにとっては、3がいちばん高いハードルであった。2はすでにコペルニクスが片づけていた。一方、あらゆる試行錯誤で強引に法則を探し回る麻田流の暦算研究の伝統に従えば、麻田にとって、2の前半がクリアされれば、2の後半も3もそれほどのハードルではなかった。麻田剛立の計算力を持ってすれば、ケプラーが突破できたことに対して、それ以上の時間を要する理由は見あたらないのである。私は、ここで麻田の能力を過大評価しているわけではない。「多数の実地の数値から法則を見出すこと」、これが麻田の暦算天文学の神髄であるからである。一方、宇宙で実現していることのすべては神の御業であると信じていたケプラーは、麻田ほど貪欲に強引に法則を探し回ることはしなかったであろう。
 2と3は麻田の独創かもしれないが、オランダ通辞にヒントだけ(あるいは結論だけ)教えてもらった可能性は残る。たとえば、道で出会ったり、突然尋ねてきたオランダ通辞に、「太陽系の惑星の軌道半径と公転周期の間には美しい関係があるらしい」というような話をした者があったかもしれない。今後も未来永劫この種の可能性を否定することはできないであろう。
 
14.以前の研究
 この件に関する過去の研究者の研究については多少触れておかないといけないだろう。麻田剛立がケプラーの第3法則を発見していたと言われていること自体は、かなり広く知られている。また、関連する研究者の多くは、少なくとも麻田がこの法則を知っていたことは確実であると述べている。しかし、これが独創であるか西洋から学んだものかを明言するような研究は皆無である。当時の時代環境の研究によってオランダ通辞などからヒントを与えられた可能性に触れたものがある程度である(*)。
 一方、「五星距地之奇法」の内容を掘り下げた研究はほとんどない。少なくとも私は知っている限りでは、渡辺敏夫氏の研究があるのみである(**)。渡辺氏は、内惑星のについての記述の議論に基づいて、「五星距地之奇法」の内容はアリストテレス-プトレマイオスの体系(「暦算全書」の体系)に基づいている、と主張している。そしてこの体系に惑星軌道の大きさを「こじつけ」て「距地」としたものであり、地動説に基づいたものではない、としている。
 今回の私の研究は、この渡辺氏の研究をベースにしているが、文献に記載されている数値の検討を行ったこと、間によると考えられる力学的説明の積極的意味を取り上げたこと、そして、この「こじつけ」には意味があり、これは逆に彼らが地動説に基づいてケプラーの第3法則を研究したことの証左であると見ている点で、大きくこれを発展をさせ逆の結論を得るものとなっている。
 
(*) たとえば、中山 茂「日本の天文学」(岩波新書)などを見よ。
(**) 渡辺敏夫「近世日本科学史と麻田剛立」 雄山閣。
 
 
15.結び
 ヒントを教えたとすればそれはだれだろうか。当時、通辞で天文の専門家にヒントを与えることができるような人はやはり志筑忠雄しかいない。西洋科学を学ぶ人はいたとしても、志筑以前にケプラーの第3法則まで発展的に学習のできた人はそうそういなかったはずであるし、事実、彼以外の名は知られていない。また、志筑が西洋の科学を理解できた傑出した人物であったことも疑いがない。志筑と麻田が出会って議論する、そのような可能性があったかが、ひとつの焦点となる。
 
 もうひとつの問題の焦点は、すでに述べたが、ヒントを聞かなかった場合に、麻田らが2の研究を始め、必要な程度継続する動機や感性があったかどうかである。これは彼らがどれほど地動説に執着していたかによる。「麻田剛立らが『五星距地之奇法』以前にどれほど地動説に執着していたか?」 この問題については、文献が残っておらず本当のところはどうにもわからない。麻田においては著作が少ないので、文献が残っていないことが研究をしていなかったということの証拠にはならないのである。
 
 独創か? それとも西洋から学んだものか? この答えは新たな文献が見つからない限り永劫にわからないであろうが、私は独創であると考えたい。それは、「五星距地之奇法」に書かれている地動説における天体体系の力学的説明の故である。すでに述べたように、これが間の独創であるならば、彼らはすでに地動説の本質的意味について研究を進めていたことになる。つまり、上に述べた「地動説に執着」という条件はクリアされるのである。また、これが間の独創ではなくケプラーの第3法則の力学的意味を西洋天文学から輸入したのだとすると、間がケプラーの第3法則そのものは彼の共同研究者の独創であると信じていたという事実は相当不自然なものとなる。 こういうことが起こるのは、麻田が法則の発見者であることが彼にとって確実に証明されていた場合に限られるであろう。
 
  麻田は、1799年、惑星研究の成果を発表することもなく死去した。高橋と間は麻田剛立の没した後に西洋の天文書の解読と翻訳に精魂を傾ける。そして、そこに麻田が発見したと思っていた「ケプラーの第3法則」が述べられているのを見つけて驚くのである。念のために言っておくが、彼らは、麻田剛立が「ケプラーの第3法則」を知っていたことに対して驚いたのではない。もちろん、西洋人が「五星距地之奇法」を知っていたことに対して驚いたのである。 (連載 終わり)