日本製ケプラーの第3法則?
        「麻田翁五星距地之奇法」を読む (第1回)
                             上原 貞治
0.序
 科学の教科書に出てくる「法則」というものはたくさんあるが、天文学の分野では、「ケプラーの法則」というのが最も名高い法則のひとつであることに異論はないであろう。その知名度、歴史的意義、発見者の努力、法則の美しさ、その後の学問への貢献度など、どの尺度から見てもまさにこの法則の価値は完璧である。その中で、ケプラーが最大の努力で発見したのがその第3法則である。「惑星の公転周期の2乗と軌道半径の3乗の比は一定である。」−− 調和の法則と呼ばれる通り、たいへんな精度で成り立っている美しい法則で、ニュートンの万有引力の法則によって完全に説明された後も現在に至るまで、長くたたえられ、そして利用されている。ケプラーは、この法則の発見によって神の業を見たと信じ陶酔にふけったと自ら書いている。
 
 この「ケプラーの第3法則」を独立発見したと言われている日本人がいる。麻田剛立(1734-1799)である。彼は、ケプラーの発見のおよそ180年後、この法則を独立発見した可能性がある、というのである。もちろん、第一発見者ではないし、惑星運動を研究したはっきりとした証拠があるわけではない。しかし、鎖国下にあった江戸時代の天文学が、どのように発展を遂げ、どのようなところまで研究が進んでいたかを知る上でことは重要である。また、なんといっても、この有名な法則に気づいた日本人がいたというだけでたいへん心強いことではないか。
 
1.背景状況
 麻田剛立や彼の門人については、「銀河鉄道」WWW版第7号の 『西洋の科学、東洋の科学と日本の科学(第2回)』で触れた。麻田剛立はほとんど著述をしなかった人で、彼が開発した暦の計算の記録は残っているが、まとまった著書というものはほとんどない。彼がケプラーの第3法則を発見した、と伝えられているのもその多くは伝聞である。しかし、これを伝えているのは彼の直接の門人であるので、その信憑性は高いと思われている。
 麻田剛立の門人のうち、少なくとも、高橋至時、間重富の2人は、剛立がケプラーの第3法則を知っていたことをはっきりと主張しており、それは文献として残っている。彼らは、剛立の死後、西洋の書物(つまり蘭書)を読んで、ケプラーの第3法則の記述を見つけ、「これは、剛立翁が生前に発見した法則と同じものだ」と指摘しているのである。また、間重富が剛立の存命中にこの法則の解釈を披露した逸話も残っており、間重富の墓碑にも刻まれている。どうやら、麻田剛立がケプラーの第3法則を知っており、それを門人に告げていたことは疑いがないようである。また、門人たちも、それを剛立が発見したものと考えて疑っていない。高橋や間は、門人というよりも共同研究者に近く、剛立の研究成果について彼らの言っていることを疑う理由はあまりない。
 客観的に見て、当時、すでに出版されていた国内の書物、それから中国語の書物(漢籍)には、ケプラーの第3法則に言及しているものはひとつも無かったことがわかっている。西洋の書物の中には、もちろん、この法則について解説したものがあったが、少なくとも、剛立存命中には、彼らのグループの中に、西洋の書物が読める者は一人もいなかった、と考えられる。また、剛立は自分が書物で見つけた学問的内容について、それを秘密にしたり、自分の手柄にすり替えたりするような人ではなく、門人達と一緒に協同で研究を進めるだけの広い度量を持った人であったと伝えられている。
 
 こうなると、可能性はふたつしかない。麻田剛立がケプラーの第3法則をまったく独自に発見したか、 独自にではないが他人(ただし蘭書を読める人、当時の日本には通訳かオランダ人しかいなかった)からヒントを教えられて自分で再確認したか、のどちらかある。当時の天文家で蘭書を読める人はいなかったと考えられるので、剛立は少なくとも最初にケプラーの第3法則を知った日本の天文学者ということになる。また、通訳や日本に来ているオランダ人は天文学者ではないので、ケプラーの第3法則に関してヒントを与えられるほどの人はきっと限られていることであろう。
 
