日本製ケプラーの第3法則?
        「麻田翁五星距地之奇法」を読む (第2回)
                             上原 貞治
 
3.本文前半の読解(第1段落)
 
 それでは、いよいよ麻田翁五星距地之奇法の読解に取りかかる。読解と言っても古典の鑑賞ではないので、正確な現代語訳をすることよりも、それが書かれた背景、つまり、言葉の裏に隠されている状況を読みとることが重要である。それから、ここで論じられているケプラーの第3法則の発見者が誰かということに迫りたい。
 
 本文全文は前回に載せたが、便宜上、本文の前半部分をここにに再掲することにする。(本文は、「大分県先哲叢書・麻田剛立資料集」のページ「麻田翁五星距地之奇法(本)」からとった。読みやすくするため、上原が、カタカナを平仮名に改め、濁点と句読点を補い、段落も適当に改めた。漢文調は読み下し、二行割注は括弧内に入れて表現した。漢字も適当に置き換えた。)前号に載せたものに誤りの箇所があったので、今回訂正した。
 

 
   五星距地之奇法 (前半部分のみ)
   諸曜の運行地を距る(地動の説に由れば、即ち日を距る也)遠近に依て其行の遅速斉しからざる、猶垂球の長短に依て其往来斉しからざるが如し。夫の垂球往来の比例をなす長球往来の方数と短球往来の方数とは、短球の尺と長球の尺との如し。蓋し、諸曜の運行は猶球の往来の如く、地を距る遠近は猶垂尺の如し。唯、球と天行と気質の同じからざる故に、其勢ひ斉しからざるに似たり。然りと雖も、其往来運行の方数より変化し遂に基準をなすに至ては、天行球行、倶に同き所ろあるが如し。
 
   故に、数の自乗開方より変化し来るものは皆著明の巨数にして、其数の実測に近きものは必ず真数となり、未だ其真を得ざるものは実測と相離る必ず遠し。紛々たる細数混じり出でて祟りを真数の間になすの類には非ず。
 
   蓋し、日と五星と倶に地を心(地動の説に由れば、地と五星と倶に日を心とす)とする故、其本天半径を得る、倶に一法による。然して、月は全く地に属す(地動の説に由て之を観れば、月の地を環行する、猶四小星の木星を環行するが如し)故に地との比例、又自ら一法となる。其開乗の易簡にして最も奇なるものは木星の四小星にしくなし。然して月は一物にして外に徴すべき類なし。故に、開乗中其真数を得ると云とも法の杲して真なるか、徹底しがたし。 木星の四小星の如き類をなすもの四にして、其法の真假、僅に徴するに足ると雖も、其実測、未だ密ならざれば、亦確拠となしがたし。唯、五星と日とは、古今の実測略備り、其類亦多し。故に其法の必ず真にして、実測と基準を得るものを左に記すのみ。
 
 
 
 まず、いきなり、太陽系の惑星の運動が、垂球、つまり、振り子の振動に比較される。これが、間重富(はざましげとみ)が考案した「諸曜運行帰一理」である。間は、師・麻田剛立の考案したケプラーの第3法則「五星距地之奇法」の説明を、振り子の周期を利用して説明したのである。よって、この「麻田翁五星距地之奇法」の内容は、この間の説明を最大限にふまえたものになっており、極めて、物理的(力学的)側面の強いものとなっている。このことは、この時代の日本としては極めて希有のことで、通常ならこれによって蘭学の影響を考えるところであるが、前回書いたようにこの時代の天文家で蘭書が読めた者はなく、なによりもこの比較が間の独創である逸話が残されているので、ここはその通り、間が考案したと考える。当時、東洋人で漢籍に載っていないケプラーの第3法則を知っている人はほとんどいなかっただろうし、ましてやその起源にまで注目した人はまずいなかったであろう。一方、西洋ではすでにニュートン力学と万有引力の法則によってケプラーの法則は完全に解明されていた。よって西洋人の専門家はこのような説明をする必要はない。だから、この「間の説」を他の東洋人が考えたとすることも、西洋から伝わったとすることも相当困難である。また、間は、垂球や機械時計を用いて正確な時間測定をすることに努力をした人であり、そういう意味で、振り子のたとえは、間の発想として極めてもっともらしい。
 
 さて、ここで触れられている「諸曜運行帰一理」の内容であるが、それは次のようなことになる。便宜上、私の解説は地動説の立場に立って行うことにする。
 
 (1) 太陽系の惑星の軌道半径は、振り子のひもの長さに対応する
 (2) 惑星の公転周期は、振り子の周期に対応する。
 (3) 前者(いずれも長さ)を L とし、後者(いずれも周期)を T とすると、太陽系の惑星においては、L/T=一定 が成立する。 一方、振り子の場合は、L/T=一定 となる。この2つの式には類似点がある。Lのべき乗が違うのは、振り子の球と天体とでは性質が違うので、その運動の「勢い」が違うことによる。
 
 これがすべてである。これだけ読むと、あまり関係のないもののたわいのない比較に過ぎず、説明にも何もなっていないばかりか科学的な内容にも乏しいように思われる。しかし、それは今日の視点から見た場合のことである。当時の東洋の自然科学のレベルから見ると、これは天上の物体の運動と地上の物体の運動の法則を比較した画期的な視点と言うべきである。また、この段落の最後では、この類似が単なる類似ではなく、「何らかの物理的な共通性がある」ということを示唆している。実際に、これらはいずれも重力と他の力(振り子の場合は張力、惑星の場合は遠心力)の合成を考えることにより、周期の計算が可能な問題であり、当時の日本にここまでのレベルに到達できる可能性が皆無であったとはいえ、決して方向違いのものではなかった。これは、ヨーロッパにおいても、ケプラー以前なら宗教裁判に訴えられるような解釈であり、完全な解明にはニュートンとを待たなければならなかった。ここまでものごとを考えられるのは、当時の日本人では、間重富のほかには高橋至時くらいしかいなかったであろう。「帰一理」が間の独創であるということが「奇法」そのものが麻田の独創であることの証拠にはならないが、もし、後者が西洋から学ばれたものであったなら、間は自分でここまで努力してその理由を考えたであろうか。
 
