「星のハンター・本田実物語」を読んで 
                                上原 貞治
 
 思えば、読書感想文を書くことは高校卒業以来である。大人になってからも本は人並み以上に読んだと思うが、感想文を書くなどということは考えたこともなかった。しかし、今回は事情が違う。
 
 本田実さんは、子供の頃の私にとっては神様のような人であった。(以下、お名前はすべて「さん」づけで呼ばせていただく。本田さんも佐藤さんも関さんも、私が師と仰ぐ方々であり、「先生」と呼ばないとおそれ多い気がするのであるが、この文章はインターネットで公開することもあるので、「さん」で統一させていただく。)中学生の頃、私は彗星にあこがれていた。彗星の発見にあこがれていたのではない。彗星そのものにあこがれていたのである。そして、多くの彗星を発見した人たち、関さんや池谷さんをたいへん尊敬していた。そして、その頂点に立つのが、当時、現役世界最高数の彗星を発見していた本田さんであった。
 
 私は、本田さんについてほとんど何も知らなかった。知っていたのは、倉敷で幼稚園の園長をしておられることくらいであった(正確に言えばこれさえも私の記憶違いで、実際には保育園の園長をしておられた)。 それでも本田さんは神様であった。そして、倉敷は私にとって心の聖地となった。その後、本田さんの軍隊時代や少年時代の逸話を知ったが、それは私にとって驚くべきものであった。神様であるという私の信仰に違わないものであった。
 
 本田さんは自ら著書を書かれるということがほとんどなかった。また、亡くなってからも伝記は出版されていないようだし、テレビ番組などでとりあげられることもほとんどないようだ。私は、これではいけない、と思った。このような事実は、本田さんの謙虚な人柄によるものであろう。また、昔からの天文愛好家は、そんなことを宣伝されなくても本田さんがどれほど偉いか皆知っている。確かにそれは事実だろうが、それでも日本に住む大勢の人々、特に科学を志す人たちや世界に打って出ようとしている若い人たちが、本田さんのことを知らないとしたら、それはあまりにも惜しいことではないか。
 
 ということで、本田さんの伝記がないかを本田さんの星尋山荘を守っていらっしゃる大野さんにお尋ねしたところ、佐藤健さんがかつて中国新聞夕刊に連載された「星のハンター・本田実物語」をご紹介いただき、佐藤さんからその全編のコピーを送っていただいたのである。本になったものではないが、私にとって初めて見る本田実さんの伝記であった。佐藤さんのこのようなすばらしいお仕事、そして、本田さんのことをもっともっと大勢の方に知ってほしいと願って、及ばぬ身を省みずにこのような感想文を書かせていただくことにした。
 
 「星のハンター・本田実物語」(以下「物語」と記す)は、冒頭で、本田さんが軍隊でシンガポールに行っていたときに彗星を見つけたことをプロローグとして紹介し、そして、本田さんの少年時代に戻るところから始まる。鳥取県の山奥の村にに生まれた本田さんが、「彗星の話」という、たった1冊の本を買うのに7キロメートルも歩いて郵便局に振り込みに行った話や、それを読んで彗星の発見をしようと決心をし、手作りの小さな望遠鏡で彗星捜索を始めた話は、非常に感動的である。「物語」ではそれが淡々とつづられており、かえって一つ一つのことばが心にしみるようである。私ごとで恐縮であるが、私の出身地でも子供の頃は天文書などほとんど書店で見つけることはできなかった。たまに汽車や電車を乗り継いで大都市の売場が何階にもわたるような書店に行って、天文書ばかりが一つの書棚いっぱいに並んでいるのを見た時、それがとても神々しいものに見えた記憶がある。本田さんが7キロの道のりを何を考えながら歩いたか私の想像には余りあるが、その一片を思うだけで涙をさそわれる。そして、本田さんのいちばんの印象に残った事件、金星のゴーストを彗星と見誤って花山天文台に報告した事件、が語られる。これらのことは、本田さんの心に他人には語りつくせないほどの強い印象を与えたことだろう。私は、こういう感情を大人になってからは抱くことができないというのはたいへん残念なことだと思う。現代の子供達は、このように科学に対してハングリーな感情を抱くことはあるのだろうか。
 
 この「物語」はとてもユニークな構成になっている。全編が伝記一辺倒ではないのである。ところどころに、少なからぬ分量の天文学の教養的なレクチャーが入り込んでいる。また、戦前戦後の日本の天文史にも触れられる。そして、それらは古いスタイルの天文研究から、最新の成果までをとりまぜて、いろいろな分野をカバーしている。佐藤さんの天文活動や光害防止の呼びかけなど社会的といえる内容まで含まれていて、まさに佐藤さんでなければ書けないような幅の広いものになっている。本田さんの生涯の細かい部分にはあまり触れるべきことがない、という事情もあるのかも知れないが、これらの差し挟まれる天文学の解説が、本田さんの生涯の物語と絶妙の協奏とバランスを保つことに成功している。この「物語」は様々な立場にある読者をひきつけることであろう。
 