 ひとつ注意しておかないといけないことがある。それは「ケプラーの第3法則」を「地動説」や「ケプラーの第1・第2法則」混同してはならないということである。地動説は、すでに当時日本に伝わっており、西洋の学問事情に明るい人はすでに知っていた。麻田剛立が西洋渡来の情報により地動説を知っていたことは(あとで述べるように)明らかな事実である。ケプラーの第3法則を理解するには地動説の知識は必要となるが、「第3法則の発見=地動説の発見」ではない。また、ケプラーの第1・第2法則も、当時の日本には、すでに漢籍を通じて入ってきていた。そして麻田剛立もそれをすでに理解していた。では、なぜ、漢籍に第1・第2法則は書いてあったのに、第3法則は書かれてなかったのか? その答えは簡単である。第1・第2法則は太陰太陽暦の計算に役に立つが、第3法則は暦の計算に関係なかったから、これを中国の暦学者が学ぶ必要がなかったからである。第3法則は、地動説論争や暦の計算に直接結びつかない「孤高の法則」だったのである。
 
 
2.今回取り上げる文献
 麻田剛立がケプラーの第3法則を知るにいたった状況についての手がかりを得るために、彼が直接関係したと思われる唯一のケプラーの第3法則発見に関する文献である「麻田翁五星距地之奇法」を読んでみよう。 この文献は、たいへん短いもので(あとで全文を紹介して読解する)、彼の門人である西村太冲が麻田の話を聞いて書いたものではないかと言われている。西村は麻田が特別大事にした弟子と言われているので、その可能性は高いが、はっきりとした証拠があるわけではない。題名にはっきり「麻田翁」と書かれているので、この文献の内容が、麻田によって考案された、あるいは、麻田によって語られたのいずれか(あるいは両方)と考えて良いであろう。
 次に「五星距地之奇法」について考えてみよう。これが輝かしいケプラーの第3法則の「日本語での名前」である。ここにいくつかの注目点がある。それは、まず、題名において、「距地」つまり、「地球からの距離」が問題にされていることである。ケプラーの法則は西洋では太陽中心説(日本では「地動説」。太陽中心説と地動説とでは多少の考え方の違いがあるが、それについてはあとで触れる)に基づいているので、本当に問題になるのは「距日」(太陽からの距離)のはずである。五星距地之奇法は、どうやら天動説(西洋では地球中心説)に基づいているものらしい。また、「五星」というのは当時知られていた5つの惑星のことである。つまり、水星、金星、火星、木星、土星のことである。天王星は1782年にイギリスのW.ハーシェルによって発見されたが、剛立の存命中にはそのニュースは日本には伝えられなかった。この惑星のリストに地球は入っていない。天動説に基づいた場合は当然である。あとで見るように五星距地之奇法には、地球のかわりに太陽が挙げられている。つまり、厳密に言うと「五星と太陽の距地の奇法」なのである。
 
 もうひとつ。この法則に冠せられている名前は、「麻田翁」であってケプラーではない。かといって、彼らがケプラーの業績を知らなかったわけではない。彼らは、中国の天文学書を見て、ケプラーの第1法則(惑星は太陽を焦点とする楕円軌道上を運行する)と第2法則(面積速度一定の法則)は知っていたのである。なぜ、第1法則と第2法則は載っていたのに第3法則は載っていなかったか、については上に書いた。
 
 実は、ケプラーの第3法則の日本名はもう一つある。それは「諸曜運行帰一理」というもので、これは間重富の墓碑にある。これは五星距地之奇法と多少意味合いが異なる。五星距地之奇法がケプラーの第3法則の数値的法則の側面そのものを指すのに対し、諸曜運行帰一理というのは、間がこの数値的法則に持たせた意味合い、を指すものらしい。間の説明は、ただ単に麻田翁五星距地之奇法を天秤の釣り合いや振り子の周期とひもの長さの関係のアナロジーで説明したものに過ぎないが、「五星の運動に関する数値がひとつの法則のもとにある」という点で正鵠を得ており、そういう意味で、「諸曜運行帰一理」というのは、問題の本質を付いているのである。
 