 冒頭の部分に見るように、この「麻田翁五星距地之奇法」は形式上は天動説の体系に基づいており、執拗な割注によって地動説によった場合の解釈についても触れている。しかし、実質上は地動説を支持しこれに基づいたものになっている。これについてはあとで触れる。
 
4.本文前半の読解(第2段落)
 
 第2の段落は難解だが、意味的には次のようなことであろう。
 
−−−であるから、公転周期を自乗してから立方根をとった結果はすべて明白に正確な数であり、その結果が実測値に近い場合は必ず正確な値となる。また、その適用に根拠のない場合は、必ず実測とまったくかけ離れた値になる。微妙な誤差によって正確な値からの煩わしい差が出るようなものとは全く違う。
 
 つまり、この「奇法」を原理的に正しい用途に適用すれば非常に正確な結果が得られる、ということである。また、適応を誤ればまったく違った数値が出るので、その適応範囲や精度について頭を悩ます必要はない、と言っているのである。これも非常に合理的な考えであり、今日から見ても事実である。この理由については西洋ではすでにニュートンが完全に理解していたであろう。万有引力の法則に従った計算が天体の運動を正確に再現することを彼は確認していたからである。しかし、このようなことは関連の書物の多くには書かれていなかったであろう。 蘭書や西洋人からの伝聞によってこの事情を理解するためには、西洋の自然哲学(具体的にはニュートンの近代科学の考え方)の深い理解が必要であったと思われる。もし、この部分が日本人が見つけたものであれば、それは「経験的に発見されたもの」でなくてはならない。そのさらに詳しい説明が次の第3段落で与えられる。本当に日本人が書いたとは思えない論理的に懇切な文である。この部分が最も重要である。
 
 
 5.本文前半の読解(第3段落)
 
 第3段落の内容は相当高度である。再び、物理的内容が顔を出す。ここでは、太陽系の天体が3つのグループに分けられる。第1のグループは5惑星(水星、金星、火星、木星、土星)と太陽(地動説に従えば、太陽の代わりに地球)であり、第2のグループは月のみ、第3のグループは木星の4衛星(いわゆるガリレオ衛星)である。そして、それぞれのグループは共通の天体を中心にして公転しているが故に、L/T=一定の関係は、これらのそれぞれのグループ内でのみ成立することが明確に主張される。よって、これは単なる経験則の紹介ではなく、その物理的側面にも言及したものとなっている。言うまでもなく第1のグループの中心天体は地球であり(地動説に従えば太陽)、第2グループは地球、第3グループは木星である。これも、当時の日本では考えられないくらい先進的な考察である。当時の日本であってもこのような考察が優れた個人の頭脳の中で為されたことはあったかもしれないが、ここまで明確な形で表現されたことは、極めて希有であった。
 
 この部分を考えたのは日本人であったかどうかがひとつの重要なポイントである。そのためには、「地動説」の解釈が鍵となる。最大の問題は、この「奇法」の著者(おそらく麻田剛立)が形式的に採用した天動説に従うならば、第1、第2のグループの天体の中心星はともに地球である。しかし、これでは「奇法」の根拠を説明するには圧倒的に不利である。そこで、ここでは地動説に由らざるを得ないことが、割注で添えられる。(「地動の説に由て之を観れば、月の地を環行する、猶四小星の木星を環行するが如し」の部分。)この割注なしには説明は成り立たないのである。月の公転の中心星が地球ならば、5惑星の公転の中心は地球であってはならない、ことになる。月は1つしかないので、L/T=一定の関係を確認することはできないが(現在では人工衛星があるので確認できる)、それでも5惑星と月の間にこの関係が成り立っていないことは当時でも容易に確認できることであった。
 
 この点についてさらに深く明らかにするためには、日本と西洋での「天動説」「地動説」の区別の考え方の違いについて触れなくてはならない。また、麻田たちのグループにこ宇宙論的な発想を持っていた者がいたか、ということも考えなくてはならない。これらの点については次回に譲ることにする。
 
 最後に、これは前回にも書いたし次回でも議論したい点であるが、地動説そのものは麻田たちの独創ではないことを確認しておきたい。このことの一見明白な証拠はないが、当時、すでに地動説は多くの日本人に知られていた。この「奇法」が書かれたと思われる時期の十年くらい前にすでに日本で地動説について触れた書物が出されている。また、自然哲学者、三浦梅園は、著書で地動説について触れているし麻田剛立にこれに関して質問の手紙も書いている。麻田たちは、当時、学問の最前線にいたので、地動説は西洋から入った新説であったとともに、すでに当然の「常識に属するような知識」(それの正誤は別にして)だったのであろう。であるからこそ、この「五星距地之奇法」では「地動の説」と簡単に述べるだけで、とくに目立った注釈も加えていないのである。もし、これが彼らが独自に発見した説であったり、彼らが特殊なルートでようやく知り得たような知識であれば、もっと詳しい説明や論評を加えたはずである。
                                       (つづく)