 このような天文学の解説を読んで思ったことは、本田さんも決して孤高の人ではなく、同時代の星を愛した大勢の人たちとともにあったのだ、ということである。私は、本田さんに会ったことも話をしたこともないが、同じ時代を共有し、同じように彗星にあこがれ(おお、おそれ多いけどすごい!)、同じ夜に本田さんが見ているのと同じ空を見上げたこともおそらくあったはずだ(何夜も何十夜もあったに違いない)、と思うと、天文に関心のない人たちに対してとても誇らしい気持ちになれるのである。
 
 本田さんは、生涯に12個の彗星と11個の新星を発見した。最初の発見は1940年であり、最後の発見は1987年であった。このようなめざましい成果を挙げた本田さんは、非常に謙虚な人で自慢話をされることは決してなかったという。これが私にとっては大きな謎であった。本田さんは、ひょうひょうとして星をめずる仙人のような人であったのかも知れない。しかし、彗星や新星の発見は世界中のなみいる捜索者と一番を競う現場である。謙虚なだけの人が世界チャンピオンになれるはずがないではないか。なぜか。これが、伝記を読みたくなった2番目の動機であった。
 
 「物語」を読んでもこの謎は完全には解かれなかった。しかし、本田さんの観測時間が並はずれて多いこと、また、発見のために様々な工夫をされていたことがわかった。それを人に語っていなかっただけである。でも、本田さんは努力の人だったのか、というとそういうふうに見るのが適当だとは思えない。 かつて、本田さんは、彗星がなかなか見つけられなくて苦しんでいた関さんに「どうしても見つけたいなら(捜索を)やめなさい。見つけられなくてもよいならやりなさい」と言ったそうである。多くの彗星をすでに見つけた人がどうしてこのようなことを言うのか。「がんばればあなたにも必ず見つけられますよ。」というのが普通ではないか。どうやら、本田さんの頭には、努力することによって星を見つけることができる、という方程式はなかったのではないかと感じられる。
 
 では、本田さんは天才だったか、と言われると、そうかもしれないがそれだけでは決してない、という気もする。ようするに、本田さんは、あらゆる方面で人よりも多くの実行をした、−−−観測時間も多かった、機器の工夫もした、精神的に優れていた、体力もあった、いらぬことには神経を使わなかった、−−−このような当たり前のことを人並み以上にやることの積み重ねが大きな成果につながったのではないか。本田さんは、星のためにすべてを犠牲にしていたか、というとそのようには見えない。天文以外では普通の人であったようだし、保育園の園長という要職もこなしておられる。
 
 本田さんは、ひたすら星が好きであった、いや、星は好きである以上に離れることのできない敬愛の対象であったのであろう。 自分の敬愛してやまない星にあらゆる方向からの努力を惜しまなかった、努力を努力とも思わなかった、ということではないか。私のような中途半端な者でさえ、子供の時には星の魅力に圧倒された。冬の夜、たいした防寒着も持たない私は身動きもせずに望遠鏡をのぞき続けた。まわりの大人は寒い寒いと声をかけたが、生返事で答える私は、オリオンやシリウスのきらめく冬の空の下が本当に寒いと思ったことは一度もなかった。本田さんはそのような状態が一生続いたのであろう。私が「物語」を読んでわかったのはここまでであるが、これは私にとってひとまず納得のゆく結論であった。
 
 この「物語」で強く印象に残った部分は、佐藤さんが外国の天文研究家に会って、自分は本田さんの友人だ、と言うと、相手の態度が変わるというところである。東洋で彗星を見つける人などほとんどいなかった時代から始まって、驚くべきスピードで世界のトップに躍り出た本田さんなので、普通なら、東洋の片隅に人間だか怪物だか訳のわからんやつがいる、と見られるのが普通であろう。それが、全く接したことのない人にとってさえ敬愛の対象になってしまう。これが、天体捜索の世界のすばらしいところであり、また、本田さんの人格のなせるわざなのであろう。本田さんについて知らない人までも引きつける何かが、本田さんの天体捜索にはあった、としか考えられない。
 
 「物語」は、「ただただ星に教えてもらえば良いと思う。」という本田さんの晩年のことばを最終回に紹介している。そして、最後に、佐藤さんは、本田さんは心の静かな人であった、と書いている。本田さんは偉大な宇宙の星ぼしの前で謙虚であったと同じように、人々にも謙虚な態度をとられたのであろう。彗星をたくさん見つけた、新星をたくさん見つけた、などということは、他人に誇ることによって価値の上がるようなものではなかったということである。それどころか、自分にとってもそれが価値のあることなのかどうかすらも問題にしていなかったのかも知れない。それでも、本田さんは世界のだれよりも早い発見を目指し、そして、それを達成することができたのだ。なぜだろう......また、同じような疑問に戻ってしまった。やはり、本田さんは、私にとっていつまでも謎の人であり、神様であり続けるようである。
                                 (終わり)