本文全文
 では、いよいよ「麻田翁五星距地之奇法」の本文の全文を紹介しよう。そして、その読解は、次回以降に行うこととする。本文は、「大分県先哲叢書・麻田剛立資料集」のページ「麻田翁五星距地之奇法(本)」からとった。
 読みやすくするため、上原が、カタカナを平仮名に改め、濁点と句読点を補い、段落も適当に改めた。漢文調は読み下し、二行割注は括弧内に入れて表現した。漢字も適当に置き換えた。

 
 五星距地之奇法
 諸曜の運行地を距る(地動の説に由れば、即ち日を距る也)遠近に依て其行の遅速斉しからざる、猶垂球の長短に 依て其往来斉しからざるが如し。夫の垂球往来の比例をなす長球往来の方数と短球往来の方数とは、短球の尺と長球 の尺との如し。蓋し、諸曜の運行は猶球の往来の如く、地を距る遠近は猶垂尺の如し。唯、球と天行と気質の同じか らざる故に、其勢ひ斉しからざるに似たり。然りと雖も、其往来運行の方数より変化し遂に基準をなすに至ては、天 行球行、倶に同き所ろあるが如し。

 故に、数の自乗開方より変化し来るものは皆著明の巨数にして、其数の実数に近きものは必ず真数となり、未だ其 真を得ざるものは実測と相離る必ず遠し。紛々たる細数混じり出でて祟りを真数の間になすの類には非ず。

 蓋し、日と五星と倶に地を心(地動の説に由れば、地と五星と倶に日を心とす)とする故、其本天半径を得る、倶 に一法による。然して、月は全く地に属す(地動の説に由て之を観れば、月の地を環行する、猶四小星の木星を環行 するが如し)故に地との比例、又自ら一法となる。其開乗の易簡にして最も奇なるものは木星の四小星にしくなし。 然して月は一物にして外に徴すべき類なし。故に、開乗中其真数を得ると云とも法の杲して真なるか、徹底しがたし。 木星の四小星の如き類をなすもの四にして、其法の真假、僅に徴するに足ると雖も、其実測、未だ密ならざれば、亦 確拠となしがたし。唯、五星と日とは、古今の実測略備り、其類亦多し。故に其法の必ず真にして、実測と基準を得 るものを左に記すのみ。

日一周天(地動の説に由れば地一周天とす)一と為す
日本天半径(地動の説に由れば地本天半径也)一と為す
 或は水星を用て一とし土星を用て一とするも其法皆同じ
土星一周天、日二十九周四二一七余、(合伏より合伏に距る日分秒と日の平行とを用て之を得る。下四星亦同じ)之
を自乗、立方に之を開き、九五三〇四二を得る、即本天半径(次輪心地心を距る数なり。地動の説によれば星日を距
る数也)。
木星一周天、日十一周八五六〇余、之を自乗、方立[ママ]に之を開き、五一九九四七を得る、即本天半径。
火星一周天、日一周八八〇七三余、之を自乗、立方に之を開き、一五二三六五を得る、即本天半径。
金星一周天、日〇周(一周に満たず)六一五二一余、之を自乗、立方に之を開き、〇七二三三五を得る、即本天半径。
水星一周天、日〇周(一周に満たず)二四〇八五余、之を自乗、立方に之を開き、〇三八七一一を得る、即本天半径。

 右は唯其法を記すのみ。細微の数を必とせず。

 これが、少なくとも現存するものの中では、日本で最初に行われたケプラーの第3法則の記述である。麻田の名前は表紙には書かれているが本文には書かれていない。もちろん、ケプラーの名も一切触れられていない。 問題は、ここに書かれている内容を発案したのが誰かということである。            (つづく)